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飛鳥、明日香、アスカ~古代飛鳥人からのプレゼント~世界遺産登録と雑感①

 飛鳥、明日香、アスカ、色々な使い方があるが、ここでは飛鳥という漢字を使用する。飛鳥について新しい情報というものを述べるのではない。飛鳥について思うことを雑談風に述べてみたい。

整備完成後の牽牛子塚古墳(南から)

 『飛鳥・藤原の首都とその関連資産群』として世界文化遺産登録を目指している地域である。時代として6世紀末葉から8世紀(平城京遷都まで)の約100年間、登録理由として東アジア(中国、韓国等)との交流、我が国における国つくりが初めて完成した(律令国家という)遺跡が存在することである。
 世界遺産に登録されることは非常に喜ばしいことである。それに伴って遺跡群(古墳や宮殿)の新材料を得るための発掘調査も行われていることも記憶に新しい。しかしその一方で道路が舗装され、上記写真の様な異常なまでの復元整備がおこなわている。数十年前の田園風景は何処へいってしまったのだろうか。世界遺産登録は町おこし、観光産業の需要喚起の起爆剤といわれて久しい。しかしその後はどうだろう。石見銀山、古市百舌鳥古墳群等も各自治体の努力の割に費用対効果は決して芳しくないのではないだろうか?
飛鳥・藤原地域もブームが一過性にならないように祈念したい。

陶板製の復元模型(牽牛子塚古墳と越塚御門古墳)

 私が小学生の頃(昭和50年代)の飛鳥は、田園風景が広がり雑草が生い茂る小道のアップダウンを歩いたものである。遥かに見える山並みと古墳の高まりが点々と見え、サイクリングを楽しむアベックが通り過ぎる、そんなイメージであった。高松塚古墳は簡単な柵に囲まれ異常に傾斜する小山、という印象がある。その当時はキトラ古墳の発見もなかった。飛鳥駅から東へ降りてまずは高松塚古墳を目指す。文武天皇陵は木々で見えない。宮内庁の陵墓であることなど知る由もない。思えば飛鳥駅から西方面には歩いていない。徒歩数分で、かの岩屋山古墳の最高級切石石室を見学するまで、それから数十年を要している。真弓カンス塚古墳乾城古墳、与楽カンス塚(白壁塚古墳は未発見)等、全くノーマークだ。マルコ山古墳は第二の壁画が期待される!とマスコミが連日大騒ぎしていたのを記憶している。残念ながら?壁画はなかった。何故、壁画がある古墳と、ない古墳が存在するのだろう。束明神古墳の大フィーバーは二十歳過ぎの出来事だ。高松塚古墳と双璧に知名度の高い石舞台古墳は、いつ見学しても圧倒された。このように飛鳥の主要古墳を羅列しているだけでも”それぞれの顔”があり実に楽しい。

菖蒲池古墳の説明板
巨大な石棺(家、四柱形)が見学できる
誰が葬られていたのか?

 飛鳥から少し離れる位置に、菖蒲池古墳がある。(近隣には植山古墳が整備中であるが。)一見地味な存在であるが、極めて重要な古墳である。上記写真のように巨大な石棺が、さらに奥に1棺と計2棺が石室の前後に安置されている。底が埋もれているので高さはわからないが、かなりの大きさだ。残念ながら整備途中なので中途半端な見学しかできない。できれば底を清掃、調査して奥の棺まで見学できるように望みたい。被葬者の二人は、「乙巳の変」で自害、暗殺された蘇我蝦夷、入鹿親子との興味深い説もある。当否は別として古代史の舞台に引き込まれていく自分がいる。

都塚古墳の石棺

 飛鳥の実態は未だ謎だらけである。まず何故、このような狭い地域に日本最初の宮殿が築かれたのか。その所在地も、ある程度推定されるが決定ではない。そして我が国初の仏教寺院(飛鳥寺)が建立されている。東京のスカイツリーの様なイメージだろうか。飛鳥の宮殿は板葺きであり瓦が使用されるのは藤原京からだという。それらの宮殿と瓦の葺かれた寺院が隣り合わせで存在する。新旧混在する都であったのだ。さらに上記の古墳が存在している。それも同じような構造のものはなく、個性派揃いである。亀石、酒船石、猿石など謎の石造物もある。飛鳥時代の僅か100年間でも、課題は山積みである。古墳時代以前の弥生、縄文時代の飛鳥はどうなのか?思えば飛鳥は古代日本の首都なのだ!今の東京の様に人々がうごめき、外国人が集い、日々新たな情報の"るつぼ"であった場所なのだ。田園風景に古代飛鳥を重ねるのは誤りであり、今の整備された飛鳥の風景そのものが古代飛鳥の本来の姿だったとみてよい。飛鳥を考えるだけで時を忘れてしまうのは、古代飛鳥人からのプレゼントだと思いたい。酷暑の夏を避けて秋の季節にまた訪れたくなった。


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