狂気山脈 陰謀の分水嶺のレビュー:革新性と緻密なゲーム設計を備えたマスターピース
こんな人に特におすすめ:あらゆるマーダーミステリーファン
日本における現代マーダーミステリーの嚆矢となった「約束の場所へ」が発売されてから約1年間が経ちました。その間にマーダーミステリーの幅を広げる作品がいくつかリリースされてきましたが、「狂気山脈 陰謀の分水嶺」によってまた1つマーダーミステリーの可能性が広がりました。
一プレイヤーとして純粋に楽しめるのはもちろんですが、マーダーミステリー好きは必ずプレイすべき傑作です。
マーダーミステリーのファンならば誰もが一度は思い描く理想が結実している野心的な作品です。しかもそれが単なる実験的な試みにとどまらず、ゲームの面白さ、世界観にきっちり結びついて、作品の満足度を高めているのが傑作たる所以です。
しかも「没入感」、「個人戦」、「推理」というマーダーミステリーの3つの要素がまさに柱となって「犯人探し」に結びついていて、画期的な試みがなかったとしても傑作になったであろうほど完成度が高い作品です。
なおクトゥルフ神話が作品の題材ですが、クトゥルフ神話の知識がなくても楽しめますし、ホラー作品というわけではありません。
没入感に関しては、頂上へ近づくにつれて牙をむく自然環境、高度が上がるにつれて起きる不可解な現象がクトゥルフ神話らしい世界観を醸成しています。
また高度が上がれば上がるほど調査が進むというシステムは、極地で世界最高峰へ登っているという感覚と犯人探しや個人目標が進展しているという感覚をシンクロさせ、疑似的に登山している雰囲気を味わうことができます。
叙情的でエモい物語で没入感が体感できる作品はいくつかありますが、「狂気山脈」ではそれらとはまったく異なり、じわじわと追い詰められ、狂気に蝕まれていく感覚が没入感を演出しています。
登場するのは登山家や医者、教授といった固有の氏名がなく、性別もあらかじめ決められていないニュートラルなキャラクターですが、ある独自システムのおかげで、ほかの作品と比べてもプレイヤーが強い思い入れを抱くことができます。
ストーリー重視で感動を生み出すのとはまったく違うアプローチだからこそ、ニュートラルなキャラクターはプレイヤーが自由に設定を盛り込む余地を生み出しています。
個人戦も力が入れられていて、自分の目標をすべて達成するためには積極的に動き回り、ほかのキャラクターに交渉を持ちかけていく必要があります。
他の作品ではゲーム終了直前にかけずり回れば何とか達成できるものもありますが、本作ではゲーム序盤からどう動くべきかを考えておかないと目標が達成できません。
最善手を選ばなければ達成できないというほどシビアではありませんが、限られたリソースの中でどう立ち回るかを組み立てて行動しないと、犯人をたとえ見つけられたとしても、そもそもそのキャラクターが狂気山脈を訪れた本来の目標には近づけません。
そして「狂気山脈」がよくできているのは、そうしたキャラクターの行動が「犯人探し」というマーダーミステリーの主題と密接につながっているという点です。
誰かの行動が別の誰かの行動の呼び水となり、それがいつしか狂気山脈の深遠へとつながっていきます。プレイヤーが目標を追求すればするほど、知らず知らずのうちに自ら狂気へのルートを登攀しています。
狂気山脈には狂気と恐怖が渦巻いていますが、推理は非常にロジカルで曖昧なところはありません。
複雑に絡み合ったパズルを確実な証拠で1つ1つ解きほぐしていくような推理に焦点を当てた作品ではないので、本格的な推理を楽しむタイトルではありません。ただ推理においても、クトゥルフ神話がテーマだからこそ実現できる野心的な試みが為されています。
なにをもってクトゥルフ神話らしいと捉えるかは人それぞれでしょうが、少なくともネクロノミコンや深きものどもが出るだけでクトゥルフ神話モチーフと称する作品とは一線を画しています。
エスカレーション(ゲームの盛り上がり)もきちんと計算されています。
次第に開示されていく証拠、1人の殺人を超える大いなる謎、人知を超えた予想外の展開と、物語の結末に向かってまさにキャラクターもストーリーもエスカレートしていきます。
エンディングはプレイヤーに委ねられる演出もあり、まさにクライマックスを迎えられるように設計されています。
マーダーミステリーの「没入感」、「個人戦」、「推理」という3つの要素が渾然一体となって「犯人探し」という主題を支える計算されたゲームデザイン、クトゥルフ神話という主題の必然性、そしていままでのマーダーミステリーにはなかった野心的な試みと、堅実なゲーム設計と革新性が実現しているマスターピースです。
万人にわかりやすい感動を呼ぶという意味では「ランドル・フローレンスの追憶」に軍配が上がるかもしれませんが、作品全体の完成度、クオリティでは確実に「狂気山脈 陰謀の分水嶺」は日本のマーダーミステリー史上の1つの到達点です。