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真の天皇陵か!~御嶺山(ごりょうやま)古墳~

 大阪府太子町太子の丘陵頂上部の南斜面にある。夏期は草に覆われ、とても古墳にはたどり着くことは困難だ。見学するならブドウの収穫が終わる秋から冬期しかない。道に迷いながら古墳を”発見”した時の爽快感は、何物にも代えがたい。この古墳、観察すればするほど、とてつもなく凄い古墳であることを知るのである。

石室の間に手を入れ、懐中電灯で内部を照らす
上から見た石室内部(中央に穴が穿たれている)

 石室内部は真っ暗で何も見えない。懐中電灯の明かりで下を照らしてみた。(下写真)石室内には台座のような石材があり、その中央は穴が穿たれていた。何かはめ込むための穴だろうか?しかし、これだけではわからない。(これは棺を置く台座で、長さ1.97m、幅1.29m、厚さ0.38mもあり、凝灰岩製の一枚石である。)

南から奥壁を見る(天井端部分は曲線となる。)
内部に侵入、南壁から入口を見る

 石室(詳しくは石槨という。)の内部に入室。高さは1.81mある。一人の入室は極めて危険だ!最低でも二人連れで見学して頂きたい。(携帯電話の電波が届かない。内部から大声で助けを求めることになる。)さて、内部の壁は天井石1石、底石1石、東壁2石、西壁2石、北壁1石、南壁1石の合計8石からなる。長さ2.2m、幅1.45m、高さ1.81mを測る。奥壁(上写真)には赤色顔料が塗られているそうだが、よくわからない。

格狭間(こうざま)の部位用語

 この古墳の台座、棺台の側面には「格狭間(こうざま)」が彫り込まれている。石室のも櫃のような形をしており、明日香村の中尾山古墳と似ている。格狭間とは、「基壇、台座の側面の長方形部分を飾る特殊な刳方(くりかた)。台の脚に付けられた装飾から変化したもの。」とある。実際の写真を見て頂こう。

北面の格狭間
南面の格狭間


西面の格狭間(赤色顔料が見える)
東面の格狭間

 石室内の台座に「格狭間」が彫り込まれている。これは古墳である。この文様は日本独自で生まれたものではない。そこには仏教と共に伝えられた文物の文様である。つまり古墳に葬られた人物は、確実に仏教色に彩られた人物であることがわかる。同時期の例として、法隆寺玉虫厨子台座坂田寺金堂基壇(奈良県)、崇福寺(すうふくじ)舎利容器脚台(滋賀県)がある。この中でも最も古く、墓に採用された例として特筆されるものだろう。古墳の築造時期は石室(石槨)の特徴から7世紀末葉(690年代)頃とのことだ。また、壁との隙間は約8㎝ほどしかない。つまり石室内に台座を入れた後「格狭間」を彫り込む作業は不可能だ。台座の上に棺を安置した状況でしばらくの期間を経て(殯・モガリという)儀式が終わると周囲の壁を設置し、最後に天井の石を添え付けたものと思われる。

石室南側の盗掘坑

 古墳が位置する丘陵周辺は一面ブドウ畑が広がる。墳丘は破壊されて天井石だけが残る。(上写真)出土遺物は黒漆塗りの蒲鉾形した木棺、金具、施錠式の金具、琥珀製の棗(なつめ)玉、ガラス丸玉数点である。つまり徹底的に盗掘されていたのである。
 「格狭間」を彫り込んだ棺の台座と蒲鉾形の黒漆塗りの木棺を安置している状況は、日本で唯一の古墳である。墳丘は直径約30mの円墳としているが、正式な調査がなされた訳ではない。墳丘の形は恐らく八角形であろう。そして、葬られた人物は、孝徳天皇(596~654)であろう。天皇の死亡推定年(654年)と古墳の築造時期(690年)との差が36年もあるが、これは当時の風習である改葬された墓、つまり改葬墓と考えれば理解しやすい。
 大阪府太子町の丘陵上にひっそりと存在する古墳。御嶺山古墳は、決して埋もれてはいけない古墳である。何故なら、それは現在の宮内庁が管理する筈の”真の天皇陵”だったからである!数奇な運命を辿った孝徳天皇は天上界で何を思っているのだろうか!


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