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『3年目のデビュー』を見て泣けなかった僕にとっての、「涙」について考える




自分は日向坂46のドキュメンタリー映画、『3年目のデビュー』を見て泣けなかった。


誤解の無いように言っておくと、映画は素晴らしいものだったし、大いに感動もした。感想についてはこちらのnoteでたっぷり語っているので、ご確認いただきたい。




もちろん、涙腺が刺激される場面は幾つもあったのだが、涙が頬を流れることは無かったのだ。

Twitter上では「泣けた」という感想を誰もが呟いていた。その中で僕だけが仲間はずれのようだった。


なぜ僕は泣けなかったのか


その理由をnoteに書き起こしながら、考えていきたいと思う。


念押しとはなるが、泣けなかったことに映画の内容は全く関係がない。構成も内容も、映画自体は最高の作品だった。


今回のことは自分自身に原因がある。

これから話すのは、「僕にとってどんな感情が涙に結びつくのか」という話だ。





悲しみ≠涙



僕は今回、初めてドキュメンタリー映画というものを見た。
「映画を見て泣く」ということ自体は何度も経験しているので、泣く気満々で観賞には臨んだ。
しかし、見ていくなかでだんだん気づいていってしまった。「これは泣けそうにないな」と。


これは推測になってしまうのだが、『3年目のデビュー』を見て泣いた方々は所謂「もらい泣き」をしたのだと思う。


僕は、この「もらい泣き」をほぼ経験したことが無い。


「もらい泣き」というのは、人間のみが持っている「共感脳」が、自分以外の誰かの心情に共感することで引き起こされる現象だそうだ。つまり『3年目のデビュー』で泣いた方々は、メンバーの流す涙を見てその悲しみや苦しみに共感し、涙したのだと思われる。

裏を返せば、僕はその悲しみに共感できなかったということだ。


その原因には、僕が「悲しみ」と「涙」が結びつかない、言うなれば「悲しみ≠涙」の感覚を持っていることがあると思う。


改めて思い返すと、僕は卒業式や、部活の大会で負けた時などに泣いたことがなかった。もちろん、「悔しさ」や「悲しさ」を感じてはいる。しかし、それが涙に結びつく感覚が自分の中に無かったのではないだろうか。
また、そういう場面にこそ「もらい泣き」出来ればいいのだけれど、上記の感覚が無いために、共感も上手くできない。あとこれはある小説の受け売りだが、「泣いている本人が一番辛い筈なのに、自分がその思いを勝手に想像して泣くことはお門違いだ」という考えも、心の片隅にあると思う。

そうはいっても、僕だって泣けるのならば泣きたかった。それに周りの皆が泣いているのに、自分だけ涙が出ないという状況を何度も経験すると、「自分は人間としての感情が何か欠けてしまっているのかもしれない」とすら思えてきてしまう。


そんな中で、「もらい泣き」について調べていくうちに新たな情報を見つけることが出来た。

それは、 「泣けない人は涙をコントロールする機能が強い可能性がある」 というものだ。

脳には「切替脳」という怒りや涙を抑える機能があり、『感情的に泣くな』と脳へ絶えず司令してきた結果、人格として“泣かない自分”が形成されることもある、という話である。

これを聞いてかなり納得がいってしまった。


僕は、感情をあまり表に出すタイプでは無い。

そうなってしまったのは、「悲しみ」を始めとした、「怒り」、「不満」、「苦しみ」といった感情を外に出しても、理解されないし、何も解決しないということを、これまでの人生の中で学んでしまったからだと思う。そして今では、感情を露わにするどころか、そういった感情を抱いてしまった自分にすら、嫌悪感を感じるようになってしまっている。

恐らく無意識のうちに、『感情を抑えろ』という司令を僕の脳は出し続けてしまったのだろう。だから“人前で泣けない人”になってしまったのだ。


確かに、様々な感情を溜め込んだ結果、限界がきてしまった時、僕はいつだって1人で泣いていた。
僕が涙を流す時に必要なのは、「孤独」なのかもしれない。

もしかしたら、映画を1人で見に行きたいと思うのも、それが原因なんじゃないだろうか。




………と、以上が僕が『3年目のデビュー』を見て泣けなかった原因の考察である。
結論がまとまりきらず、推量ばかりの散文的な文章になってしまったが、この話については一先ずここで筆を置こう。



話題を変えて、ここからは「では僕はどんな時に泣けるのか」ということについて考えていきたい。


調べてみたところによると、涙を流すという行為は副交感神経を刺激するので、癒しを与えたり、ストレスを解消する効果があるそうだ。
なので定期的に涙を流してストレス解消が出来るように、自分にとっての“泣きのツボ”持っておくといいらしい。

ということで後半は、僕の“泣きのツボ”を探していこうと思う。

もうしばらくお付き合いください。





1. 1人じゃない



さて、ざっと今まで泣いたことのあるシーンを思い出してみたところ、1つの共通点を見つけることが出来た。


そこに現れていたのは、誰かが誰かのことを思う“熱い想い”だった。

特に、“1人じゃない” というメッセージに、僕はどうしようもなく心を揺さぶられてしまうようだ。


有名どころから例を上げてみようと思う。

例えば、漫画『ワンピース』の、エースを亡くしたルフィが自分の弱さを嘆くシーン。ジンベエから「お前にまだ残っているものはなんじゃ!!!」と問われたルフィは、一味の顔を思い出しながら言う。

