朝鮮戦争→米国による日本永久属国化の筋書き
占領軍が日本に居座り続ける事を正当化したのが『朝鮮戦争』です。
本来占領軍は90日以内に撤退しなければ、サンフランシスコ講和条約違反です(第六条a項)。
アメリカは「防衛線の外」と言いながらも、国連軍(米軍)を結成し参戦した(詳細は馬渕睦夫著「国難の正体」)。
そうして…
ワザと「負ける筋書き」の戦争を演じました。
戦後最大の洗脳。それは、
「在日米軍(占領軍)は、日本周辺の共産勢力の脅威から日本を守って下さる♪」
そもそも、中共やソ連をつくり、日本を脅かしてきたのは
アメリカのディープステートです(馬渕睦夫氏)。
当時、日米安保条約は日本は決して望まなかった!!
↓↓↓こちらが、当時の日本の全権団の一致した怒りでした。
米軍が原案を書き、押し付けた安保条約は占領続行の内容でした。
↓安保条約の原案を書いた米陸軍少尉です。
日本の全権団が不快感を抱いたのとは対照的に
喜んだのはアメリカです。
ページのトップにあげた署名時の写真の表情が物語っています。
1951年9月8日 サンフランシスコ
・午前中:講話条約に署名(オペラハウス)
・午後5時:安全保障条約に署名(第6軍司令部プレシディオ)
日本に対し、安全保障条約に署名しろと通告したのは当日前夜です。以下、日経から要約します。
9日の新聞は1面トップで「平和条約調印」関連。
「安保条約調印」については短い記事だったようです。
「8日午後5時にプレシディオで安保条約署名式」と米側から通告されたのが「一瞥して不快感を感じた」外務省条約局長・西村熊雄氏でした。
西村氏の回想「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約」では、7日夜11時近くに議場を出ようとすると、GHQ外交局長シーボルト大使から呼び止められ、連絡されたと。
つまり8日に、講和条約への署名、その同日午後5時に
「日米安保条約に署名しろ」とアメリカが強いた。
西村熊雄氏は、代表団の多くは
日米安保に対し、独立ムードから一転し『落胆』した
という意味合いのことを書き残しています。
当然でしょう!
安保条約は米軍(占領軍)が駐留し続ける。
つまり占領続行という中身だったからです。
ところが
吉田首相だけは安保条約への署名に賛成だったそうです。(側近の福永健司衆院議員が後に西村氏に語った)
■「安保は不人気」と吉田だけが署名
全権団内部の酷く落胆した空気はプレシディオの署名式会場に明確に表れました。
アメリカ側の署名者は4人(アチソン国務長官、ダレス特使に加え、民主、共和両党の上院議員)だったのに対し、
日本側は吉田茂ひとりでした。
吉田首相曰く
「安保条約は不人気だ。政治家がこれに署名するのはためにならん。俺一人署名する」と語ったのは有名な話です。
┃安保条約は米軍駐留の延長を意味する現状追認の取り決め←失望!!!
日本の戦後体制(アメリカの属国)は、朝鮮戦争レジームとも言い換えられます。
その本質は旧安保条約第一条
【アメリカは米軍を日本およびその周辺に配備する権利を持つ】(60年安保以降も『密約』により維持)
これが全てです。
占領軍は日本に居続け、国境を越えて東アジアで軍事行動ができる状態にした。
これが日米安保条約の狙いです。
安保条約の調印式にあたって
当時の日本はこのアメリカの押し付けに対し、
独立ムードから一転し、『落胆』したのです。
↑この言葉はダレスの補佐官であったアリソンが日米安保条約締結の二ヶ月前の1951年7月3日イギリスの外交官に対して言った言葉です。
(アリソンは後に、先日書いた「対日秘密洗脳工作」の総責任者となる)
つまりそれほど迄に日本に対し不条理な不平等条約ですから
日本国民に知られたら怒り狂って、締結した日本の責任者を暗殺するぞ、というのです。
我欲主義国家・アメリカはそれを明確に認識していながらも、日本に対する良心の呵責は欠片もないことが分かります。
後に首相になる中曽根康弘は、国会での安保条約承認にあたり、欠席したそうです。賛成できないとの意思表示でした。
当然ですね。
もうそろそろ戦後最大の洗脳から脱却しましょう。