別姓婚賛成派の意見も独りよがりなものが多いのである。

これを見ると夫婦別姓を望む女性たちがずいぶん身勝手な意見を唱えているようにしか見えない。

例えば家族の一体感は不要ということならば別に結婚しなくてもいいじゃない、そもそもどうして結婚しなければならないのか、という根源的な疑問が出てくる。結婚するということと同棲することの違いってあるの?

家族がバラバラでよいのであれば単なる同棲でなんの問題があるのだろうか。逆に言えば結婚するということでいくばくかの優遇があるということはそれに対する束縛が生じて当然であろう。そんな束縛など嫌だ、自由でいたいということであれば優遇は諦めるのが当然である。

法律婚自体が伝統的ではない、事実婚でいいじゃないの、というなら議論はそこで終わる。事実婚は現在でも実態として存在するし、その場合にはむしろ同姓を選択することは不可能である。内縁関係として表現される事実婚で別姓論者が満足するならば現状維持ということで保守主義者も納得するであろう。

事実婚では子の親権は母親の単独親権になるので父親の親としての権利は最初からない。けれども、相続権については婚外子差別はなくなっている。

夫婦の関係としての代理人としての地位は例えば意識を失った配偶者への手術の可否のサインを行う権利や病状の説明を行うときに同席する権利だが、あれって病院がわざわざ役所にその両者が婚姻関係にあるかを確認したところで、個人情報の保護で教えてくれないだろうから両者が同じ姓を使っているかどうかで判断しているような気がする。別姓婚の二人が法律婚をしていて代理人関係にあるのか、それとも単に同棲しているだけなのか、病院側が確認する方法はないのではないか。そうなると、元々事実婚のカップルに同席を許していた緩い方針の病院はそのままだろうけれど、事実婚のパートナーを排除していた厳格な病院では事実婚のカップルと法律婚カップルの区別を確認する必要が出てくるので、説明や治療に関する同意書などのサインの時には結婚証明書を提示しろというしかなくなるのではないだろうか。それ以外に別姓婚と事実婚を外形的に区別する方法は思いつかないのである。

次にこの論者が提示している「結婚には入籍と同時に結婚式、新婚旅行、新居の構え、両家の親兄弟、親族との付き合い等々」については別姓婚にしても必ずしも回避できないものである。逆に私的な関係にとどまる事実婚であれば「公認された法律婚ではない」という理由で両家の親兄弟、親族との付き合いはご遠慮したり、派手な結婚式は控えることもあるかもしれない。けれども、法律婚としての別姓婚であれば公認されたものであるのでむしろ同姓婚と同じように堂々とやるのが当然であろう。もちろん現在の同姓婚においても入籍だけ行って派手な結婚式や新婚旅行を行わないカップルや両家の親兄弟や親族との付き合いを密にしないという選択もあり得るであろう。

また、ここでは述べられていないが、しばしば別姓婚論者の主張に、妻側が一人っ子であり、家名が絶えることを避けたいという主張がある。この場合、家名を継がなければならない妻の家との関係性はむしろ深まらざるを得ないのではないかと思う。夫となった人は妻の家の「代表者」として振る舞わなければならなくなる可能性もあり、その場合は親族との付き合いはむしろ密になる可能性もある。

この場合、妻側にしてみれば夫側の親族との付き合いは重要ではない可能性があり、自分にとって元々親密な妻側の親族との付き合いを考えればよいだけであるが、夫にしてみれば姓の異なる妻の家の代表者として振る舞うことは自分が何かあれば妻の家から追放されやすい関係性を残すので、安定性が損なわれる位置にとどまらざるを得ないことを示し、そのことからアイデンティティクライシスを引き起こしやすい可能性が指摘されるのではないだろうか。つまりは正統性の喪失である。

夫は自分の実家の姓を名乗りながら妻の家の代表者をも兼ねなければならない。そうなると二つの立場を微妙にバランスをとりながら使い分けなければならないわけである。このことはコウモリが飛ぶものであるということで鳥に属し、また、獣にも属し続けるという二つの立場を使い分けることに失敗すると、鳥からも獣からも追放されて居場所がなくなるというイソップの寓話(だったっけ)に相当するであろう。現代ではすでに失敗した時の結果は明らかにされているので、夫は綱から落ちないように渡り続けなければならなくなる。

もう既に夫側の家族のケアは妻の仕事ではなくなっているので、妻は夫側の家族や親族をケアする必要は同性婚でも別姓婚でもなくなってきているの。つまり、別姓婚になって負担がかかるのは夫だけになっている。

じゃあ妻に兄弟がいたら妻が旧姓を名乗っても夫は代表者にならなくても済むから大丈夫よね、っていう人もいるかもしれないけれど、この時に問題になるのは遺産相続であろう。結婚して姓を変えていたとしても遺産相続に名乗りをあげて骨肉の争いを繰り広げる事例には事欠かないわけである。旧姓を維持するということは、親に何かあれば遺産相続には主張するよという意思表示に受け取られるかもしれない。例え夫婦にその気がなかったとしても、妻の兄弟には「こいつはうちの財産を盗みに来たやつだ」という目で見られ続けることになりかねないわけである。

(追記)恐らく、遺産相続レースにおいて、自分たちのかわいい姉もしくは妹に憎悪をぶつけることは難しいので、自分たちの可愛い姉妹は無垢であるはずである。悪いのは外から来た配偶者の彼であるというストーリーを想像することはそれほど難しくはないであろう。遺産相続レースに参加している人にとって自分の姉妹の代わりにその配偶者を憎悪することはそれほど困難ではないであろう。そして自分に憎悪が向けられていない妻は自分の夫が憎悪されているという事実を認めることは簡単ではない。憎悪を発している主は自分の親密な兄弟である。自分にとって親密であるはずの兄弟が自分の配偶者に憎悪を向けていることを納得することは容易ではないことが多いであろう。

そうなると、妻は自分の実家に行くことに何も気兼ねはないけれど、夫が親族の集まる場に行くと針の筵に座らされることになる。妻にしてみればそういう夫の態度は不審に感じられるだろうし、自分の愛しい旧姓や両親・兄弟に対する忌避の態度は自分に対する忌避に感じてしまい、そういうことがきっかけで夫婦の間も疎遠になってゆくかもしれない。

まあ、別姓婚支持者にはフェミニズムの人が多いので、彼女たちにしてみれば、「夫なら針の筵に座らされたくらいで気にするのが間違い。堂々と妻を支えて弁慶のように立ち往生すればよい」ということでこういうことで命をかけられない夫の方が悪い、夫なら妻のためにさっさと死ぬのが当然です、というのかもしれないけれど。

これらの観点を考えるに別姓婚論者の牧歌的かつ空想的なユートピアを無批判に目指す先には阿鼻叫喚が待ち受けているとしか思えないのである。

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