作品「老人と猫」


老人と猫
 
 
 大阪の小さな町に住んでいた頃、ふと思い出したように外食をすることがあった。向かう先は、いつも同じ。駅にほど近い焼き肉屋である。戦後、しばらくして地面から這い出てきて、そのまま疲れ果てたような平屋の建物だ。瓦が数枚ゆがんでいるが、気にするレベルではないだろう。磨りガラスの引き戸を開ける。「いらっしゃい」、店主が小さく声をかける。
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 中は、裸電球がいくつかぶら下がっているだけなので、ほの暗い。黒っぽいカウンター席に腰をかけ、「焼き肉セットと生で」、小さく声をかける。「はい」と店主も応える。焼き肉屋なのにたいていの客が、ひとりでやってくる。ここでは、すべてが、物静かに進行していく。そろそろといつのまにか席が埋まり、店内は焼き肉のけむりと匂いが黙々と充満する。ビールケースに敷かれた座布団の上では、たいてい猫が眠っている。
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 店主は、黒縁眼鏡をかけた小柄な老人だ。ふさふさとした白髪と人なつこい目元のしわがやさしげな人である。日本語がどこかカタコトなので、朝鮮の人かもしれない。五十年ほどここで商売を続けてきたらしい。誰も人を雇っていないので、忙しくなると「猫ノ手モ借リタイヨ」と真顔で冗談を言う。
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 この店には屋号がない。紺色ののれんに白字で焼き肉とだけ書かれている。老店主に訊いても「名前ハ、マダナイヨ」と、とりつく島がない。店名がないのは、やはり不便なので口の悪い客は「ねこにくや」と勝手に言っている。おそらく「猫がいる焼き肉屋」、もしくは「猫の手も借りたいが口癖の店主のいる焼き肉屋」を省略したのだろう。決して「猫が手伝っている焼き肉屋」ではない。猫は、眠っているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


『言の森』(BOOKLORE)
『歩きながらはじまること』(七月堂)

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