蝉散のレビュー:熟考する名作
『蝉散』を一言で表すなら"熟考する"マダミスであるといえます。
これは二重の意味で、作者が熟考して制作した作品であり、プレイヤーが熟考する作品でもあります。
マダミスの傑作にはハリウッド映画的な刺激的でスペクタクルな面白さのある娯楽作品が多いのですが、本作はヨーロッパ映画のような思索的で文芸的な面白さを秘めています。
熟考がわかりやすく表出しているのは作品の形式面です。
マダミスは「決まったルールがなく、作品ごとにルールが異なる」と言われつつ、この4年ほどでシニフィエはおおよそ共同幻想となっています。
たとえばキャラクターシート、キャラクターの目標、客観情報が記載されたカード、密談と全体議論、ポイント消費によるカード取得、多数決による犯人投票などは共通化されています。
これらはマダミスをゲームとしてスムーズに進行するために現実を抽象化したシステムであり、快適にプレイするために要請されるものです。共通化することでプレイヤーへのシステム理解という負担は減ります。
しかし「本当にその作品にとって最適なのか」ということが考慮されず、思考停止して採用されている作品が多々ありますし、システムによってゲームの幅が狭められてしまっているものもあります。
本作ではいわば現象学的な還元がなされ、それらシステムの1つ1つが「本当に必要なのか。作品にとって最適なのか」が真摯に吟味されています。それはリアリティの追求でもあり、システムによってプレイが窮屈に感じられないように設計されています。
リアリティの追求は世界観やキャラクター構築でも見られます。
マダミスでは犯人役や探偵役、犯人と間違われる役、犯人に味方する役など、ゲームバランスから各キャラクターの役割が要請されます。それ自体はゲームとして成立させるために自明ですが、完成度が低い作品では役割ありきゆえに人物像が不自然になったり、場合によってはプレイヤーにキャラクターの存在意義が透けてしまって興ざめします。
この点、『蝉散』では世界観や人物の造詣、関係性が討究されています。
実在の人物としての人生、行動の動機が端的にまとめられていて、リアルなキャラクターとしての没入感を高めています。
『蝉散』はプレイヤーが熟考せずにプレイしても通常のマダミスとして楽しめますし、それだけでも十分なクオリティが担保されています。
ですが、作品の底流にあるのは"倫理"であり、それを意識することでいっそう堪能することができます。それに触れられた時、本作の真の醍醐味が味わえるといえます。
"倫理"あるいは"正義"というのは普遍的なテーマであり、プラトンやカント、ベンサムなどさまざまな人物、思想が論じられてきました。本作で具体的な問題提起がされているわけではありませんが、リベラリズムややリバタリアニズム、コミュニタリアニズムを考える入口が、庶民的な感覚に即した形で開放されています。
マダミスとして楽しめるだけでなく、プレイ後も『蝉散』をきっかけに倫理へ思いを馳せることができます。
そのような深みを持った作品ではあるものの、残念なのはあくまで"裏コンセプト"としてテーマが潜伏していて、わかりやすくゲームとは結びつけられていないことです。
ただプレイするだけでは、本作の醍醐味を味わえずに終わってしまう可能性をはらんでいます。平易な娯楽性がある作品ではないため、地味な作品だったという印象で終わりかねません。
直接リンクさせるとゲームとしての娯楽性が損なわれる懸念はありますが、せっかく熟考された作品なので、もっと強調させることはできるでしょう。
『蝉散』は非常に慎重かつ注意深く作られており、単なる娯楽として消費するのではなく、深く考える契機となる作品です。
プレイ後にそれを思い出すと、表層では味わえない本作の深みに耽溺できることでしょう。