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宗教と戦後思想史①
なんでも知ってるおにーさん
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私は頭の回転が草履で歩く速度なんで、回転が速い人の近くにいると生命を削られてしまうんですよね。回転ドリル🏃🏻♀️🏃🏻♂️頭脳。
チャンネル桜で7月の選挙特番見てたら急にツイッタで喧嘩を振りかけていたので、怖々動画見たんですが、面白いですね。
今、統一教会一色だから次々おすすめに出てきちゃう。
宗教への印象が世代と住んでいた場所で、全然違う。
年齢は一緒のはず。
私が小学生の時は天理教でのお泊まり会もあったんですよ。学校から行ってたから宗教が生活に近かったんですよね。
杉並区あたりはそういった場所。
「続け創価学会!」で、他の宗教も政治に挑戦していた活気のあった時期です。
宗教の学生部のリーダーの奥さんが子供も置いて駆け落ちしていなくなって、それも女のせいにして場を収めた事あったけれど、宗門事件のせいです。
家の人間関係に何事かなければ普通はお墓も大事にしますしね。
いくつかイレギュラーはあったが、それが全てではないです。
その時、どうしてもダメだったという事はあります。
過去の事だし。
人の三倍働いてきた街の現在
名門杉並は創価学会の礎を築いた人たちがたくさんいたのでついた名称。
創価学会にハマル理由としては選挙活動があって勝敗がわかりやすいから。
負けても次の対策を立てよう!名誉回復しよう!挽回よ!
選挙のたびに投票者数が減っているので、もうそろそろ投票の義務化と厳罰化をしたほうがいい。
選挙のお手伝いしていると、この投票に行かない人たちがたくさんいるのがわかって危機感を覚えるのですが、「投票しない事が意思表示」みたいな感覚なのかなー。
信者行ってないでしょ選挙。
パートがあったとか、暑かった、寒かったとか。イクメンなうなんでとか。
婦人部もなにもそもそも高齢化、介護突入。ちょうど後がいない時期に入ったのか。
歴史秘話ヒストリア 女優 加世子
知られざる加世子の半生 youtubeさんから
ひろゆきさんは北区に在住してて近くの団地に学会員がかなりの世帯数いて、雪印工場が潰れて失業者がたくさん出た。
学会員で仕事三人前できるんだったら工場潰れてないでしょっていう話し。
これはその通りなのかな。
雪印の工場が閉鎖したのが2002年。
私の親戚も北海道なので、雪印工場(現、メグミルク)に勤めていました。
そのお子さんは父より年上でもう80代。
市ヶ谷の本社ビルには2010年頃には雪印の大きな看板があったけど、まだあるのかな。
北海道の炭労で働いていて失業した人たちで、1970年代に東京ディズニーランドを作り上げました。
レッドアローとスターハウス
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こういう政治の話を持ってこられると生活の場としての、建物の魅力が半減してしまうんですよね~😅
昭和建物探訪の団地編で人気のスターハウス。
1968年、久留米町に西武沿線最大の公団住宅・滝山団地が完成した。 分譲が主体となったこの団地では自治会も共産党の影響が強いものと、その圧力から自由であろうとするものに分裂。 その間隙を縫うように創価学会が進出した。その結果、団地に隣接する小学校が政治空間化してゆくー。
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建築史学者の安野彰によれば、豆腐のように四角い鉄筋コンクリートの建物が群をなして平行に配置される風景は、1920年代のドイツで出現したという。
当時はまだ、木造住宅が主体であった。当時、日本住宅公団総裁であった南部哲也は、 国会審議の質疑のなかで、「お前たちはこのようなコンクリートの住宅を建設して、日本人から大和魂をうばうのか、大和魂は日本の土から生れるものだ」とののしられ、大和魂=庭つき木造一戸建論をぶたれたこともあったと回想している(『日本住宅公団史』、日本住宅公団、 一九八一年)。
日本住宅公団が発足した背景には、「序」で触れたような、ソ連と同じ深刻な住宅不足があった。「発足した初年度の半年の間に2万戸の建設を行なわねばならないという至上命令は、公団の設計作業を極度に能率化することを要求した」(『日本住宅公団10年史』、日本住宅公団、一九六五年)。
ヒルベルザイマーというのは、ドイツの建築家である。上野は、「共産圏の労働者住宅」を 「ディストピア」が現実化したものとし、日本とは関係がないかのように述べたのに対して、山本は「日本の公団や自治体がつくる郊外住宅」も無縁ではないとする。 建築家の隈研吾は、さらにはっきりと「日本に共産主義政権ができたわけでもないのに、団地の風景とソ連の労働者住宅は、世界じゅうを眺めても、突出して似ている。そういう例はアメリカにも、東欧を除いたヨーロッパにもない」と述べている。
(前掲「団地以降の集合住宅」)。
