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「沖縄久高島のイザイホー」・「沖縄の久高島のイラブ―」(2023年デジタル・リメーク版)雑感

 先日、近隣の映画館にて「沖縄久高島のイザイホー」・「沖縄久高島のイラブ―」を二週にわたり上映していたので見ることにした。久高島には二度訪問しているが、神の島にまつわる最も重要なこと、つまり神事(イザイホー)については全く知り得なかったので貴重な機会を得た。その感想について述べることにしたい。

久高島を望む、日出る島、まさに神の島だ!

 久高島の説明は敢えてしない。改めて祭礼「イザイホー」とは何か?から始めよう。
①場所:沖縄県南城市久高島(首里の東方に位置する。神の島とされる。)
②祭祀の行われる年:12年に一度(牛の年)
③組織内容:ノロ(巫女)を中心とした女性組織
⓸資格者:久高島出身者、30歳以上の既婚女性(夫も久高島出身者でなければならない。)
⑤祭祀内容:⓸が神女となる通過儀礼⇒イザイホーと呼称される。
⑥イザイホーという名称の由来⇒不明であるが、祭祀での歌詞(祭祀歌謡)のなかにその言葉がある。
⑦沖縄は古来から女性中心に祭祀儀礼が行われ、男性は政治的役割を担う伝統があった。(琉球王国または首里王府ともいう)
⑧なぜこの祭祀が重要なのか?⇒我が国の古代祭祀を今に伝える可能性。

恐ろしいまでの美しい海(久高島)

イザイホー」の上映時間は110分であるが、上記写真のような海岸シーンは全く出てこない。あくまでも祭祀が行われる周辺の建物や儀礼シーンのみである。白装束をまとった女性たちが踊る様は、まさに神懸かりというもので異様な光景であった。後半約20分間は祭祀歌謡が続く。同じフレーズと抑揚は上映が終了しても耳から離れなかった。また、何故かそこには楽器が無かった。エイサーで使用する太鼓や沖縄の代表的楽器三進もない。あるのは男性が叩く小さな太鼓のみで、女性の口頭から発する歌しかない。

イザイホーのワンシーン

イザイホー」は後継者不足や諸問題で46年前(1978年)から祭祀は行われていない。映画としてはドキュメンタリー映画という範疇を超越した民俗学的(映像)資料と換言できよう。「イザイホー」と「イラブ―」が二日間にわたり上映されたが、両日共に上映後は岡田一男監督の舞台挨拶があった。
質疑応答もさることながら、内容は非常に興味深いもので、今回の映画撮影で最も映像を撮りたかった場所が、「フボ―御嶽(うたき)」だったそうだ。久高島を訪問した者にとっても全く同感であった。その理由は立入禁止地域、本土で言うところの神域「禁足地」だからである。知的好奇心がそうさせるのだろうが、決して物見遊山的な考えは無いことを記しておきたい。

フボー御嶽説明板(何人たりとも出入りを禁じます!との説明)
フボー御嶽内(祭祀中)

 そのチャンスは一度だけ、フボー御嶽内で祭祀儀礼が行われる時である。ノロの許可を得て撮影されたのが上記写真である。本土の様に神殿や仏像がある訳ではない。単に石が集積されている場所と広い空間があるだけだ。しかしこの場所こそ、琉球祭祀最高の神聖な場所なのだ。
 途中の説明で「イザイホー」は祖霊崇拝からくるもの…という解説が随所にあったが、上映後、岡田監督は「久高島祭祀は祖霊崇拝というよりも、首里との関係、つまり首里王府における祭祀場所としての意味合いが強い。」と話された。民俗学的見地からも近年の様々な学説があるようだ。
 また、「イラブ―」については、ウミヘビでありハブの30倍以上の猛毒をもつものとされている。「イラブ―漁」は女性が行い、手掴みで捕る。ハブやコブラのようなU字型で刺しやすい鋭い歯ではなく、海中に生息する間に歯が退化しており、鋭くないので噛まれる恐れは少ないとの事だった。
歴史的には「イラブ―」を燻製にして首里王府に献上品として納められた。
現在も那覇首里牧志の公設市場の一部で見かける。「イザイホー」には欠かせない神への献上品(食物)なのである。(一般家庭では食さないらしい)

どこまでも青い海

 現代社会において忘れ去られたものがある。また忘れてはならないものがある。久高島という場所を訪れ、また48年前に途絶えた祭祀を映像として目の当たりにして、目に見えないものを知る、そして考える大切さを学んだ。たとえAIが進化しようと心までは制御できまい。神という目に見えないもの、手に触れられないものを感じる力、すなわち感性を磨くにはこの映画は必見である。お近くの町で上映の折は是非ともご覧になっていただきたい。





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