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また“めんどくさいオタク化”が進んでしまった




墓場に入るまであと一体いくつ“純粋な目”を失ってしまうんだろうか。



僕は、まだまだ未熟ではあるものの、特撮・映画好きの端くれだ。

しかしその楽しみ方は、子供の無邪気なものや、一般のライトな層の人達のものと同じでは無いだろう。
Twitterやブログで感想を探しては、考察を読み漁ってきた自分は、作品を分析しロジックを語りたがるようなオタクに、自然となってしまった。


そんな自分にはもう、かつてのような“作品を純粋に楽しむ心”は無い。


もちろん、それが悪いことだとは思っていない。論理を追求するからこその感動も沢山あるし、作品の楽しみ方は大いに広がった。だけどそれと同時に、「モヤモヤの種」が増えたことも残念ながら確かである。



そして僕はまた一つ、“純粋な目”を失ってしまったのだ。


それは言うまでもなく、「日向坂46」について。

日向坂を好きになったばかりの頃は、MVや『ひなあい』を見て、「かわいい」、「おもしろい」と思いながらただ純粋に楽しんでいた。
それが今や、分析、考察に明け暮れる日々。更には新曲を論評し、不満をこぼす始末。

とはいえ、重ね重ねになるが、それらは悪いことでは無いはずだ。分析や、論評、不満を言うことだって、一つの楽しみ方で、応援の仕方であると僕は思っているし、皆さんのnoteやTwitterでの感想も、楽しみにしながら読ませていただいています。


問題は、僕が日向坂46という「アイドルの畑」に、映画オタクの性とも言える「文脈の目線」を持ち込んでしまっていることだ

映画の畑で育ってきた自分は、ことある毎に、
「物語の縦軸は何か」「それぞれの場面にどのような意味合いがあるのか」「各場面がどのように絡み合い終わりへと集束していくのか」「そしてこの物語が伝えたかった一連のテーマは何か」
みないなことをずっと考えている。
(ここで言う「文脈の目線」とは、以上のようなものだと解釈してください。)


そして今では、日向坂46も「文脈の目線」で見てしまっている。

そのようになったのは、ドキュメンタリー映画『3年目のデビュー』を見たことが原因だろう。
それは、日向坂46の「ストーリー性」「パフォーマンス力」を僕に知らしめるには、十分の作品だった。


以前書いた『3年目のデビュー感想文』のnoteでも触れたが、僕自身、『3年目のデビュー』の構成はとても良かったと思っている。

けやき坂を知らない人にも分かりやすい丁寧な導入から入り、「ライブでのパフォーマンス」を物語の縦軸に置くことで、彼女たちの成長や、諦めない姿勢を描いていく。また、随所に配置された「メンバーの卒業」というイベントを効果的に演出して、メンバー同士の絆の深まりを印象づけると共に、誰も見捨てない姿を観せる。
そして、それら全てがラストの『青春の馬』のパフォーマンスに結びついていくのだ。

"私たちは誰も諦めない、誰も見捨てない"というティザービジュアルのキャッチコピーを見事に回収するかのようなその内容は、素晴らしいものだった。(MCUのクソダサキャッチコピーとは大違いである。)

それらをブレることなく2時間にまとめあげた『3年目のデビュー』は、一本の「映画」としてこの上ない出来だったと思うのだ



だからこそ!!
そう思っているからこそ!!!

Twitterで「もっと〇〇(メンバーの名前)が見たかった」、「もっと裏側を見して欲しかった」というような意見を見かけると、言いたくなってしまうんですよ。「あれは一本の映画としての完成度を求めた結果であり、カットされたであろう映像も必要な削りであったんだ。」みたいなことを。僕にとってそれらは、物語の構成上で必要な演出のための、削りであるから。

分かっている。アイドルオタクとして、推しメンの姿やその活躍の裏側が見たいのは、至極真っ当な意見だ。演出がどうこうとかより、もっと色々なメンバーの姿を見せて欲しいと思うのが普通。正しいのは彼らで僕は外野。彼らがマジョリティで、僕がマイノリティだろう。