「日本の団地は労働者のためのものではない」という留保がついているとはいえ、これは重要な指摘である。
大好きな高野文子さんの「美しき町」の中から団地の雰囲気がわかりやすいページを参考に載せましたが、北海道の祖父母も団地でしたので、自分には「ディストピア」とはとても思えないのです。
思えなかったけれど、この原武史さんの著書に出てくるソ連の集合住宅におかれた「同志裁判所」や、菅野完さんの「日本会議の研究」などを読むと、社会主義を理想とした人たちと、仏教徒である創価学会の人たちとで、やっている事がそっくり同じになってしまって、「杉並の人は気位が高い」と言われる所以はライフスタイルに住まいと神社仏閣への参詣、社会問題に対しての好奇心、問題意識が生活の基本にあるので、こうなっていったのかなと思います。
端から見るとたぶんカオス?状態なんだと思います。
右も左も保守も。
良い言い方をすると「和を以て貴しとなす」というスタンスでずっとやってきました。
この絵本作家さんも書いてるけど、完全にその時の議員を「地域の御用聞き」として利用してきた。何かあるたびにトップ(頭)をすげ替えただけで意識を変えなかったから、何も変わらない。
マンションの乱立でさらに意識は政治から遠のくことになった。
「この国民ならこの程度の政治ですよ」のまま、そのほうが都合いいのでこれからもこのままで良いと思っています。
解決してしまうと仕事がなくなってしまうし、
組織が煮詰まってくると殺し合いになっちゃう。左派政権の国を参照してください。
滝山団地では、最初から共産党が自治会を設立している。自治会が住民の自由確立させるどころか、「専制」の母体となってゆくのである。
こうなると、団地自治会はニュー・イングランドのタウンミーティングよりはむしろ、 「上からの社会主義」に基づいて建設された旧ソ連の集合住宅における全入居者総会や中央住宅委員会に近くなる。 アメリカのタウンミーティングと理念を共有するはずの団地自治会が、共産党の進出とともに、あたかもソ連の集合住宅の自治組織のように変質してゆくのだ。 ソ連の集合住宅には、総会や委員会のほか、同志裁判所が置かれていた。
六一年七月に制定されたロシア共和国の同志裁判所規定によれば、 同志裁判所というのは、社会に害を与え違法行為や非行を行った者に対し、同志裁判という公開の場で批判をすることによって、 違反者を反省させるだけでなく、その他の人々に対しても社会秩序を乱す行為を憎むよう働きかけ、共産主義的な態度を育てるための組織である。集合住宅の場合、住民どうしのもめ事や住民の非行、家賃の滞納が主に扱われた(河本和子 「同志裁判所にみるソヴェト国家・ 社会・個人」、『ロシア史研究』第8号、二〇一二年所収)。
杉並区を中心にした街歩きの講座に出ているので、団地に関しての資料を探していたらとんでもなく面白い本に出会えました。
荻窪団地や阿佐ヶ谷住宅はいろいろな方がブログなどに記事や写真を残しているのでそちらも参照してください。
杉並区公民館(現在の杉並公会堂)で1957年に原水禁署名運動が始まり、日本全国に広がりました。
徐々に共産党の票が取れる場所が杉並区と中野区となって、1964年に堤康次郎が亡くなりました。
親米反ソを信条としていたはずの堤康次郎は、結果としてアメリカではなく、ソ連とよく似た郊外を、あるいはライフスタイルをつくってしまったのだ。
創価学会の団地での活躍は
共産党の完全な後追いであった。
手柄パクったパクられたで仲が悪くなったのですね。
団地が次々に建設された時代が1970年代
1970年11月25日、45歳で絶望して死んだ作家。生きていれば97歳。
もうすぐ生誕100周年記念でブックフェアとか、おまつりをやるのでしょう。
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本書のようなタイトルで新書を書くことになろうとは、一〇年前には想像もしなかったことです。「愛国」や「憂国」の類など、聞くだけで禍々しく思えたのは、それらが七〇年代初めの三島由紀夫の割腹自殺と結びついていたからです。
その頃学生になり立てのわたしは、ただひたすら彷徨っていました。「在日」という、 アーレントの言う「パーリア」的状況を生きるわたしの身体を風が吹き抜けていくようで した。何に自分を賭けていいのか皆目見当もつかず、しかも自分が誰なのかよくわからない不安に怯えるひ弱な学生、それがわたしの実像だったのです。
そんなとき、「愛国」や「憂国」を絵に描いたような三島の華々しくもグロテスクな割腹自殺は、わたしの中に名状しがたい感情の波を引き起こしました。激しい嫌悪感と未知 のものへの強い好奇心がない交ぜになり、そのアンビバレントな感情をどう処理していいのか、よくわからなかった記憶があります。 その後、わたしは父母の国(韓国)はじめて足を踏み入れ、その経験がキッカケとな って「民族的」に目覚めることになるのですが、それでも「愛国」という言葉には何か 白々しい思いがしていました。どうしても、自分の身体がそれに馴染まなかったのです。
