コテンラジオを通して起こった精神の破壊と再生
コテンラジオとの出会い
コテンラジオという歴史を楽しく学べるポッドキャストがある。以前からツイッターでフォローしている人達がちらほら話題に出していて、気になっていたのだ。かつて自分も歴史が好きだった。でも大学入試の世界史で挫折していた。
そのころにはもう始まって3年くらいたっていてコンテンツが膨大。これ全部時間使って聞くのかと思うと躊躇したのだが、意を決して少し聞き始めることにした。
聞き始めたら本当に面白かった。いくつかピックアップしていこう。「最澄と空海」編は私がコテンクルー(寄附会員)になることを決意したものだ。もともと真言宗の中高卒業で、前提知識があったのもあったが、当時の仏教は国家鎮護のためのものである、というのが現代で言う「ミサイル防衛システムのようなもの」という例えがとても秀逸だった。
彼らが活躍した平安時代は呪術的な営みが国家安泰のために大真面目に行われていて、しかも当時の仏教は先進的な実学(建築・土木技術等)もセットになった総合学術であり、仏教(密教)が行う祈祷が重宝されていた時代である。でもこれって、今現代人が「すっごいお金かけて最先端の技術使って構築しているミサイル防衛技術がきっと役に立つと信じているのと同じ構図ですよね」と言われたとき、ああ、本当だ!となった。この瞬間、自分は1000年以上前の人と初めて心が通った様な、理解しあえたような、そんな気持ちになった。
人間というのは、結局分かっているもの以上のことは信じるしかないわけで、その信じるしかない領域で最先端に居る人の紡ぐストーリーを信じているという構図は今も昔も変わらないのだ。それはspotifyオリジナルの「陰陽師」編でも語られている。「今ケガレ市場来てるよ!」という樋口さんの例えは秀逸だった。
「性の歴史」の内容は相当に予想外だった。性って生物としての本能に近いものであるにも関わらず、実は相当に宗教的であり社会によっていくらでも変わりうるものだという内容だった。本能による合理的な衝動はもちろんあるのだろうが、人間そして人間社会はこんなにも「何かを信じ込む」という大きな力が働くものかというのが驚きだった。
第一次世界大戦と日露戦争編はショッキングだった。「民主主義」「国民国家」「科学技術の発展」、そんな今の時代でもほぼ無条件に「良いこと」とされる価値観を突き詰めた先に破滅的な戦争を生んでしまったことを理解したからだ。このあたりを理解してからヒトラー編やそのナチスドイツのプロパガンダ大臣「ゲッペルス」編を思い起こすと、彼らを単に「悪人」と突き放すことが出来なくなってしまう。あの極悪非道なナチスドイツでさえ、時代の中で生まれた必然があり、彼らは彼らなりに運命を全うしようとしたとしか思えないのである。
破壊
こんな感じで貪るように聞きまくったある日のことである。ふと自分の中に疑問が湧いた。
今短期的には「良い」と思っていたことが、長期的には「悪い」ことにもなる。その逆もしかり。自分の思いとは全く違う結末になることだって本当にたくさんある。歴史をたどるとそんなことばっかりで、そしてずっと長い長い年月の尺度で見るともはや「良い」も「悪い」も存在しなくなる。
そして人間社会は「信じる」ことで成り立っている。「昔は愚かしくも宗教を信じていたが今は科学がある」ではないのである。科学の及ばないところで、むしろ現代は宗教にあふれている。エンタメの世界では人それぞれが「推し」という偶像を見つけ、それを信奉し、捧げものをして生きている。その動きは近年より活発だ。しかも「科学」の世界も「信じる」ことでしか成り立たないのだ。科学的な知見の正誤はその根拠となる実験の確からしさを信じられるかどうかに依っている。いわゆる「似非科学」を信じてしまう人というのはアカデミックな領域で行われている実験と考察の積み重ねそのものを信じることができないのである。
さて、それを踏まえるとだ。
自分の仕事に一体何の意味があるのだろう。
だって、自分の仕事も、これが世の中の役に立つと「信じて」いるにすぎないのである。役に立つと思っているけど、長期的には単に破滅への道作りを助長しているだけなのかもしれない。
そして仕事のやりがいを「信じてる」のは自分の宗教に過ぎないのである。違う界隈から見たらバカバカしく思う人も居るだろうし、疎ましく思っている人もいるわけだ。いや、そんなことは分かっていた。自分が自分の仕事の正義性を信じ切っているときは何ら問題がなかった。だが、それはあくまでもあなたの宗教ですよね?絶対的な正義性なんてないですよね?と、それを理解してしまったのである。
全ては信仰であるとメタ認知して、自分の善と思い込んでいたその行いが「悪」となるかもしれなくて、果たして今まで通り自分の仕事に誇りを持つことが出来るのだろうか?
