まちがうとしぬ(自閉ってつまりこーゆーこと)
じへーとしてこの世に生を受け、じへーのまま生きていますが、じつはずっと認知が「コントラスト100」「有罪か無罪か」「白か黒か」という水面下に潜む感覚と共に生きています。
どうやっても捨てられないモノクロの世界。ぺんてる24色カラーとか贅沢を言わないから、せめて基本5色セット、いやせめてグレースケール有りで生まれてきたかったと思うのです。
しかし「白か黒か!」って極端な認識でテンパったり、人の小さな不義に目くじらを立てたりするのに、実は自分もけっこう勝手なことをしているのです。それだけならまだいいのですが、自分の都合の悪いことには99%気づかない。それがじへー。(自分のことで満ちている世界で生きているから、自分が困らなければ自分勝手なことをしている実感が湧かない)
まあ、自分では気づかなくても、他人からツッコまれますよね。「言ってることとやってることが合ってないよ」てね。
しかし、じへーは他人からの指摘が大嫌い。または大ショック。
だって、じへーは まちがうとしぬ みたいな感覚があるから。
まちがうとしぬ はオーバーな表現かもしれません。しかし、他人からツッコミを入れられた時のじへーさんたちは、だいたい言い訳を引っ張り出してきて、最終的に「○○のせい。仕方なかった」「他に原因があった」「そのとき限定の原因があったんだから仕方ない、通常ならば私は何も問題がなかった」と結論付けます。
それが何か重大な過ちなら、誰もが原因究明するでしょう。しかし、ちょっとしたことだったり、過ぎてしまったことでも、同じ反応になります。少しでも言い訳できる材料があればそれを持ち出して、自分のライフが削られることを避けます。たとえそれがもう終わったことでも。他人にとってどーでもいいことでも。
そう。周囲から見ればプライドばっか高くて、融通がきかなくて、察しが悪くて協調性もなくて、ふだんは薄っぺらな優しさの大安売りをしているくせに、肝心な時は冷たい。
学生時代の親友が付けてくれた呼び名は「冷たい布団」でした。あったかそうな見た目で人を誘い込み、いざ布団に入ると冷たくてびっくりする。というのが由来です。これは今でも自分で使っています。私を表す言葉としてあまりにも的確で、名付けた友達は本当にすごいなと、いまだに感心しています。
まあ布団の話は置いておいて。。。
大人になっても まちがうとしぬ という感覚は無くなりはしないのですが、現実世界ではそうじゃないということがわかってきました。
まず、みんな間違う。当たり前。
だれも100%の正しさを求めていない。
物事はなんでも多面性があって、見る角度によって同じことでも違う意味になる。100%の正しさなんて現実味のないことを考えてるほうがどうかしてる。
指摘されたことを、100%改善せよと受け取るから、引き下がれなくなる。たとえ「次からは絶対しないで」と言われたとしても、それはそのくらい大事な事だということを伝える言葉。100%絶対の約束を求められているわけではない。そもそも、そんなこと人間には無理。
誰でも失敗する時は失敗する。
誰でも、失敗して嫌な気持ちになってる。
誰でも苦手なことを抱えてる。
誰でも落ち込む。
誰でも自己不全感を持ってる。
誰でも冷たい面がある。
誰でも自分勝手なことをする。
完璧にいい人はいない。
完璧に悪い人もいない。
自分に注目しすぎると、こんな普通のこともわからなくなって、自分の正しさや自分の価値にこだわってしまいます。
だから、いまも崖っぷちに立ってこれ以上引き下がれないと感じている人に、本当は地面がどこまでも繋がっていることを伝えたい。
自分が周囲を見ていないことに気づいてほしい。目を開いてみてほしい。
崖だと思っているところに一歩引き下がって足を下してみたら、世界がいっぺんに広がるよと。
伝えたいです。
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