2018年08月27日17時41分44秒

カワイイ言葉とチェンジマネー[1992年/昆明・石林編/中国の高度成長を旅する#7]

諦めない羅くんに付き合わされる 昆明

 ふらふらになって列車から降りると、まだ朝八時半だというのにけっこう暑かった。ふらふらして朦朧とする頭で僕は違和感を覚えた。海抜一九〇〇メートルの高地にあり、一年を通して、ほぼ二〇℃以下という、この街は春城と呼ばれているはずなのにだ。到着した場所を間違ったんじゃないかと一瞬疑った。しかし、駅名はやはり昆明で間違いなかった。
 そのとき僕は切符を持っていなかった。車両が昆明駅に到着する直前、羅くんが「切符を見てもらおう」と書き記して見せて、僕から切符を取り上げてしまったのだ。僕は拒んだはずだが、彼の真剣さにたじろいだのか。手渡してしまった。
 列車が到着し四人は下車する。羅くんは先に歩き、有人の改札で四人分の硬券を差し出した。
「**********」
 羅くんは駅員に何やら訴えている。それはもちろん、どちらが本物なのかということだろう。しかし次から次へと押し寄せる人混みの中で彼はかまってもらえなかった。
「行け行け」と追い払われるように素っ気なく駅員にされたのだと思う。それを受けて四人は改札を出た。
 僕は三人に対して「再見!」と言い、三人も僕に「再見!」と言ったはずだが、その別れは、会えた喜びを爆発させ心から別れを惜しむというものではなく、歯切れの悪い別れとなった。彼に対しては、なんで最後に蒸し返すのかという気持ちと、申し訳ないという二つの気持ちが同居していたが、その気持ちがグルグルと頭の中で巡ってしまい、別れの余韻を味わえなかったのだ。ともかくニセ切符疑惑の真相はこれでうやむやとなった。
 彼らと同じ方向なのでまだ一緒に行けたが、これ以上、話す気がせず、彼らのことを気にしないようにしてどんどんと歩き出した。下車口を出たところで、いろいろと物を売りに来る女性たちに囲まれた。その場で僕は市街地図だけを買って歩き始めた。本当なら、バスでホテルまで行くべきだったが、乗り場が見つからなかったので、どんどんと歩いてしまった。
 泊まったのは昆明駅から北に三キロあまり離れたところにある茶花賓館だった。お金は余っていたが今までそうしてきたせいかふらふらと安宿を求めてしまう。僕は旅仲間をひたすら求めていたのだ。
 このホテルは金文字で立派な看板があって、塀で囲われた、なかなか立派なホテルだった。つまりここも中級ぐらいのレベルだけど多人房があるタイプのホテルだったのだ。ということは旅仲間を求めなくても、自ずと旅行者はまとめられてしまうということだ。
 茶花賓館の門扉の外では、集団でたむろっていて「チェンジ・マネー?」と聞いてきたり、刺しゅう入りのかばんや財布入れを売りつけようとしてくる年齢不詳の女たちがいた。彼女たちは無地の野球帽をかぶり、やや顔が赤い。ほぼ寝ていない僕は疲れているので、スルーして敷地内へ入り、さらに建物へ入っていった。中に入ると、ホテルのフロントが眼に入ったり、服務員がキビキビ働いている様子が目に付いたりした。僕が泊まることになったのは大きな部屋にどーんとベッドが並んでいる男女混合のドミトリー。シーツは清潔で布団も快適に感じた。しかもクーラーもきいている(これは勘違い。ドミトリーにクーラーはないということは後にわかった)のでチェックイン後、すぐに寝入ってしまった。夜も近場でゆっくりだらだら過ごしたのだと思う。

