天皇陵になれなかった巨大王墓~津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地)~
暑さ寒さも彼岸までというが、2024年9月23日の昼下がり古市古墳群を歩くことにした。頬を伝わる風は昨日の風とはうって変わって涼しかった。夏から秋を体感した瞬間である。年に一度しかない体験である。ならば巨大な古墳を歩くに限る。しかし巨大古墳の多くが天皇陵に治定されていて入れない。しかし数少ない巨大古墳を歩くことができる場所がある、大阪府藤井寺市小山にある津堂城山古墳である。では、ゆっくり歩いてみよう。
古墳の名称は津堂城山(つどうしろやま)古墳である。津堂は地名、城山はご存知の通りかつては城跡であった。というより古墳の墳丘が城に利用されたのである。城の名称は「小山城」で地名に小山とある。城は南北朝時代の築造で城主は志貴右衛門、後に代々安見氏であり天正3年(1575)に廃城となっている。石垣はなく現在の内濠が城の堀で墳丘が曲輪となる。土塁があったか否かは不明である。ここで疑問に思うのは何故、他に允恭天皇陵や仲津姫皇后陵や応神天皇陵等の巨大古墳が城に利用されず、津堂城山古墳に”白羽の矢”が立ったのだろう。(応神天皇陵は中世に八幡社として利用された。)恐らく南北朝時代には古墳は荒れ果て単なる小山の状況であったのだろう。古墳の周濠は内濠に再利用され当時は水を湛えていた可能性が高い。城に利用されなかった天皇陵は陵(みささぎ)としての神聖さが保ち続けられていたのであろう。
古墳の大きさを体感するには、とにかく歩くことだ。周辺の道を歩くだけで約800mはある。古墳は、墳丘長208m、前方部幅121m、高さ12.7m、後円部径128m、高さ16.9mを測る。巨大古墳では全国29位であるが、この順位は余り意味がない。当古墳の築造年代は4世紀後半とある。つまりその時代を輪切りにして(同時期と思われる古墳を横並びにして)比較する必要があるのだ。そうみると世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」内で、何とNo.1!なのである。つまり最初の巨大古墳出現ということなのだ。これはエポックメーキングの古墳と考える他ない。
明治45年(1912)上写真部分から竪穴式石槨が発見(盗掘?)された。石槨内には巨大な長持形石棺が安置されていた。巨大古墳の埋葬施設中心部を掘ることなど現在では考えられない。(当時は文化財保護法もなく大らかな時代だったのだろう。)石棺は長さ3.4m、幅1.6m、高さ1.8mにも及ぶもので人物(坪井正五郎博士)の身長から比較しても大きさがわかる。またガイダンス施設の「まほらしろやま」には復元石棺があり是非訪れていただきたい。(一部、竪穴式石槨の天井石も野外展示されている。)
これらの石材は兵庫県加古川市・高砂市付近で産出するいわゆる竜山石であるという。つまり海路?でここまで運搬したのだ。一大デモンストレーションであったことは想像に難くない。これは尋常ではない。紛れもなく百舌鳥・古市古墳群で最初の王墓である。残念ながら古墳の墳丘の大半が小山城築城にて破壊されていた。しかし石棺の発見によって、これは王墓であり天皇家の墓に違いないということで、後円部のみ宮内庁指定となったのである。残念ながら○○天皇陵という固有名詞がつくことはなかったが。
古代を妄想しながら小高い古墳を歩き、内濠の水面に繁茂している水草をぼんやり見ていた。スイレンとある。美しい花を咲かせるそうだが、残念ながら花は全くなかった。
4世紀後半にこの地域で初めての巨大古墳造営プロジェクトが開始された。平面形は二重の周濠と堤が完備されてもので、当該地では最初の大土木工事である。葬られた王の棺は竜山石という最高級ブランドが用意された。周辺の地域にはこれ以上の巨大な古墳はなかった。時代を経て古墳の主は忘れ去られ、戦国の世には城に再利用された。奇跡的に中心部の棺だけは、かろうじて残った。明治になりその棺が暴かれることになり、驚いた人々は王墓であることを再認識することになる。やがて後円部のみ宮内庁が管理をすることになる。結果、天皇陵クラスだが古墳は荒れ果て、埋葬施設までも暴かれてしまい、格落ちの陵墓参考地(誰が葬られたかわからないが、天皇陵に近いもの)となってしまった。他のエリアは国の史跡として永久保存されることになる。陵墓参考地とはまさに、眼前にある花の咲いていないスイレンを表している様な気がしてならない。
あの時、城に利用されなければ…今頃は正面に鳥居と拝所が設けられ、濠には水が湛えられ木々が生い茂った天皇陵となっていた…かも知れない。そうなると、永久に古墳内を気軽に歩けることもないのである。歴史の矛盾とはこのような事をいうのだろうか…。
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