作品「バイエル」


バイエル


 焼き肉の煙が目にしみる鶴橋の駅。ざわつく改札を抜け高架沿いの道を北に歩く。寿司屋、ドラッグストア、居酒屋、電器屋、囲碁サロン、ちゃんこ鍋屋、餃子屋、お好み焼き屋などを過ぎ玉造の町に入る。そして「日の出商店街」とはいうものの、ずっと日の出を待ち続けているような商店街に足を踏み入れる。しばらくシャッターが続きすこし淋しくなる。昭和風情のゲームセンターに惹かれつつ自転車屋さんを左に曲がる。するとポッと日が昇ったような丸いライトが目に入る。
 それがバイエル。

 日の出電灯にたどり着くと朝の光のようなすきっとした佇まいのお店である。そっと扉を開けるとカステラの甘い匂い、気持ちいい吹き抜けの空間、はにかんだように微笑む店主が迎えてくれる。僕はたいてい苦うまい珈琲を注文する。そして店主の梅田君ととりとめのない話をする。二階に上ればちょうどいい狭さの図書室がある。そこにはたくさんの写真集、デザイン本、詩集、原発本などが並んでいる。ユニークで静かな場所。ぐっすり居眠りもできそうだ。そういえば肩もみ器が置いてあるのも見たことがある。
 それがバイエル。

 店主の梅田君はお酒が好きだ。奈良の老舗居酒屋「蔵」に連れて行くといたく喜んでくれた。おでんと日本酒で何時間もぐだぐだと話をして、さらにぱっとしないバーをハシゴしたことがある。あれはその帰り道。気持ちよく酔っぱらったふたりが路地からふらっと通りに出ると驚くべきことが起こったのだった。
 それがバイエル。

 場所が文化を創り、文化が人を育てる。だからいいお店は小さな学校みたいだなと思う。人が集い、出会い、語りあう。ひとりで本を読んだり物思いに耽ったりすることもできる。
 いいお店には少しずつ人を成長させるところがあると思う。その場所で時間を過ごすだけで人を成熟させる、そんな雰囲気を持った店があると思う。
 そして、それがバイエル。

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