 翌日はまず翌日の石林行きの切符を求めた。便利なことに切符はホテルの中の切符売り場に売っていた。ちょうどそのとき、売り場には三〇歳前の既婚OLのMさんと目鼻立ちが整った男子大学生Fがいた。OLは僕と同じく明日の石林行きの切符を、Fくんは西双版納行きのバスの切符を求めていて、後日、西双版納で再会することになる。
 切符を手に入れた後は、龍門という山の中腹に作った見晴台のようなところへ行った。ミニバスで山の麓まで行って、そこからは歩きだった。とぼとぼと人混みの流れについていくと門の前に出た。門の前には入場券売り場があり、外国人用と人民用に分かれている。当然外国人用の方が高い。経済的には余裕があったけど相変わらずの貧乏旅行しか出来ない僕は人民用の売り場に並び、人民元を払い「一个人」(一人)と告げて人民に化けてみようとした。しかしこのときは、昨年の西安のように。うまくいくことはなくバレてしまった。入れてくれないことに腹を立て、きびすを返した。
 昆明三日目の八月一〇日、昨日知り合ったMさんとFくんとでホテルを出て朝食を食べに行った。ホテル前には朝から昨日、チェックインのときに声をかけられた集団に声をかけられた。
「オニサン チェンジマネー一五〇元」などとインコが話すような日本語で声をかけてくる。なぜ一五〇元なのかはわからないが、具体的な金額を言われると、気になって立ち止まってしまった。日本語の上手な彼女たちはは、漢民族よりもやや顔が赤い気がする。服装はというと、いかにも中国製の薄いズボンやブラウスに野球帽という出で立ちだ。このときは根負けして言われたとおり一五〇元、外国人紙幣(外幣)を両替してあげた。そうすると外幣一五〇元が一八〇元の人民紙幣に変わった。確かに得は得だが、行けないことをしているような気がして、後ろめたかった。
「アナタ シシュウ ドウカ?」
 びっしりと色ととりどりな刺繍がなされた財布や肩下げカバンだ。特に必要ないので「要らないよ」と言って断った。なのにホテルを出入りするたびに声をかけられる。話し方は可愛いけどしつこいのだ。
 しつこい女たちを振り切って、というか断って、しばらく歩く。すると外資との合弁で作った建設中のホテルが見えてくる。サクラホテルと書いてある。日本資本との合弁なのだろう。ほぼ出来上がっているが、そのとき工事している様子はなかった。
 駅と通じる道路との十字路が見える。Fくんが、目当てにしている店がその道路を渡る手前の所にあった。小籠包の美味しい国営の食堂だ。瓶詰めヨーグルトも売っている。国営なのでちょっと面倒くさい。食券を買ってそれを見せないと交換してくれないのだ。F君は言う。
「ここの包子が評判なんだよ」と。しかし目当ての包子はなかったので別の包子を三人で注文して食べた。ホテルから一キロぐらいのところで交差点に出た。道路の向かい側には東風広場があった。
 その年、日本人の老人二人が昆明で殺された。中国人が外国人を殺すと厳罰に処される。犯人たちはすぐに死刑となった。
「この広場で公開処刑されたのかもしれないね」とF君は言う。中国のことだからそうなのかもしれないと僕は頷いた。広場を抜けて商店街へ行くと人でごった返していた。本屋や電気屋、百貨店などが連なっている。電気屋の店頭ではブラウン管のカラーテレビでバルセロナ・オリンピックが中継している。やっていたのは男子マラソンだから、この後は確か閉会式を残すだけであった。
 このとき、日本の谷口浩美選手と韓国の黄永祚選手が首位争いをしている。そのときばかりは日本人を意識して愛国心に燃えて谷口を応援した。ところが二〇キロ付近で転倒して結局負けたのだが。
 そのまま三人で米線という雲南名物のビーフンを食べる。これは科挙試験を目指す夫の夜食として作った麺を、橋を越えているうちに冷めないよう油の膜で覆ったもの。脂っこくてなかなか冷めないのだという。にしても昼食べるにはちよっと重かった。
 僕はこの後、二人と別れ、昨日、龍門の前から見たタイ族の仏塔があるところへ行くことにした。昆明はタイのような小乗仏教ではないはずだ。たっだらなぜあるのだろうかと思ったのだ。それが何か確かめに行くのだ。
 店でだった思うが、僕は昆明駅で買った市街地図を確認して仏塔の位置を探した。するとそれは民族文化村という場所であった。面白そうなのでそこに行ってみた。
 するとそこは少数民族のテーマパークだった。雲南省にいる少数民族の住居や村を再現したものなのだ。その発想が何だか漢民族的だと思ったが。
 入口で一〇元(二六〇円)を払って入ると中には白族とタイ族の村しかなかった。タイ族の村には例の仏塔が立っていた。どうやらこれのことらしい。近寄って見てみると、中央に塔があり、左右に小さい塔が立っている。それぞれてっぺんに金属の飾りがついていて風で音が鳴る。レプリカだが悪くない。見ていて暑さ忘れてしまう。
 入り口を入ってすぐのところにはステージがあった。中では民族踊りが見られる。派手な化粧して綺麗な色とりどりの衣装を着た女の踊り子たちは舞台で膝を曲げたりして踊る。曲は中央で作ったもので面白くない。そのステージよりも観客を見ている方が面白い。ステージが始まるやいなや最前列まで来て記念撮影。見てる人の邪魔になっているという意識は彼らにはないらしい。自分さえよければいいという感じがすごくする。ステージも半ばを超えるとステージに上がってとる人さえ現れた。そのうち「アイツに続け」とばかりに観客がステージにどんどんと上がり始め、ついには踊りがまったく見えなくなってしまった。まだ踊りは続いているというのに。