こうなって以降、1か月ほど、私はうつ状態になった。
原体験
まさにそのとき、やっていた仕事が、学生時代に毎日のように入った山の調査だった。10年ぶりくらいに入るその山は、数年前の台風による倒木がいまだに痛々しく爪痕を残しており、当時の面影とは程遠く、自分の心を揺さぶるには十分だった。
自分が幼少期からずっと心の奥底に抱えていたのは、気候変動(温暖化)のことだ。幼少期、環境問題に関する番組がとても多く、環境破壊で地球が壊れていくのがとても怖かった。それから大学に進学し、漠然とそういう分野で活躍したいと思っていたのだが、大学に馴染めなくてそれが挫折。自分を救ってくれた今の業界で仕事をしている。
だが、今この仕事を続けていて良いのか分からなくなってしまった。こうしている間にも気候変動の深刻さは増すばかりだ。結局自分も、目の前にある明らかな脅威から目を背けて享楽的に生きているだけではないのか。滅びへの道作りを助長しているだけではないのか。
一方、今の仕事に対しても、もうやりきったな、十分だな、という気持ちも生まれていた。この10年、必死に走ってきて、当時やりたかったことは実はもう達成されていた。裏を返せば少しモチベーションが落ち着いていた。
再生
一か月ほどの抑鬱の後、復活できたきっかけは3つほどある。
1つ目。「火の鳥」との出会い。
それはやはりコテンラジオからのものだった。spotifyオリジナルの「手塚治虫」編。漫画・アニメ文化の礎を築いた偉人。そのライフワークともいえる作品が「火の鳥」だ。子供を水泳教室に文化センターへ送った際、その待ち時間に図書室で見つけて読んでみた。
これにいたく感動した。
自分が読んだのは「望郷編」だった。(以下ネタバレ御免。)遠い未来、地球外の星に亡命した女性が人工冬眠と出産を繰り返し、その星を繁栄させ、しかし、どうしても地球に一度帰りたくて旅に出るという内容。
彼女は地球に帰った3日後に死んでしまい、せっかく繁栄させた星もその旅がきっかけで外患により滅んでしまう。
いずれ滅んでしまうもののために命をささげた彼女の営みは、果たして無駄だったのだろうか。
全くそうは思えなかった。むしろいずれ滅んでしまうからこそにその生きざまは実に美しいと思えた。
2つ目。ある日ふと気づいたことがある。
自分、「関心の輪」がでかくなりすぎてないだろうか。
大学に入りたての頃だったか、とても有名な自己啓発書「7つの習慣」を読んだ。その序章の内容が当時としては目から鱗だった。曰く、人間には「関心の輪」と「影響の輪」がある。「関心の輪」は自分の関心が及ぶ範囲、「影響の輪」は自分が影響を与えられる範囲のことだ。すなわち「影響の輪」は「関心の輪」に含まれる。
この「影響の輪」を出来るだけ大きくし、「関心の輪」の肥大を防ぎ、極力この輪の大きさの差が広がらないようしましょう、という大体そのような内容だった。
コテンラジオを聞いて、過去の人類に理解が及び、世界の解像度が上がった結果、自分、「関心の輪」が知らず知らずのうちに随分広がってしまっていないだろうか。
どれだけ勉強しても、どれだけ仕事が出来たとしても、所詮、一小市民に過ぎない。一小市民がそもそも気候変動だのなんだの、世界をより良くするだのなんだの、そんなのおこがましいと思わないだろうか?
今、SNSを開けば世界中のいろんなことが知れてしまう。自分と縁遠い世界の理不尽に憤り、恵まれた人に嫉妬することができてしまう。「関心の輪」が際限なく広がって、うっかり心を病んでしまいがちだ。そのことを私はコロナ狂騒のなかで痛感した。
余談だが、この「7つの習慣」やはり名著なので、大学生~社会人なり立てくらいで一度は読んでおいた方が良いと思う。
そして3つめ。とても単純なこと。締め切りが絶対で、かつそれなりに付加の高い仕事(大会の主催)が近づいてきており、うだうだ考える暇がなくなってきたのだ。悩もうが悩まなかろうが必達の仕事。それを無事終えられたとき、
もう元の自分に戻っていた。
後で知ったのだが、この自分のような悩みは「実存的不安」という名前が付いていて、多くの人が陥りやすいものだそうだ。なるほど。「何者かになりたいけどなれない」という悩みをツイッターでちらちら見たことがあったが、そうか、あれも根底は同じだ。
まとめ
以上、このようなストーリーで破壊と再生を記録してみたが、実際のところこんな論理的な展開が本心だったかどうかは分からない。単に、この10年間の育児と仕事の疲れが出て休みたかっただけなのかもしれない。人間というのは都合のいい言い訳のために平気で論理を組み立てる生き物である。
さて、コテンラジオと出会えてよかったのか、というと、やはり良かったんだと思う。でも、別に仕事の役に立つかというと、別にそうではない。それはコテンラジオのご本人たちがおっしゃる通りだ。
ただ、このような精神の破壊と再生を経て、何か自分に変化があったとすれば、より考え方や信念の多様さを受け入れられるようになった気はする。ああこの人がこういう考えを持つに至るには相応のバックグラウンドがあったんだろうなって想像できるし、そして逆に、今常識として信じられているものの不確かさ、危うさを心に留めておけるようにもなった気がする。
結局、「みんながみんなそうは思わないよね。でも自分はこうするよ。自分が間違ってるのかもしれないけれど。」それを続けていくしかないのだと思う。
人間は賢い。賢いがゆえに、どれだけ頑張っても自分が一働きアリでしかないことに気付いてしまう。気付いた時に、無力感に苛まれて悲観するか、働きアリであることを受け止めて生きていくかの違いなのだと思う。
自分は、幸いにも守るべき人、愛すべきもの、目指すべき世界に恵まれて生きている。ならば、その生を全うしようではないか。たとえそれが破滅に向かっていたとしても、それもまた美しい。