短歌エッセイ「田舎町列車追いかけ走る春忘れないでと願いながら」
満員電車に揺られている。
午前7時20分の電車はわたしが乗りこむ前からすでに定員オーバーで、
人を無理やりに押し込んで、わたし自身も押し込まれながら詰め込まれる。
みっちりと詰め込まれているのに、
電車が大きく揺れると、バランスが崩れる。
とっさに左手を伸ばしてみるけれど、つり革までは遠く届かない。
人の荷物と荷物に挟まりながら、無心で目的地まで耐え忍ぶ。
「わたしさ、電車に乗って通勤してるんだよ」と言ったならば、
みんなは驚くだろうか。
「さすが大阪」とか言って、そのあと「おまちやなぁ」って言うんやろうかか。
わたしはときおり思い出す。
あの愛おしくてたまらない田舎町のこと。
電車も走っていないような田舎を去ることになった最後の日の記憶。
晴れていた。
春のあたたかい日差しが心地よい穏やかな日だった。
桜は満開で、今年の新入生が入学するまえにはきっと散ってしまうのだろう。
ゆっくり歩く。
学内で携帯を取り出し、シャッターをきる。
ここ1週間くらいは、そうやって生活していた。
教師も先輩も最後を目の前にして、寛容になっているのか
学内携帯禁止という一大ルールを破る姿を見ても何も言わない。
心地が悪かった。
それも、今日でとうとうおしまい。
「すばる、元気でね」
「いじめられたら帰ってくるんよ」
「むこうに慣れても、ちゃんと連絡してね」
わたしは友人たちと、もう何度目かわからないやり取りを繰り返す。
すれ違うたびに、声を掛けられるので校門までの道のりがひどく長く感じた。
抱えた荷物が、思い出の分だけ重たくなってゆく。
ふと、誰かに呼ばれたような気がしてグラウンドを眺めた。
長年の片思いとは恐ろしい。
グラウンドには長く片思いをしていた友人がいた。
向こうもこちらに気が付いたようで、大きく手を振っている。
「にしなー!!元気でなー、忘れんけんな!」と、無邪気に言うので
「ありがとうー!!」と、大きく叫び手を振り返す。
嬉しくて、悲しくて、苦しい。
この人とわたしは、もう二度と会うことはないのだ。
気配を察知できなくなるほど離れた距離を生きるうち、
きっとわたしはこの人を好きだったことを忘れていく。
最後に後ろ姿を焼き付けておこうと、滲む世界で懸命に目を凝らした。
顔を鮮明に思い出すことができなくなった今もなお
赤い練習着、背中の33番は、まだ覚えている。
何年も過ごしてきた町は今日も変わらず平凡で、ゆっくりと時間が流れていた。
広いグラウンドをかけるサッカー部、テニス場があって、野球場がある。
卓球場に剣道場、体育館にはバスケ部とバレー部が部活をしている。
学校のいたるところで散らばって練習している吹奏楽部の音色が聞こえる。
一番遠くに聞こえるのは、旧校舎を練習場所にしている琴の音色。
大好きな母校
まだ続くはずだった日常生活から、わたしだけが巣立つ。
「強く生きてね」と母が泣いていたのは、去年の6月のことで、
それからは受験や住まいのことであっという間の日々だった。
「せっかく中高一貫の学校なのに、離れたくない」と、
泣きわめいてはみたものの、中学生のわたしはあまりに無力だ。
「引っ越す」という事実を前にして、ただ淡々と高校受験の勉強を強いられた。
受験に落ちてしまえば、ここにいられる。
そんな浅はかなことを考えた時期もあった。
馬鹿みたいに、反抗をして勉強を放棄した。
だけど、どうにもならないことがあることを理解している自分がしっかりと存在していて、反抗は1か月ほどで自然と終わりを迎えることとなる。
3学期になり、私立高校を受験した。
制服がそこそこ可愛くて、引っ越す家からそこそこ近く、学力がぎりぎり足りる高校に、わたしは無事に合格する。
安心して喜ぶ自分の心の片隅に、
「あぁ、これで本当にお別れになってしまった」と、さめざめと泣く自分がいた。
受験が終わると、いよいよ本当のお別れが近くなる。
一貫校を出ていく人間は僅かで、本当の意味のお別れはわたしだけだった。
「わたしだけが、この日常からすっぽりと消えてなくなる」
怖くて悲しくて、どうしてわたしだけがこんな目に合わなくちゃいけないのだと、学校のトイレの中で何度も泣いていた。
ただ、トイレの片隅で泣いてみたって、神さまとかトイレの女神様が助けてくれるわけでもなく、なぞに目の腫れた女子中学生ができあがるだけだった。
門が近くなる。
駅は近いけれど、荷物が多いのでタクシーを呼んでいる。
これから駅の近くのお総菜屋さんで弁当を買って、汽車に乗るのだ。
家族と待ち合わせる新幹線の駅までは4時間半もかかる。
帰る家がなくなれば、ここに帰ってくることが困難になることくらいわかりきっていた。
名残惜しい。
二度と見ることがないかもしれない校舎と、残していく仲間たち。
滲む世界の片隅で、何人かのクラスメイトが手を振っているのが見えた。
お弁当を購入して乗り込んだ汽車は空いていて、まだ他の乗客はいない。
一人ぼっちだった。
駅前の南国みたいな木々を眺め、この町の思い出を反芻させる。
わりと雪がふるまちで、南国みたいな木々に雪が積もることをはじめはおかしく思っていた。
観光用に植えられたのか、ほかの用途があったのかはわからないけれど、
祖父母はこの木を見ると「あー、来たなぁ」と思うらしい。
わたしもいつか思う日がくるんだろうか。
それは嫌だなぁと思う。
当たり前にそこにあった木に対して「懐かしい」と感じる日がくること、
日常が懐かしい過去の記憶へ変わってしまうこと、
ずっといまの記憶でいてほしいと願いながら出発のベルを聞いた。
ゆっくりと景色が流れようとする。
携帯が着信音とともに震える。慌てて消そうとすると、親友からだった。
ふと気配を感じて窓の外を見る。
10人くらいの特に仲の良かった友人が全力で電車を追いかけてくる、
部活動のユニフォームを着ているので、抜け出してきてくれたんだろう。
これは人生で3度目の転校で、
あの子たちの日常が色鮮やかに更新されていくたび
わたしの記憶は古くなって色あせていくことは知っていた。
いつだって、わたしは忘れられる側の人間だ。
この田舎町での日常をどれだけ愛おしく思っていても、
過ぎ去る時間と共にあの子たちの愛おしい日常は少しずつ更新されて
わたしは排除されていく。
どれだけ好いてくれていたとしても、時間に抗うことはできない。
少しずつ距離が離れる。
手を振る友人たちが小さくなる。
桜が散っている。
いま、あの子たちの記憶の真ん中にわたしがいる。
愛おしく離れがたい日常の真ん中にわたしがいる。
忘れてしまうことを、わたしは知っているけれど
何度だって祈ることはやめられない
どうか忘れないで。わたしのことを忘れないで。