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なぜ、物部大連守屋の祠が四天王寺に?

 物部氏について以前から記している。一般的に物部氏は古代有数の大豪族であり、軍事を司り国内の神々を崇拝する土着の豪族とされている。一方仏教という当時の新興宗教を携え、外来文化を取り入れた氏族、というより外来氏族であるから自国の先進技術を取り入れようとした氏族である蘇我氏。新宗教の反対派と推進派との激突!と歴史の教科書では実に面白く語られている。結果は蘇我氏が勝利し、蘇我軍にて参戦していた厩戸皇子は、誓いを立てた証として後に四天王寺を建立した。その境内にひっそりと守屋祠という祠堂があるのだが、参拝する者はおろかその存在すら知らない方々が多いのも事実だ。このたび満を持して参拝することができたので記してみたい。

石の鳥居、上には「釈迦如来法輪を転じ給ふところ、極楽の東門の中心に当たる」とある
西大門(極楽門とよばれ石の鳥居の東に位置する)

 ご覧の様に本日は人で溢れかえっている。厩戸皇子⇒聖徳太子の月命日に当たる二十二日の縁日なのだ。路傍には骨董店、古着屋、猿回しの大道芸の会場ありと大変活気に溢れている。しかし目的はそれではない。毎月1度しか参拝できない「守屋祠」を見るために来たのである。その祠がある「聖霊院」を目指して歩いた。なお、上記写真は石の鳥居と西大門である。春秋の彼岸の中日に、太陽がこの鳥居の中心にあたり、西の海(当時、寺の西側は斜面地となっており海が入り込んでいたという)に入る。正に日が沈む西側に極楽浄土があるという舞台であり、両鳥居は舞台装置とも言えるだろう。「日想観」とも言う。水平線に沈む太陽を見て不安な日常から少しでも開放され、安心した世界へと一瞬でも感じる場所。今でいうパワスポだったのだ。

聖霊殿(太子殿)虎之門(西から)
手前に前殿(拝殿)と八角円堂の奥殿を望む(南から)
砂の地面を歩かず、歩きにくい石ブロックを進む(南から)
四天王寺の夢殿か!奥殿(下が八角形の石組、上は円形の八角円堂だ)

「聖霊院」へ入る。向かうは「守屋祠」だ。人の多い拝殿を横目に裏側の歩き辛い石ブロックを北へ。法隆寺の夢殿を彷彿とさせる奥殿を左に見る。そこには、鮮やかな朱色で塗られた祠がひっそりとあった。守屋祠である。

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