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マドレ 三面記事小説


1.妊娠

 男はコンドームをつけたがらない。
「あんなの付けさせるなんて、お前、本当に俺の事愛しているのか?」
そう言って女を責める。
 2カ月後、妊娠した。
当時、産休なんて制度は十分に普及しておらず、結婚して、妊娠したら退社して下さいという暗黙の空気が社内にはあった。
同僚が先月、子供ができて退社したばかり。出産で一度会社を退社すると、後はパートの仕事しかありつけない。旦那の稼ぎが良ければいいが、そうでない家庭は家計を切り詰めることに必死だ。
 私が仕事を辞めたら収入が半分に減る。竜二の給与は手取り十五万円程度だった。
私達が子供を持つことはまだ早かった。だが、男は後先考えず快楽を求め自分の女を妊娠させ喜ぶ。それは人類が子孫繁栄のため持っている本能がそうさせている。
現実主義の女はそうはいかない。実家に連絡したかった。けれど、勘当同然で家を出た私を父は決して許してくれないだろう。
子供が産まれたら父は理解してくれるだろうか。そんな期待をしつつ徐々に大きくなるお腹の中の命に愛おしさを感じ産まれる日を心待ちにしていた。
竜二もお義母さんも私の体を気遣ってくれた。竜二は日に日に大きくなる私のお腹に耳を当て、音を聞いたり、話しかけたりしていた。とても幸せだった。
 美咲を産んで半年後、竜二が突然会社を辞めて家に帰ってきた。
「なんで会社辞めちゃったの?生活できないよ」私は竜二に言った。
「会社の中で派閥があるんだよ、そういうのに疲れただけだ。大丈夫、すぐに仕事探して、お前たちを養うだけの給料もらえるように頑張るからさ」
 そう言われてから1カ月、2カ月、3カ月たっても竜二は就職活動をしている様子がなく、昼間は美咲をあやしながら近くのレンタルビデオ店で借りてきたDVDを一日中みている。
 今日こそは言おう。そう決心してテレビの前でゴロゴロしている竜二に恐る恐る近づいた。
「ねぇ、竜二。仕事探しはしてるの?毎日、DVDばっかりみてるけど、これからのこと、ちゃんと相談しないと」
「うるせぇな。分かってるよ。生活が心配ならお前、父ちゃんに仕送りしてもらえるよう頼めよ。議員さんなんだろ?」
「無理よ、私、お父さんに勘当されたのよ。そんなこと竜二が一番よく知ってるじゃない」
「孫の顔見せたら、気が変わるって。行ってお金もらってこいよ」
 竜二の言葉に愕然とした。
「ねぇ、竜二。真面目に考えてよ。これから美咲を育てていくんだから、私、美咲に不憫させたくないから。竜二だってそう思うでしょ?」
「なんだよ、お前。俺が美咲に不憫させてるっていうのか?そんなに気に入らないなら、お前が働けよ。俺が家で美咲の面倒をみてやるからさぁ」
「何言ってんの?竜二、私達を養うって言ってたじゃない?どうしてそうなっちゃうの?」
竜二は何も答えず不機嫌そうな顔をしてタバコを買いに行くと言って出て行った。
 私は竜二のお母さんに電話をかけた。助けを求める身内は、この人しかいなかった。
「あら、千恵ちゃん。どうしたの?」
「お義母さん、あの…。竜二の仕事の事なんですけど」
「あぁ、あの子から辞めたって聞いたよ。でも、竜二は何でもする子だから、またすぐに仕事見つけて働くよ。あの子、そういう子なのよ。一生懸命、仕事する子だからねぇ」
「いえ、それが…まだ仕事を探してないみたいなので、私、不安で…」
「千恵ちゃん、まさか竜二が働いてないって事、実家のお父さんに連絡してないよね?
恥ずかしいからそういう事言って実家に泣きつかないでよぉ。あなたのお父さん、議員さんでしょ?こっちとは格差があるんだからさぁ。ちょっとは竜二の立場も考えてやってよ。竜二は本当にあなた達のために、仕事を探して生活費を稼ごうと思ってんだから。竜二を信じて、ねっ」
 ショックだった。お義母さんなら今の竜二のダラダラした生活を厳しく注意してくれるかと思って電話をしたのに、必死で息子をかばっている。おまけに、うちの父に知られることを心配している。
 次の日のお昼頃、パチンコから帰ってきた竜二が急に怒りだした。
昨日、私がお義母さんに連絡した事が彼の耳に入ったのだ。
この日から、竜二は気に入らない事があると私に暴力を振るうようになり、度々家を空けるようになった。たまに帰ってきた竜二はご飯も食べずに寝床に入る。
美咲の夜泣きが始まると「だまらせろ」と言って私の頬を平手打ちにした。
私は、美咲を抱っこして外に連れ出し、腕の中で眠るまで部屋に戻らなかった。
美咲のミルク代やおむつ代は、独身時代に貯めていたお金で何とかやり繰りしていたが、もう限界だった。生活はすさんでゆく。竜二のせいで私達は飢える。
 私は耐えかね、美咲を連れて母子寮に身を寄せた。
竜二は私達を探さなかった。もう面倒になったのだろう。
そして、竜二と縁が切れた。

