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直径2メートルと果てしない物語世界(自閉ってつまりこーゆーこと)

「自閉」を文字で見ると、暗い性格のような印象に見えるかもしれません。しかし、暗いも明るいも何をもってそう言うのか、基準はひとそれぞれです。じへーの中にもいろんな性格の人がいます。じへーとは性格や暗い明るいのことではないのです。

前回、じへーはとにかく「狭い」と書きました。今回も「狭い」についてのお話です。


自分が小学生の時の話です。大掃除か何かだったと思うのですが、クラスのみんなが校内に散らばり、担任の先生が順番に見回る状況でした。子どもたちは先生の目がないと、案の定みんな遊びまくりです。例外なく自分もみんなと雑巾投げ大会をして遊んでいました。

そこに先生登場です。「雑巾投げて遊んでた人!ここに来なさい!」小学校の先生特有の、圧を感じる声が校舎の中に響きました。子どもたちはゾロゾロと先生の前に集まります。

私はというと、とっさに物陰に隠れました。強い口調の先生に恐怖を感じたので何も考えず隠れたのです。しかし、それで終わるわけがありません。先生は出てきた子供に「これだけ?他には?」と聞きます。友達からの「ばーばちゃんもやってた」との申告で、隠れた卑怯者ばーばちゃんはあっさりと見つかり、みんなよりたくさんのお叱りを受けることになりました。

このことを子どもながらに「他人は自分より正直。自分は卑怯。」と理解しました。(ちびまる子ちゃんに藤木くんが出て来ると、いつも微妙に心が痛かった)

大人になったとき、ふと笑い話のつもりでこの話を友人にしたことがありました。すると、友人がこんなふうに解説してくれました。

「それは卑怯じゃなくて短絡的なんだよ。みんなは先生に叱られておいたほうがマシだと分かってるから、逃げなかっただけ。掃除をさぼっただけだから、叱られるにしてもすぐに終わる。逃げたら面倒くさくなる。子どもでもだいたいわかること。卑怯といえば、人間みんな卑怯だし。」


このエピソードでお分かりいただけたでしょうか。じへーと非じへーの思考範囲の違い。物事の読みが「狭い」んです。読みがワンステップで終わってしまうというか。。。ツーステップ読んでいれば、たかが掃除のさぼりを見つかったくらいで逃げない。そういうことだったんです。

恥ずかしい話ですが、これを聞いて目からウロコでした。そんなに人と自分では考える範囲が違うのかと驚きました。このことに関しての自分の解釈がまったくの的外れ、見当違いで、今までの藤木くんを見る時の微妙な心の痛みはなんだったんだと。本当に思いました。


じへーさんひとりひとりで、思考範囲にも差があると思います。数値にはなかなかできないけれど、距離にして例えてみれば自分から半径1メートルの人もいれば、もうちょっと広くて3メートルの人もいるだろうし。それがどんどん広くなれば、もう、じへーとは言わなくなるし、もっと広くなれば「たどー(多動)」の域に入るのだと思っています。

そして、その思考範囲の外側には広大なファンタジー世界が広がっているのです。

突然、1か月で10キロダイエットする!できる!と思ってしまったり、待ち合わせまであと10分しかないのに、間に合うような気持ちが出てきたり、無茶な支出でクレジットカードの支払いが苦しかったり。

本人はファンタジーだという認識はありません。ただ、それを実現するためにしなければならないことや、それに伴う労力、苦しみなどの想像がスコーーーーンと抜けて、わくわく感と、その時限りのやる気が満ち満ちてくるのです。これだけやる気があれば、きっとできる。そんなとき、私の脳内BGMにはきっとネバーエンディングストーリーが流れているのだと思います。その時は気づかないけど。

このことを友人は「ポジティブ脳」と呼んでいます。自分的にはこの呼び方は微妙ですが、先読みできすぎて先々困ることがだいたい予想できる人にとって、この無謀なファンタジー染みた「ポジティブ脳」は行動を起こすきっかけになれる一面も持っています。

じへーは、一人ではちゃんと機能しない面がたくさんありますが、違うタイプの人と理解しあって行動することで、マイナス面がプラスに転じることも多々あります。じへーに限らず、人間というものは、そういう性質なのかもしれません。

ちょっと長くなってしまいました。また書きますので、よかったらお付き合いください。

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