22本目のポークビッツ。
ポークビッツはパッケージに「標準21本入り」と明記してある。
たいていg(グラム)表記が多い気がするが、ここは伊藤ハムさんのポリシーなんだろう。
(ポリ+シーと聞くと前の記事のポリデントの話がチラつく。時間があれば読んで見てください。)
ポークビッツとの思い出は古きにさかのぼる。
朝食にちょっと物足りないかなというときに登板するピンチヒッターだった。
特に冬場、実家では石油ストーブを焚いていて、その上にアルミホイルを引いて自分も暖を取りながら爪楊枝でコロコロ焼いて食べるポークビッツが子どもながらに至高のひとときだった。
だんだん温められると油がポークビッツの中で膨張して、それを爪楊枝でつつくという謎の遊びもしていた。
時にはバターをちょい足しして芳醇な味も堪能した。爪楊枝でアルミホイルまでつついて、ストーブを汚して怒られたりもした。
大人になった今でも変わらずポークビッツはスーパーに並んでいて、私の視界に入ってくるのだが、
いつしか金にモノを言わせて、目線の少し下の シャウエッセン 時々 ジョンソンヴィルを選んでいた。
あぁ、今日は節約だなぁなんて日は 香薫 や 森の薫り だ。ソーセージ界の第7世代は薫推しだ。
そんなある日、ふと思い立ってポークビッツをレジかごに入れた。
数年連絡を取っていない学生時代の友人にメールするくらい、ふとした思い立ちだ。
実家を離れ、家のトースターにアルミホイルを引いて、ツマミを回した。
目の前で煌々と照らされるポークビッツ。石油ストーブで温まっていた自分と重なった。
「今日は何本食べようかな。」
幼い頃、今日はこれだけ食べると決めても、やっぱりおかわりして焼いていた。
お腹も心もゆたかだった。
トースターで焼いた令和のポークビッツは変わらず美味しくて、
シャウエッセンにもジョンソンヴィルにも負けない魅力があった。
今、大抵のものは選べて買えるようになったけど、
ゆたかさの源は「心」なんだ。
自分がどう感じるか、ゆたかと思えるかは、心の余裕だったり大らかさだな、と最近常々思う。
今、手元に22本目のポークビッツがある。
ちょっとしたラッキーや幸せにどれだけ気付けるか、それは私の好奇心のアンテナ次第。
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