2.シングルマザー


「うちは子育てを応援している会社でね。女子社員には、出産や育児をしながら気持ちよく働いてもらおうという環境作りに取り組んでいる。だから、気にしないで働いてもらっていいんだよ」きちんとした身なりの総務課長が笑顔で言った。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
ハローワークから仕事を紹介してもらい働く事になった。
最寄り駅から徒歩10分にある大手飲料メーカーの総務事務だ。
駅に隣接する託児所に美咲をあずけ、8時40分くらいに会社に着くようにする。
給与は月20万円+残業代。これで生活のめどが立った。
 初日から遅れるわけにはいかない。早めに家を出て8時半に会社へ着いた。
会社のドアはまだ開いていなかった。
8時50分頃、後ろから鍵を持った男性が現れた。「おはようございます。あっ、今日からの人?え~っと…」
「おはようございます。桜井千恵と申します。よろしくお願いいたします」
「よろしく、営業の佐藤です。すみませんね、長く待っておられたんじゃないですか?」
「いえ、」
 エレベータの到着とともに、女性の方が一人見えた。「おはようございます。中田です。新しい人ね。私と同じ課だからよろしくね」
明るい笑顔で感じのいい人だ。
「桜井さんの席はここよ。私、9月から別の部署に異動になるのよ。だから、仕事は私のしていた事をお願いするから、私が引き継ぐわね」
「はい、よろしくお願いいたします」
「8月いっぱいで私の仕事を覚えてもらうことになるから」
 中田さんからの引継ぎを受けながら、初日はあっという間に過ぎた。
「桜井さん、5時ですよ。もう上がっていいから」総務課長が言った。
「はい、それではお先失礼します」
私は、机の上を片付け、カバンを取りにロッカーへ行き美咲を迎えに託児所へ急いで向かった。
託児所の窓のサッシをコンコンとノックする。
保育士さんが気付いて美咲を連れて来てくれた。まだ、よちよち歩きの美咲は私の顔を見て一生懸命急いでこちらへ歩こうとしている。
「美咲ちゃん、また明日ね」
保育士さんが手を振って見送ってくれた。
「さぁ、帰ろう。美咲」
抱っこした美咲の頭の匂いが懐かしく感じた。美咲も喜んで、頭を私の胸にうずめてきた。
 中田さんが親切に引継ぎをしてくれたお蔭で、仕事はスムーズに覚えることができ何もかもが順調に進んでいた。 そんなある日、託児所から美咲が熱を出しているので迎えに来てほしいと連絡があった。
総務課長に事情を話して、早退させてもらい美咲を迎えに行く。
熱が高いようなので今流行りの腸炎かもしれない。保育士さんに言われすぐに小児科へ連れて行った。
やはり腸炎だった。脱水症状を起こさないよう水分補給をするよう、そして解熱剤を服用させなければならなかった。美咲は高熱のため、顔が赤くだるそうだった。
小さい子供を託児所にあずけ働くなんて本当はしたくない。だけど、働かなくては生活ができない。


 家に着いて、美咲を布団に寝かせ、氷枕を作り頭の下へ敷く。
この状態じゃ、しばらく側にいて具合をみないと。明日は仕事に行けそうにないな…。
 総務課長に連絡を入れ明日も休ませてほしいと伝える。「こちらのことはいいから気にしないで、しばらくお子さんの側にいてあげて」
その言葉を聞いて安心した。熱が下がるまでは私が側にいてあげよう。美咲には私しかいないのだから。
 美咲の腸炎の症状がおさまり、5日後に仕事に復帰した。
「この度はご迷惑をおかけしました」
「娘さん、具合もういいの?」
「はい、お蔭さまで良くなりました」
総務課長と総務課の女子社員に朝一番で挨拶をした。
 小さい子供を持つ女が働くのは生易しいことではない。小さな美咲を託児所に預けて働くなんて、産んだ当時はそんなこと考えもしなかった。
仕事中も美咲の事が気になる。また、熱は出してないだろうか。もう少し体調が良くなってから仕事復帰した方が良かったのではないか。でも、やっと決まった仕事だから失いたくなかった。
現実は簡単ではなかった。
 それから、美咲は頻繁に熱を出すようになった。その度、休みを取る私に対し、総務課長と女子社員の態度はあからさまに変わっていった。
そんな空気を察して、私はみんなに気に入られようと必死になった。人の嫌がる仕事や面倒な仕事も進んで引き受けるようになっていた。
 そのうち、夕方、退社時間前に仕事を押し付けられるようになった。意地悪をされているのは分かっていたが断れなかった。託児所に迎えが遅くなると連絡し、夜9時、やっと迎えにいくことができた。
そんな日が何日か続いていた。眠った美咲を抱っこして電車に乗り帰りゆく中、自分は一体何をしているんだろうと涙があふれた。仕事がこんなに辛いと思ったことは初めてだった。
 美咲が病気になる度、休ませてもらうという負い目が職場での立場を弱くさせた。
気が付いたらみんなにペコペコ頭を下げながら仕事をしている。仕事ってこんな風にするものなのだろうか。まるで奴隷のようだ。
 最近は、朝、美咲を託児所に送って8時40分に会社へ着いてから、夜の9時頃まで仕事をしている。どれも、急ぎ資料の作成で明日の10時までにとか、夕方までにといったものばかりだ。他の女子社員は5時になったら帰ってしまう。
なぜ、私だけがこうなってしまったのか?不満をぶちまけたいくらいだが、やはり仕事を失う恐怖が先にきて、何も反論する事ができない。
 美咲のためなら何でも我慢できると思っていた。しかし、徐々に心と体のバランスが上手くいかなくなり自覚症状がでてきた。
 歩くと平衡感覚がなく体が斜めになったようで、時々激しいめまいがする。
病院で診察を受けると自律神経失調症と診断され、生活に支障をきたすようになりこの会社を去ることになった。

