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インターネットニワカ論

インターネットは楽しい。

SNSでフォローした人の感性に触れることが出来る。動画サイトを見れば、見た動画に伴ってオススメの関連動画を表示してくれる。こうした自分にとって良いと思ったり、好きだから見たいと感じる、そんな情報ばかりが身の周りにある状態を、フィルターバブルという(らしいよ)。不快になる要素が一切ない、楽しいという感情の泡風呂に浸かっている状態を想像してもらえば良いと思う。この場所にずっといたい(湯船にずっといたい)という気持ちがある一方で、もちろんのこと直視したくない世界は存在する。

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好みの入浴剤ではないパターン、つまりは自分にとって不都合だったり、関わりたくないと思う情報と向き合う場合である。もちろんのこと、流れてはならない情報というものは存在するし、誹謗中傷などは即刻排水口に流してしまえばよいものだったりする。しかしながら、線引きを必要としない多様な価値観を認めなくなってしまう場合が考えられる。自分の良いと思う価値観だけが集まる環境においては、〇〇が好きという考えが前提となって話が進んでしまう。異なる価値観に出会った時にその前提をリセットし、フラットな視点で物事を考えられるのなら、何ら支障はないだろう。しかし、簡単にそうしたことが出来る人は多くはないはずだ。何かにすがりたい、この価値観に沿っていれば間違えることはない。日常生活においても、こうした考えを受けて、ルーティンが変わらないことは多いと思われる。また、フィルターバブル下で生まれる連帯が、リセットのハードルをより困難なものにしているとも言える。(え、おま、〇〇サイコーって言ってたじゃん、え、は、マジ?グループ抜ける感じ?へーそう言うこというんだね、バイバイの流れ)

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自分の一番が必ずしも他人の一番ではないことは、当たり前なことではある。しかしその当たり前が当たり前でなくなることが、フィルターバブルでは起こってしまう。インターネットに限ったことではなく、一つのものを信仰する宗教も構造自体は同じであると言える。そういう観点からすると、現代は各々の宗教が多種多様に、規模を問わない形で存在しており、インターネットは宗教展示場であると言っても、あながち間違えではないように思われる。その数に伴って、宗教戦争が増えなければ良いと祈るばかりではある。(ものすごいネットニュースの締め感)

ここからは個人的な感想になる。インターネットに触れているときの自分がどういう状態になっているかを考えたとき、パイプのような存在を想像する。なぜパイプかというと、インターネットに触れているとき、画面から流れる情報が自分の中をとめどなく通り過ぎていくような感覚に陥るからだ。その流れてくる情報が液体であり、パイプを通って何かしらの化学反応が起こる時に、楽しいや面白いといった感情を持つ。そういう過程が想像の中で繰り広げられている。しかし、「何かしらの化学反応が起こるから感情が生まれる」という考えに至ったのは、ぼーっと特に感情を抱くことなく画面を見続けていたことに起因する。

特にすることもなく、ただただ画面をスクロールして面白そうな情報を探す。この行為をしているとき、無駄な時間の使い方であるとはどこかで思っている。しかしながら、やる気がちょうど指先のスクロールの労力と見合うくらいだったりする。その無気力さの中で、面白そうな動画を見つけると、一変食い入るように楽しんだりもする。何かがヒットするまではパイプに情報がただ流れているだけの状態、ということだ。ここまで書いていて連想されたのは、ドラッグ的な病みつきになるヤバい何かである。「俺を楽しませるコンテンツをくれぇ」とひたすらに関連動画をスクロールする。客観的なおかつ主観的に見ても健全であるとは言い難い。ある種何か行動に移さないことの言い訳を書いていると思われるかもしれない。と、するならばそれはそれで現状の不健全さに気づくことができたため、自分的には良かったと言える。

フィルターバブルと実体験に即した形でインターネットを書き出してみたが、どちらの面でもある程度の距離感をもって接した方が良いというのが、率直な感想ではある。無限に味方が周りにいてくれる、というのは泡風呂に浮かぶ蜃気楼的な何かに過ぎない。楽しいという感情が表出しているようで、それは自分という主体が一切感じられなかったりもする。

インターネットは楽しい。ただし、幻想の中において、と付け加えておこう。

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