天に咲う
応援すらもノイズになる。
その一言に、かっと燃える。
視野がせばまりやすいたちなことは、先刻承知。
それでも、坂爪さんが書かれることばに、違和感をおぼえることが多くなっていた。だいたい2か月くらい前の話だ。
曰く、上の通り。
曰く、嫌ってほしい。
曰く、ひとのことでなく、自分のことに集中してほしい。
それだけ強い言葉を吐くひとが、何を言っているのだ、と思う。
これは、それ。そして、どれ。
何かをさだめ裁く言の葉は、なにかに飢えるひとにとって、麻薬のようなききめを持つ。毎日まいにち間断なく、無償でそれが与えられるなら、よしんば自身の問題から目をそらし、貴方のそれを読み解釈することに思考がスライドさせられるとしても、ましてや得手勝手にイメージをふくらませて好意や悪意を寄せてしまうとしても、責められるべきことではない。影響力を考慮しきれず、不用意にことばを発したほうにも、相応の責任がある。
そしてご自身で認めようが認めまいが、坂爪さんの言葉にはそれだけの力がある。
自分いがいにあたえてしまう陰に苦しむのは、仕方ない。光が強いだけ、反射する闇が濃さを増すのは、この世の道理。
だからこそ、受けた相手にどうしてほしいと思うのも、それを吐き出すようにするのも、失礼だと思った。相手にも、坂爪さんの業と表裏一体の、才能にも。
才能が、気の毒だ。
春のきざしが午後の光にひるがえる、遅い冬の日。しんと静かなひとり暮らしの部屋で怒っておこって、それはもう怒って、ふっと気づく。
何かに怒りをおぼえるときは、ほんとうは、自分自身に怒っている。
放つことばの矢印は、すべて自分を指している。
ならば、ひとまず黙らなければいけないな。
そう思って、口を噤むことを決めた。
黙っているあいだ、ひたすらに考えた。
わたしの業は、なんだろう。
とっかかりの問いはむつかしすぎたようで、何ひとつ思考が進まない。仕方がないので、切り口を変える。
わたしの才能は、なんだろう。
あえて言挙げするようなこと、何もできないけれど。なぜかそれなら、すらりと浮かぶ。
掃除。雑用。作文。
ぜんぶ、考えなくても手が動く。それから、誰かがよろこんでくれる。
そしてそれらが得意になったのは、だいたい、さびしいからだった。
いつどうなってもいいように、整理整頓清潔を保つ。
嬉しい顔が見られるから、よろこんでと駆け出す。
そうして、おおもとの理由(さびしさ)はどうにもできないから、いつも苦しい。それで、隠れてお酒を飲んだりお菓子を食べたりする。一度逃げぐせがつくと、あきらめと罪悪感はますます深まって、どうせ私にゃ、どうにもできない。自分を見捨てる確信が強まる。
それはちょっと違うんじゃないか。はじめて、そう思う。
さびしいからこそ、字を書くことを好きになれた。それでたくさん、見たことのない景色を見られた。
忘れていた恩恵を、やっと思い出す。
さびしさは、今ここにたどり着くために手助けをしてくれたものだった。
逃れようとするのが、そもそものまちがい。
吹けば飛ぶよなはかない身、この先どうなるかなんてわからない。恋人ができるか、家族ができるか、たとえばいずれそんなことが起きるにしても、一生誰ともわかち合えないさびしさは、きっと抱えたままだろうと思う。
それでいいと思えたら、一歩前進。だから今このときは、一歩前進。
わたしはわたしの才能に、気の毒なことをしないですむ。
怒りへの答えを、ようやく手にする。
武道館に降臨する、とは、昔ふうの言いかたに置き換えると、人事を尽くして天命を待つ、になるのではないか、と思う。
ではその人事は、どうやったら尽くせるのか。
自分自身でいるということは、そのときそのときの気持ちに素直であることという。そのとおり。
それを言い訳に、逃げていないか。
己の苦しみをやわらげることを、第一義に持ってきてはいないか。
自分自身であることは、そんなにだいじと思わない。嘘をつくのもごまかすのも、ずるい手を使うのも、全部そのときの自分で、自分自身だから。
ただ、髪の毛ひとすじほどのあざむきを、自分の心に許したくない。
何かを誓う。ひとでなく、天に誓う。
それの経緯は、どうでもいい。勢いだった、勘違いだった、よく思われるための嘘だった。そんなんでも、いい。
誓ったなら、力を尽くしたい。白紙に戻すことをも含めて。
そのために、何ができるか。薄紙をはぐように考えに潜っていきながら、一日いちにち、その日の分だけ、手を動かす。
そんなふうに、この春ははじまる。