3.モデル

 火曜日はマルダイスーパーの大安売りの日だ。
こんな時にまとめて食材を買って一週間過ごす。
失業保険をもらって生活している状況ゆえ、食費は出来るだけ切り詰めて生活しなければならなかった。
 ハローワークで職を探すも、小さい子供がいると断られることが多い。子供が急に熱を出し、迎えに行かなければならないということを考えると、会社にとって、使いたくない人材となってしまうのだろう。
 “子育て支援”と言う言葉だけが際立って取り上げられているが、現実社会はまだまだ理解がないものだ。
こういう時、頼れる身内がいればいいのだけど、実家と疎遠になった私には頼る人がいない。
 気が付けば5年、実家へ帰っていない。
父は市議会議員で、代々地元に根付いている家系だ。私が離婚して子供を連れて帰ってくるなんて言ったら、まず、世間体が悪いと露骨に嫌な顔をするのが想像できる。
今更、頭を下げて帰るなんて出来ない。
女が一人で子育てをするなんて、とてつもなく大変だということが身に染みてわかった。
やはり、父に謝って許してもらおうか…。
何度か受話器を取り実家の電話番号を押したが、誰かが出る前に受話器を置いてしまう。
 
 ベビーカーに美咲を乗せてスーパーまで歩いていく。
今日は、たまごが1パック98円、食パン98円、牛乳98円。
今週使える食費は千円と決めた。スーパーに行くと沢山の食材や珍しい食べ物がある。買いたいと思っても我慢した。
スーパーの帰り道、緑の綺麗な公園がある。小さい子供連れのお母さんたちが集まって話をしながら子供を遊ばせている。
こういう奥さん達の旦那さんって甲斐性があるんだろう。
私も、そういう男を選んでいれば、今頃こんな時間に余裕のある笑顔で過ごせていたかも知れない…。羨ましく妬ましかった。
 ベンチに腰掛け、ベビーカーの美咲をのぞくと無邪気に笑った。
スーパーで買った蒸しパンを取り出し美咲に分けながら食べた。
 見上げると空の青さに引き立てられた木々が様々な緑色を放ちザワザワと揺れている。
公園の真ん中にある池の側へ近づくと鯉が集まってきた。ところどころにある大きな石の上には亀が日向ぼっこしている。
 私はこれからどうやって生きていくのだろう。失業保険は永久にもらえるわけではない。
いつまで、お金の心配をしながら生きなければいけないのだろうか。
「…帰ろうか、美咲」
鳩が寄って来て美咲のこぼした蒸しパンのくずを突っついている。
立ち上がってベビーカーを押し、歩き始めた時、後ろから声をかけられた。
振り返ると赤いトレンチコートを着たキャリアウーマン風の女性が立っていた。


この辺りの主婦ではなさそうな洗練された服装で髪を一つにまとめ、きりっとした女性だった。
「急に声をかけてごめんなさいね。私、こういう者なの」
女性は名刺を差し出し言った。
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文化出版 
田辺洋子
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 名刺を見て何かのアンケートかと思った。
「あなた、主婦?あなた、すごく素敵だからつい声をかけてしまって。
あなたモデルとか興味ない?実は、今、主婦向けの雑誌の企画があってね、一度どうかしら?文化出版に来てもらうことできないかな?」
「えっ、私が?モデルですか?」
「そうよ、スラッとしてキレイなお顔立ちだし。プロの手にかかったらもっと磨きがかかるわよ」
「あの…そういうのって実は、あれじゃないですか…」
「ははっ。違うわよ。AVとかじゃないから安心して。ちゃんとした出版社だから。ほら文化出版ってあなたも知ってるでしょ?私、そこの社員なの」

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