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沖縄県最古の亀甲墓~伊江御殿墓~(ieudun)

 沖縄県最古の亀甲墓(1687年建造)である。琉球王族・伊江御殿(王家の分家)の墓であり、第二尚氏王統第4代尚清王の第7王子、伊江王子朝義を元祖とする御殿とある。このような系譜は机上では理解できないし覚えることも難しいだろう。やはり墓参りをして墓石を前にゆっくりと何度も反復して読むと、第二尚氏という王家の強大さ権力がわかる。

お洒落な説明板フレーム

 沖縄県那覇市首里石嶺町の住宅街の中にある。伊江家代々の墓地内にあり、入口の扉を開けて参拝させていただいた。緩い階段を少し登りつめるとそこにある。2月中頃(2024年)というのに沖縄は暑い。しばらく掃除をされていないのか草が生え放題で全体の形式、特に墓庭や屋根部分は見えなかった。

入口から墓庭、墓口、袖石、眉部分が見える。

 

墓口正面(眉、左右の袖石、左右の臼、香炉台)

 墓の背面は急傾斜となっており、そこに墓室を造っている。墓室はアーチ形のいわゆるマチ墓である。墓室前のサンミデー、袖石、袖垣、墓庭、屋根、ヤジョーマーイ(屋根回り)、臼(ウーシー)等が完備されており、ヒンプン(屏風)だけが無い。これらの良好な状況と、下記要素、
①年代(1687年)の分かる最古の亀甲墓であること。(沖縄(琉球)のお墓について(Ⅱ)の巻頭写真「護佐丸の墓」も同時期とのことである。)
②確実に王族の墓であること。
③亀甲墓の変遷を考える上で指標となること。
等から、1999年に国の重要文化財となった。文化財では最もランクの高いものである。


墓庭入口から正面を見る

 沖縄県では清明(シーミ―)祭前の墓の状況は草が繁茂しており、数日間費やして墓掃除をするということを聞いた。まさにその状況である。今回、取材させていただいた墓は今も祭祀が継続している個人墓である、興味本位で見るのでなく数枚の写真を撮影した後、早々に失礼した。、草が刈り取られて完全に見学できる時期に再訪問させていただきたくことを心に念じ、手を合わせた。
 そこで清明祭について簡単に説明しよう。本土の人間は全くわからない風習だ。親戚縁者たちが墓に集まり、餅やウサンミ(魚の天ぷら、昆布、豚肉、蒲鉾、あげ豆腐等)を重箱に詰めて、お菓子、果物、お酒と一緒に墓前に供え、先祖にお祈り(御願)する。その後は飲んで食べて、歌や踊りまで出る宴会となるそうだ。まさに先祖(神)との共飲共食(きょういんきょうしょく)である。それらが沖縄各地の墓地で行われる。何と明るい光景だろう。そこには本土の墓参りの様な何か陰鬱で形式だけの墓参りではない。墓は単なる人が埋葬されているだけの箱や容器でははなく、今を生きる人間と祖先との交信場所になっているのである。
  沖縄の旅も間もなく終わろうとしている。余暇を利用して沖縄各地の墓について取材してきた。主要な墓は見学できた様に思うが、時間の関係上スルーせざるを得なかった重要な墓も多い。これは今後、訪問時の楽しみにしておこう。
 沖縄の墓を通じて、人々の祖先に対する信仰心、情の深さを度々目の当たりにしてきた。本土には新興宗教も含め多種多様な宗教がある。しかし沖縄は自然崇拝(海神、太陽神)のみといってよい。(異論はあるが。)狭い島国の中で世界史に残る琉球王朝が育まれてきた。王族の墓の前で琉球王達が何を語りかけてくれたのかはユタでないのでわからないが、少しだけ”内なんちゅ”の一員にになれたような気がしている。そして、仮にこれらの取材が少しでも沖縄(琉球)の墓や文化について興味をそそる手がかり(足がかり)になれば嬉しい限りである。

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