見出し画像

夢は孤独死

  ソファーは白が良い。生成り色に近いあたたかみのある白なら最高だ。座面の下に空間がないタイプで、頭を支えるのにぴったりなひじ掛けが両側にひとつずつ。脚か頭、どちらかのおさまりが悪いのはいやなので、横幅は身の丈よりも少し長い。するとかなりかさばるソファということになるが、大丈夫、年に一度の健康診断でこの体は1年におよそ0.5cmずつ縮んでいることがわかっている。きっとそのときには、もっともっと小さくなっている。
 リビングの窓は西に開いていて、夏場はかなり室温が上がる。ソファは窓に正面を向けて置いてあるから、西陽を浴びながらくつろげるのは二百十日を過ぎてからだろうか。あいまいな季節の境目、家中の窓を開け放し、去ってゆく夏を惜しむ。時折、思い出したようにそして赤子のように鳴く猫の心配をすることはもうない。とうの昔に見送った彼は、今は本棚の隅の骨壺の中で息をひそめている。
 日が沈み、昇る。
 昼も過ぎて、訪うのは誰だろう。たぶん、ヨウコちゃんだ。ヨウコちゃんは大学一年生のときに200人くらい入る大きな教室の講義で知り合った、ひとつ年上の女の子だ。こんなにひろい部屋で一番前に座るなんて、と思ったとあとで聞いた。濃やかな気遣いが得意で、変人を受け入れる海よりひろい心を持っているヨウコちゃんは、すくない友だちの中でも抜きんでて面倒見が良く、得意満面で的外れなことばかり言う年下の生意気をとても大切にしてくれる。
 久しぶりにお昼ごはんでも、と約束をして、時間に来ない。何度か電話をかけて、待ち合わせからさらに1時間辛抱して、もしやと思って来てくれた。逸る胸を押さえて、震える手を握りしめて。もしかしたら旦那様も付き添ってくれているかもしれない。いつか、チャーミーグリーンみたいなおじいさんとおばあさんになりたいのと言っていたとおりに叶えたに違いない、物静かで賢くてヨウコちゃんを宝物のように思っている旦那様。
 鍵は開けてあると思う。意図せず、うっかり。
 かすかな腐臭が鼻を衝く。
 リビングのドアは開いている。カーテンが思い出したように揺れる。秋の初め、傾きはじめた午後の日差しがソファを光と影とに染め分けている。
 すっかり白くなった頭のてっぺんが、端からほんの少しだけ覗いている。
 そんなふうに死にたい。

 おとなしくてマイペース。何でも真剣に取り組みます。お友だちに優しいです。
 ほんとうは気が強いだけで何の取り柄もない子天狗の鼻は、あれよあれよという間に伸びた。勉強は苦にならなかったから、どんどんした。足は遅くて運動神経も悪かったけれど、悔しくて毎朝家の周りをちょらちょら走って、マラソンは学年で10番になった。えらい、良い子とほめてくれた人びとには感謝しかない。問題は、中身がからっぽのまま走り続けた自分のほうにあった。
 18歳になる直前の春だった。所属していた演劇部は、部員皆で作品をつくるという伝統で、ひとりが強い力を持つことがない代わり、意見がぶつかったときには多数決になる。作品の質を高めたい。なんにもわかっていないくせに、そんな生意気を言って、賛同してくれた少ない仲間と番外公演をすることになった。
 二人芝居。大量の台詞は問題ではなかった。それまでに舞台に立ったのはたったの1回。どうにかお芝居の輪郭はできても、どうしてもその先に進めない。これじゃない、こんなのは違う。もがく中、稽古を見てくれたOBが帰り際、きびしい感想を伝えてくれた。言いづらそうに、でもまっすぐに。夕闇に沈みはじめた景色の中で、街灯に照らされた白い顔を今も覚えている。
 苦しかったぶん、成功の喜びはひとしおだった。
 でもその終わりかけの春の薄闇の記憶を境に、普通にものを食べられなくなった。

 ときどき、今も17歳のままなのではないかと思うことがある。
 あれからいくつもの春を送って、迎えた。友人ができて、恋人ができた。浮かべるだけで勇気の出る言葉にも沢山出会えた。それでも、体の奥底はすかすかして取り繕うのがやっと。それはなにより、己の甘えの証拠と思う。
 傷ついて、閉じた。それは仕方のないことだった。
 かんじんなのは、そこから。なのに傷口から目をそむけ口元だけ形を作って、自分勝手にあきらめるから、そこは未だにみにくく膿んで、くさい臭いを放っている。

神よ、今日の恵みを与えたまえ
一生の恵み、来週の恵み
明日の恵みではなく、今日一日だけの恵みを。
わたしの考えを導き、祝したまえ
わたしの仕事を導き、祝したまえ
わたしの言葉を導き、祝したまえ
わたしが考え、話し、なすことすべてを導き、祝したまえ
今日一日、今日一日だけは、あなたから発する
恵みの贈り物をいただけますように…
―サラ・バン・ブラナック『シンプルな豊かさ』

 この祈りの文句を知ったのも、十代の頃だったと思う。
 自分とはかけ離れた美しいものだと感じたような気がするが、あとあと作り上げた記憶かもしれない。人ひとり、生まれて社会に出るくらい長い時間に隔てられた、その向こうで起きた出来事だ。
 そのときはノートに書き留めた。今はそらで言える。
 目が覚めて最初に、眉間の上、目と目のちょうど真ん中あたりにこの句が浮かぶときがある。ひとりならば、小さく口ずさんでみる。
 いつも頭の隅で先をいそいでいるから、途方もないことに思える。
 ときどき、ほんとうにときどき、できそうな気がすることがある。
 予感を掴まえられたことは、まだない。
 
 どう死にたいか考えるということは、どう生きたいかを考えることと同じだと書いている人がいた。
 ひとりきりで死にたい、というのは人との関わりを断ちたい、という意味ではない。
 その瞬間にいること。この目で見て、この手で触れて、この心で感じること。そこから逃げないこと。苦しければ苦しむこと。嬉しければ喜ぶこと。何が起きても受け入れること。言い訳をしないこと。嘘をつかないこと。
 そのときが来たら、静かに覚悟を決めて笑うこと。
 全部、ひとりで。この体で。

 夢は孤独死。きちんと生きて、きちんと死にたい。
 
 
 
 

いいなと思ったら応援しよう!