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綿津見大神をみた古墳~島根県益田市鵜ノ鼻古墳群G-1号墳~
鵜ノ鼻(うのはな)古墳群は、島根県益田市遠田町の東西約300m×南北約200m程の半島状に突き出た丘陵上につくられた、石見地方を代表する古墳群(群集墳)である。これは以前に訪れたものであるが、群集墳の中にあってとても気になる古墳(登録上G-1号墳とされている。)があったので紹介しておきたい。
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益田市に在住する知人の案内で、この地域で最も多く古墳が集中している(群集墳という)鵜ノ鼻古墳群を見学することになった。この古墳群は1950年に郷土史家の矢富熊一郎氏が開発や鉄道敷設に伴う古墳群の破壊を憂いて、自ら踏査を敢行し調査結果を著作『鵜ノ鼻古墳群』として結実させた。それによると総数53基(うち前方後円墳2基、方基円墳1基、他は円墳)としている。当然、それ以前に多数の古墳が破壊されたものと思われるので、100基近くは存在した可能性がある。65年後の2015年の島根県庁古代文化センター調査では、38基(うち前方後円墳4基、方墳4基、他は円(楕円)墳)としている。要するに半島状に突き出た岬周辺に直径10m程度の円形の(楕円形が多い特徴がある)古墳が沢山つくられた状況といえば理解しやすい。
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標高21mを測る丘陵の平坦地、土饅頭のような墳丘がある場所から海に向かって下った場所にG-1号墳はあった。上写真の古墳正面の標高は約4mなので実に17mもの比高差がある。記録によると古墳の形は楕円形で、長径9m、短径7.7m、高さ2.2mを測る。場所は急斜面だ。背後をL字状に掘り込んで形を整えているらしい。(上写真、後方に笹が生い茂っている部分が窪んでおり急激に上方が崖面になる。)
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石室は横穴式石室である。天井部分の石材が倒れ込んでおり、多少の危険を感じながら入る。石材は周辺に露頭する通称”鵜ノ鼻安山岩”と呼ばれる石材を使用している。石室長6.0m、玄室長2.2m、奥壁幅1.55m、高さ2.0mを測る。石室に入り奥壁を見る。近畿の巨石古墳を見慣れている者にとって何の変哲もない普通(以下)の石室という印象だ。しかしいざ石室を出ようと眼前を見た光景に身体の震えが止まらなかった。
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何という光景だろう。古墳の眼前は日本海だ!季節は冬の日本海でしかも雨天である。体感温度が下がって身体が震えているのではない。この光景に心が震えているのだ。この小さな古墳に葬られた人物は一体何を思い、この海岸の汀線という苛酷な場所を選び、自らの古墳をつくったのであろうか。台風や大波の際には水没は必至だ。上方にある多くの古墳ではなく、身分のの差が理由でこの場所にしかつくれなかったのであろうか。いやむしろ海原の向こうにある綿津見(ワタツミ)大神という海神に祈りを捧げた、鵜ノ鼻古墳群全体の守護神的な古墳としてつくられたのではあるまいか!
G-1号墳は全国各地の古墳の中でも極めて特異な立地、苛酷な環境下でつくられていた。石室の開口方向が北西(海側)を向いているということは、古墳の被葬者は海の彼方にある常世の国(不老不死の世界)を求めた鵜ノ鼻古墳群に葬られた集団を守る、巫女的な方ではないだろうか。それはきっと沖縄で学んだニライカナイを求める”ノロ”のような女性であったに違いない。