私の見せ方を考えているのも私自身だ
無名人インタビューを受けた。
たった今ZOOMを切った。
とても楽しかったのだけど、なぜか悔いが残っている。
「いま自分が話していることが、記事として文字に残る」ことを意識しすぎてしまった。
いや、これまでにも学生の頃なんかに取材を受けたこともあるが、そのときはこんなこと考えていなかった。
おそらくそのときは、「〇〇の団体の私」として、「〇〇を広報する私」として取材を受けていたから、相手の求めているであろう答えを自分なりに話すことが出来ていた。
無名人インタビューはその名の通り、その人をそのままドキュメンタリーとして記事に残すもの。めちゃくちゃ良いな、面白いな、と思った。
その一方で、「〇〇の私」としてしかインタビューを受けたことがなかった私は、「そのままの私」を出すことに苦しむ。
「自分をそのまま出さなければ」と思いすぎた結果、言葉の表現にこだわりすぎて分かりにくい日本語を話してしまったり、「流れ的にどんなエピソードがあれば良いのだろうか」と考えてしまったり。
過去の記事では、人は多面体みたいなもので場面や対する人によって見せる色を選んでいると書いた。
今日、「そのままの私」にこだわりすぎて、多面体のどの色を見せるかを敢えて決めずにインタビューに挑んだら、多面体の全体のシルエットも掴めないような矛盾した答えを連発してしまったような気もする。
自分の面倒臭さを思い知りながら、それでも自分の想定の範囲外にあった思い出を引き出してくださるインタビュアーさん凄いなぁと思いながら、この気持ちは今までに感じたことがない類な気がするからとりあえず書き残しておこうと、とりあえずnoteを書いている。
じゃあ今このnoteを書いているのは、自分という多面体のどの色の部分なのだろう。感覚としては、どの面でもなくて、かと言って中心核でもなくて、すべて透けて見えているような第三の目線で書いているような感じ。
とりあえず、無名人インタビューが大好きだからこそ、あの記事の画面で自分がどう残るかを気にして、迷ってしまったことがとても悔しいし、申し訳ない気分になっていた。
ただ、今この記事を書きながら薄々と気が付いてきたことがある。
インタビュー後、無名人インタビューの記事はこの時代にどんな人が何を語ったか」をそのままドキュメンタリーとして残すものだから、嘘があってもフィクションであっても良い、という話を聞いた。
ということは、「自分のどの面を見せようかと取り繕いながら答えたインタビュー」であっても、それ自身が今の自分の記録なのではないか、と。
じゃあめちゃくちゃ自分出せてるじゃないか。特に発信したいことがあるわけでもないんだし、ただ私へのインタビューの1つとして記録に残してくれるわけだし、これで充分良かったんだ、と納得すると同時に、人の記録の新しい一面を見た気がして背筋が伸びた。
無名人インタビュー、まだまだ私には見えない面白さが潜んでいそうだ。