そんなことを考えていると、ふと気づいてしまうのだ、 "あぁ、めんどくさいオタクになってしまったなぁ" と。



余談ですが、『3年目のデビュー』を見て「もっと各メンバーについて見たかったなぁ」と思った方は、『日向坂46ストーリー』を読むことをオススメします。(もちろん「読んだ上で…」という方もいらっしゃるとは思いますが...)
一人一人の成長にもフォーカスしていて、映画の感動もさらに深まる。映画の副読本として、あれほどまでに完璧なものはないと思います。




さらには、映画で日向坂46の「ストーリー性」と「パフォーマンス力」を目に焼き付けた後だからこそ、新曲に少々物申したくなってしまう。


『My fans』は曲調もかっこよく、パフォーマンスでもメンバーの新たな顔が見れそうで楽しみな曲である。けれど、歌詞だけが少し気になってしまうのだ。


『3年目のデビュー』では、日向坂が苦悩と成長のすえ掴んだ答えとして、「人の背中を押せるような存在になる」 というものを示した。その表れが『青春の馬』であり、まさしく「彼女たちにしか届けられない曲」であったのだ。
それは、日向坂にしかない魅力を探し続けた彼女たちの、アイデンティティの確立であり、これからの「日向坂46ストーリー」のテーマになっていくべきものだったはずだ。
それに、『青春の馬』を見て分かるように、日向坂はその思いを届けられるだけの「パフォーマンス力」を確かに持っている。


だからこそ、その次なる一歩としての新曲、そして集大成としての1stアルバムに、そういったメッセージが込められていないのが、「文脈」としてハマりきらず、どうしても気になってしまう。

乃木坂の清楚さや、上品さ、欅坂の世界観や、反抗心といったような、自分たちだけの「道」を日向坂も見つけた様子を、映画で描いたはずだったのに、これではまた迷ってしまっているようにすら感じる。
「どんな曲でも表現できる」というのも日向坂の魅力の一つだとは思うが、ただ「縦軸」というか、「芯」だけはブレないでいて欲しいと思ってしまうのだ。


『My fans』では、「ファンに対して思った以上に上から目線だった」というのが、日向坂の「芯」から外れてしまっているように思い、心に引っかかってしまった。
でも調べてみると割と評判は良さげだったし、そういう歌詞を肯定している方も多かった。それでもやっぱりモヤモヤするので、夜にこっそりと上記のツイートをしたりしてしまう。

そして思う、 "またますます、めんどくさいオタクになってしまったなぁ" と。



ここまでくると、試練を与え、わざとストーリー性を作り上げるアイドルの売り方に乗せられ過ぎている気もするが、「少しでも物語を演出して乗せようとするのなら、ちゃんと乗せきってくれよ!!!」という思いも正直ある。

アイドルに「文脈」なんかを見い出してしまっている自分が悪いのは、重々承知している。「かわいい」、「癒される」、「元気を貰える」というのが普通の目線だし、僕も実際にその楽しみ方が主である。

しかし、もうそれだけでは見れないのだ。日向坂46というアイドルグループの「文脈」を感じとってしまった、今となっては....。





noteという端末でくらい、このようなモヤモヤを書くことを許していただきたい。


まぁでも『My fans』はメンバー的にもお気に入りの曲みたいだし、外野がとやかく言うことでは無かった気もします。結局最後は、パフォーマンス見て、「最高!!!」と思うはずですしね。何なら、今だってもう口ずさんでしまっているし。何度も言っていますが、「彼女たちが楽しく活動できること」が、僕にとっての一番ですから。

ただ秋元さんは!!色々と頼みますよ!!!


あとは『ただがむしゃらに』がまだ可能性を感じるけど、「期待していない自分」でいるのがベストかな……手のひら返しするかもしれません。というか寧ろ、手のひら返しさせてくれ……。




こんなめんどくさい僕のことも、
日向坂は“My fans”として認めてくれるだろうか。





最後まで読んで下さりありがとうございました。

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