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睡蓮

心地よい冷んやりした風、甘い金木犀の香り。やや暗い空。
早朝に家を出て、ぼんやり夢心地のまま秋を楽しみながら歩く。バイトが始まるまで、まだ余裕がある。少しずつ歩を進めると、足元に転がった赤い落ち葉が目に入る。ふと、故郷の花が頭をよぎる。

公園の中を突き抜け、街の中心街に出る。働きに行く人々が駅に向かって流れを作っている。私はその流れに乗る。駅のホームに立ち、電車を待つ間、なぜか緊張感が胸に広がる。あの国にいたとき、朝はもっと静かで、人々の足取りもゆっくりしていたことを思い出す。そんな余裕が懐かしい。

電車に乗り、ガタンゴトンと揺れるたびに、窓の外の景色が少しずつ変わる。目を瞑ると、金木犀の香りがまだ鼻に残っている。金木犀の香りは、この国の秋を象徴するものだ。祖国では感じられなかったこの香りが、今では私を落ち着かせてくれる。

目的地のアナウンスが流れる。目を開けて駆け足で電車を降りる。駅から出て職場に向かう途中、カバンからメモ帳を取り出し、仕事の手順を確認する。2ヶ月前、このバイトを始めた頃は何もわからず、言葉も通じず、ただ必死に動くだけだった。メモ帳のページは真っ黒だ。それでも、ようやくここまで来た。

職場に着くと、店の前で二人の男の子が待っていた。一人は背が高くしっかりした顔つきで、もう一人は眼鏡をかけたふわっとした印象の子だ。
まだ鍵開け当番が来ていない。挨拶をすると、眼鏡の男の子がぎこちなく笑顔を返してきた。その不安定な笑顔に、かつての自分を重ねてしまう。

やがて、街中から女の子が小走りにやってきて、店のドアを開ける。中に入ると、薄暗い店内に一日の始まりを感じる。タイムカードを切り、制服に着替えてキッチンに入る。今日の私はサイドメニュー担当だ。

眼鏡の男の子がやってきて挨拶をする。このバイトは二回目らしい。少し緊張しているのか、声が上ずっている。私は笑顔で返すが、彼の動きはまだ、たどたどしい。彼の手が震えているのを見て、かつての自分を思い出す。あの日々、言葉もわからず、指示の意味すら理解できなかった時の不安。そんな自分が、今ではこうして少しずつ教えられる立場にいることが、少し誇らしい。

「私、ニホンゴ、少しニガテ」と、彼に伝える。彼は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに優しく頷いてくれた。その後、私は身振り手振りを交えて、できる限り彼に業務を教える。彼も一生懸命に覚えようとしている姿が微笑ましい。時々、彼が動作を間違えてしまうたびに、内心で少し焦りを感じるが、同時に自分も同じ過程を通ってきたことを思い出し、心の中で励ます。

やがて、忙しさのピークを迎える。注文票が次々に流れてくる。眼鏡の彼はまだ慣れていないのか、時折私に質問してくる。そのたびに、私は一つ一つ丁寧に教える。彼のカチコチな動きに笑ってしまいそうになるが、同時にその姿にかつての自分を見る。彼も、今の私と同じように、いつかは自信を持って働ける日が来るだろうと信じている。

ピークが過ぎた。一息休む。ふと、昨日の夜、友人たちと誕生日を祝ったことを思い出す。お酒を飲みすぎて、今になってお腹がすいてきた。眼鏡の彼も疲れたのか、まな板の前でぐったりとしている。

「キノウ、誕生日パーティーで飲みすぎました。」私は言葉の練習として、彼に話しかける。

「パーティー?それは楽しかっただろうね。でも、飲みすぎたのか。」彼が笑いながら返す。その笑顔に、私は自分の言葉が通じたことに嬉しくなる。同時に、彼の少しずつほぐれていく様子に安堵を感じる。

勤務時間が終わる頃、眼鏡の彼はニッコリと「ありがとう」と言ってきた。私も親指を立てて「ありがとう」と返す。彼はこれからもっと成長していくだろう。彼の背中を見送りながら、かつての自分を思い出し、私もまた、彼と共に成長していけることを願う。

店を出ると、昼を迎えた外はまだ肌寒い。
故郷が恋しい。花の匂いが恋しい。

故郷の花「シャプラ」を思い出した。日本語では「睡蓮」と書くらしい。睡蓮は、朝だけ花を開き、昼には閉じてしまう。そんな花の一瞬の美しさに、今の自分を重ねる。

睡蓮という名前に「睡魔」の「睡」がついているのが面白い。まるで今の私のように眠たそうな花。家に帰ったら、少し横になってもいいじゃないか。そして、また勉強を続けよう。


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