推しを失う、ということ
友達の推しが、この世を去った。
昨年のことだった。
それは突然の発表だった。
その訃報を聞いた瞬間、彼女の顔が浮かんだ。
彼女のファン歴は長かった。
何十年もその一人を推し続けていた。
傍目にはそんな素振りも見せなかったが、イベントがあるたびに足を運び、作品が出るたびにそれを慈しんだ。
誰に言う訳でもなく、ただ一心に「推しが好き」だった。
その姿は誰よりも凛々しく、格好良く思えた。
友達の推しが、体調を崩したことがあった。
それは聞き覚えのない病名で、生命を脅かすものだった。
私は彼女に恐る恐るその話題を振った。
彼女は「覚悟はしてます」と、寂しそうにはにかんだ。
私の推しも、何度か三途の川を見たことがある。
とはいえ推しを推し始めた頃には完治していたし、その後も「引退」を危惧することはあっても「今生の別れ」を危惧するのものではなかった。
覚悟。
それは、間違いなく「死」を指していた。
月日は流れた。
彼女の推しは体調を考慮しながらも、時折表舞台に立っていた。
長期戦になるだろうと予想されていただけに、その姿を見聞きするたびに安堵した。
海外へと出かけたような話もあり、そこまで回復されているのかと嬉しかった。
その後、間もなく訃報を聞いた。
私は彼女にどう言葉をかけたらいいのか、全く分からなかった。
どんな弔意も無意味だ、そう思った。
彼女はこうなることを予感できたと言っていた。
先日の海外への渡航は「最期の旅路」に思えたのだと。
だからもう、長くはないのだと。
そのためなのか、彼女はそれほど憔悴しているようには見えなかった。
これが「覚悟」なのだろうか。
推しはいつかこの世を去る。
私もいつかこの世を去るだろう。
その瞬間、私は何を思うのだろうか。
自分が先に去るとしたら、ついぞ見ることのできない未来を嘆くのだろうか。
推しが先に去るとしたら、向かう未来の喪失感に絶望するのだろうか。
彼女のようにそれを受け止めて、前を向くことができるのだろうか。
どこをどう探しても、どこにも答えはなかった。
その後、ひさしぶりに彼女に会った。
彼女はあれから、推しの楽曲を聴くことができないのだと言う。
聴いてしまうと涙が止まらなくなるのだ。
それを聞いて、胸がぎゅうっと締め付けられた。
けれども、彼女はこう続けた。
俗に言う「聖地巡礼」をしているのだと。
推しの縁の地へと赴き、推しが好んだ食事を食べてくるのだと言う。
それが彼女の選んだ「弔い」なのだ。
彼女は困ったように笑いながら話していたが、私にはそれが何物にも代え難い「神聖な行為」に思えてならない。
少しずつ進んでいく彼女を、心の底から凛々しく感じた。
私は彼女と会う約束をした。
私には何もできないけれど。
彼女の聖地巡礼の思い出話をたくさん聞いてこようと思っている。
推しを失った時、何ができるのかはやはり分からない。
けれども、私にも新たな目標ができた気がする。
前を向くために、その気持ちを整えるために。
旅に出るのもいい、そう思った。