"仲 間 が い る゛よ !!!! "

このシーンでルフィは泣いているが、僕はその涙にもらい泣きするというよりも、ルフィが「1人じゃない」と気づくことにこそ涙してしまう。
麦わらの一味関連のシーンは、この「1人じゃない、仲間がいる」という場面が多いので、泣けるポイントばかりだ。




もう1つ、映画『サマーウォーズ』の終盤から。
ラブマシーンとの花札戦に挑んだ夏希だったが、アカウントを奪われゲームを続けられなくなってしまう。追い詰められた夏希の目の前で、点滅する数字が、1つ増える。

"ナツキへ
僕のアカウントをどうぞ使って下さい。"

この後の世界中からアカウントが集まってくる流れで、やっぱり泣いてしまう。映し出される世界中の人々と、画面いっぱいのアバターたち。1人で戦っているわけじゃない、離れていても繋がっている。そのメッセージが、僕の涙を誘うのだ。現実のインターネットも、こんな風に相手を思う優しい気持ちで繋がれたらいいのに。




他にも、『ウルトラマンジード』第12話や、『ウルトラマンタイガ』第16話などについても例として語りたいところだが、長くなってしまうので割愛。



前半の考察も含めると、僕が"1人じゃない"というメッセージに涙してしまうのは、「孤独」に苦しんできた人間だからなのかなとも思える。

また僕は、泣いている側より、泣いている人を支える側の方に、感動してしまう人間なんじゃないだろうか

泣いている人の悲しみを受け止め、寄り添い、背中を押す。その関係性こそが、僕の心には響いているのかもしれない。







2. 文脈・映像の“アツさ”



映画そのものに込められた文脈や、素晴らしい映像に感動して、涙してしまうことがある。
それを僕の乏しい語彙力で表現するのなら、“アツさ”としか言いようがないだろう。


これについては、普段から愛読している〈結騎了さん〉のブログから、記事を一つご紹介させていただきたい。僕自身、この涙に気づくキッカケともなった大好きな記事だ。



僕も結騎さんのように、「『パシフィック・リム』冒頭の出撃シーンで泣いてしまう人」である。
まぁ実際には『パシフィック・リム』を初めて見た時はレンタルビデオで、しかもまだ小学生だったので、泣くことはなかったのだけれど、、、今また映画館で見れるのならば、泣いてしまうだろう。


同じような涙を初めて経験したのは、中学生になり『ジュラシック・ワールド』を映画館に見に行った時だった。

映画序盤の兄弟がパークに入場するシーン。
パークの門をくぐるのと共に懐かしい音楽が流れ始め、グレイのはやる気持ちにつられるように、高揚感が高まっていく。そしてホテルに着いたグレイが、ベランダの扉を開ける。

目の前に広がる「ジュラシック・ワールド」

高らかに鳴り響く大好きなあの音楽


気づいたら、一筋の涙が僕の頬を伝っていた。


「ジュラシック・パーク」シリーズは子供の頃から見てきていたし、何度も聴いたテーマソング、幼い頃に乗ったUSJのアトラクションなど、全てを含めて思い入れのある大好きな作品だった。それは作品自体と僕自身の間にある歴史、言うなれば “文脈” である。

その文脈の集結した瞬間を、こだわり尽くされた演出、“映像”で見せられた時、僕は涙してしまった。

「やっと出会えた」

目に映るパークを眺めながら、そんなことを思っていた気がする。
ダメ押しに、ラストの「パークを見据えたT-レックスの咆哮そしてエンドロール」の流れでも泣いた。


『アベンジャーズ/エンドゲーム』や『仮面ライダー/平成ジェネレーションズFOREVER』でボロボロ号泣してしまったのも、この文脈と映像によるものが大きかっただろう。



この種の涙は、狙って出会えるものではない。

でもだからこそ、この感動と鳥肌を味わえる瞬間を楽しみにしながら、僕はこれからも映画館に足を運ぼうと思う。





終わりに



今回の文章は、自分自身と向き合う作業ばかりだったので骨が折れた。
でもおかげで、今までの泣けなかった理由や、“泣きのツボ”が少しわかったので良かったと思う。

結論としては、自分は泣いている側ではなく、泣いている人を支える側に感動してしまう、というのが一番しっくりきている。
実際『3年目のデビュー』でも、「井口に駆け寄るメンバー」や、「青春の馬のパフォーマンスで濱岸ひよりの手を取る金村美玖」などに、一番涙腺を刺激されていた。


兎にも角にも、泣けなかったことにもちゃんと原因があって、悪いことではないと思えたことが、今回のnoteを書いたことの何よりの収穫だろう。


皆さんも自分の“泣きのツボ”を探してみてはいかがでしょうか?


最後まで読んで下さりありがとうございます。

それでは。


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