ただそれでも、朴元大統領の維新独裁に抗議して決起したソウル大学生のデモを「愛国的義挙」として褒め称える立て看を書いた憶えがあります。当時学内を闊歩する新左翼のセクトから「右翼小児病」などと激しく罵られたものです。
「愛国」という言葉をなぜ使ったのか、その当時はよくわかりませんでした。ただ、政治 の季節が潮が引くように退き、まるで何事もなかったかのように「ミーイズム」の安全地帯に脱兎のように避難する同世代の学生達に対する激しい怒りのようなものがそこに籠められていたかもしれません。
七三年の初め、旧通産省による初の余暇白書「わが国の余暇の現状と余暇時代への願 望」が発表され、時代は「モーレツ」から「ゆとりの時代」へと転換しようとしていまし た。 一方で土地成金が高額所得者の上位一〇〇を独占し、金製品の自由化とともに金プー ムが到来し、他方では「庭付き一戸建て住宅」は庶民には高嶺の花でしたが、過剰なほどの大衆消費社会とレジャープームが列島を席巻しようとしていました。 「愛国」だの、「革 命」だの、物騒な言葉は一部の過激なアウトサイダーの専売特許になり、「堅気の」 フツ の人々には無縁な死語になろうとしていたのです。
あれから三〇年、今や「愛国」や「国を愛すること」は、メディアを通じて誰でも使え る共通通貨になり、若者達を結びつける生きた靱帯に様変わりしつつあります。もはやそ こには、禍々しさや影は見られません。むしろ都会的な明るい軽やかさすら漂っています。 そんな表層的な「愛国」の空気が広がる中、もはや「愛国」をただ避けているだけでは 済まなくなりました。本書では、そんな時代の変化に対するわたしなりの取り組みを述べ てみたかったのです。
それでは今日、「愛国」とはどんなスタンスを意味しているのでしょうか。やや図式的 に言えば、地域=郷土(パトリア)の再生とアジアとの結びつきこそ、「愛国」の目指す べき理想なのではないでしょうか。「愛国」が本来、「パトリア (郷土)」への愛に他なら ないとすれば、凄まじい勢いで荒廃の一途を辿りつつある地域の再生こそ、まず「愛国」 が取り組むべき課題に違いありません。
「政治の季節」と呼ばれる六八年から七二年にかけての大学闘争や新左翼 による数々の事件は、西武沿線の団地住民に何ら影響を与えていない。 大学生がほとんど住んでいない団地に新左翼や全共闘の学生の姿はなく、新宿騒乱事件も東大安田講堂の「落城」も内ゲバも、 まるで遠くの世界の出来事のようにしか見えなかったのではないか。
詩人の左近によれば、ある編集者は「うちのカーチャンを始めとする団地カーチャン族は、ほとんどがゲバルト方式をとる三派全学連のファンだな」と言ったが、それは「三派ってのは、いいじゃないの。青年らしくて、イカスわね」という言葉に象徴されるように、新左翼の運動を対岸の火事としてしか見ていなかったからではないか(『週刊読書人』一九六八年七月八日)。
1971年、静岡県富士宮市に日蓮正宗 総本山 大石寺が完成します。
日蓮正宗創価学会の黄金期は60年代から始まり、70、80年代と続きます。
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1965年8月14日
池田会長と渡米の日
総本山六十六世 日達
写真集「人間革命」
この建物はすべて信者の自発的なご供養からまかなわれた。
1964年に海外旅行の自由化で池田大作会長と日達上人猊下とで渡米された記念の写真集などは年配の信者さんだと大切に持ってらっしゃるので、いつか見せていただきたいですね。
今年の2月ごろに大石寺落慶記念の3冊組みの写真集をメルカリで出品していた不届き者がいたんですが、私が買えば良かったですー。
3冊組みで10,000くらいだったかな。
「関係者にしか配られなかった写真集」と説明にはあったんですが、購入しなかった事を超絶悔やんでいます。
1973年に発売された写真集「人間革命の記録」。アートディレクションが堀内誠一さんなんですよ。
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ワールドビジネスサテライト キャスター 小池百合子
スーツ交通|静岡県 駅
youtubeに最後の登山の映像がありました。興味のある方は検索してください。
秩父の宮「これからの日本人」
スポーツの宮様と呼ばれた秩父の宮
「これからの本当の日本人」
スイスのイメージがあった奥武蔵
1972年に浅間山荘事件
「ランド」の付く遊園地
正力松太郎
昭和天皇が皇太子時代に狙撃された虎ノ門事件で
神社
スピリチュアルART
坊主バーと寂聴さんの説法と御朱印
各宗派のアートフェスティバル
数寄です!山下和美
海老蔵さんと祈祷師さん
最近ずっと御朱印が流行していて、これのきっかけはなんだったのか?
クリエーターがスピリチュアルに絶大な信頼を持ってしまうのはなんでかがわからないので、これは後で書けたら書きます。
住まいと宗教 みんなのいえ
昭和建物探訪の講座ですが、今ちょうど戦後の荻窪の別荘地をGHQに買い上げされた1950年代を辿る回が終わってところなので、この講座の感想もまた今度書けたら書きます。おしまい。