かわいいおばさんたちの正体  石林

 翌八月一一日は早朝からマイクロバスで石林へ行った。昆明から石林までは一二八キロ。沿道はあまり木の生えていない山道が続く。
 途中で、鍾乳洞の前で止まった。入口の前にはじゃがいもを揚げて唐辛子味噌を塗って食べさせてくれる屋台があった。童顔の可愛い顔をした、年齢不詳のおばさんがジャガイモを揚げて渡してくれる。このタイプの顔は昆明でもよく見るタイプ。茶花賓館の門扉の外で集団でたむろっていて「チェンジ・マネー?」と聞いてきたあの女性とよく似ている。
 石林ツアーに参加したMさんとともに鍾乳洞へ入る。中はひんやりしていて。上からも下からも無数に鍾乳洞が伸びている。大きくて良い形をしている鍾乳石は赤や青のライトで照らされている。地球のおなかの中と言うかへその中を探検しているような気分になった。「山口県の秋芳洞みたい」とMさんはつぶやく。僕はそこに行ったことないので「そうなんですか」と答えるしかできなかった。

 一五分ほどするとやっと外に出ることができた。出口には白地や青地に赤の線が入った裾の長い民族衣装を着た女性たちがいた。しかもあの可愛いおばさんと同じタイプの顔つきだ。
 僕らに何かを買ってもらうために待ち構えているらしい。

 ガイドブックによると石林や昆明には路南イ族(サニ族)という人たちが住んでいるらしく、石林のコーナーに掲載されているサニ族と同じ衣装を彼女たちは着ている。
  ここで僕はやっと、可愛いおばさんたちの正体を知った。彼女たちはサニ族なのだ。ところで、この場所で出口の前に立ちはだかったサニ族の女性たちは刺繍をした財布やパスポート入れウエストポーチを見せてくる。相手にしていたら出られないのでとりあえず無視する。
 Mさんがトイレに行くのについて行き彼女らを振り切った。トイレと言っても、仕切った木の小部屋の底板を一枚とっぱらっただけのボットン式。彼女はためらいつつそこで用を足してしまったようですっきりした表情で出てきた。さすがラオスにまで行ったことある人だ。サニ族の刺繍の質は悪くない振り切るために財布とパスポート入れを買いバスに乗った。更に二時間ぐにゃぐにゃ進むとやっと石林に着いた。

カルスト地形とインコ訛り 石林

 先ほど見た鍾乳石を地上に持ってきたような形をしていた。針山のごとくとがった縦長の岩がずらりと並んでいる。その広さは三万ヘクタールもあるらしい。黄山にあるたくさんの岩を尖らせて並べたように見える。しかし黄山のように雲海が出るわけではなく風情にかける。ゴツゴツした岩の間をくぐり抜ける迷路という印象だ。
 三万ヘクタールと先ほど書いたけども黄山や桂林に比べるとはるかに規模は小さい。それらの観光地に比べたら子供だましのような大きさだ。しかしサニ族は良い。僕らがバスを降りるとやはり待ち構えていて、「シシュウ ヤシイネ オニサン」「ナニヲイッテルカ コッチノガヤスイネ」などと僕ら二人に対しインコが喋ってるようなちょこちょこちまちました日本語で喋りかけて売ろうとしてくる。彼女たちは民族衣装を着ている人や洋服を着ている人などいろいろ。
「いくら?」「このパスポトイレ一五元ヤシイネ」「
「そうかな、これと同じものを一〇元で買ったけど」と言って値段を聞いたパスポート入れと同じタイプのものを見せる。
「アイヤー、デモオニサン、ソレシシュウアライ。コチシシュウコマカイ。コチノガイイ」
「でも要らない」
 そう言い放つとその場を離れていった。しばらく進むと民族衣装を着た若い女性ガイドが現れた。まだ一〇代後半だろうか。
「アナタガイドイルカ?」
「いらない」
「ガイドイタホウガヨクワカル。マヨウヨ」
「でもいい」
 実に流暢な日本語。日本に行ったこともないだろうになぜ日本語を話せる人がこんなに多いのか。そのまま素通りすると「アナタ ウワキ スルカ。ソノコヨリ ワタシノ ホウガウマイネ」
 とまだ売り込みをしてくる。おまけにしばらくついてきた。だけどそういうのって悪い気はしない。インコみたいな訛りの日本語が人懐っこくて可愛い。
 Mさんは石林で一泊するのでホテルへ行くらしい。ホテルの横には演舞場があって夜になるとサニ族の踊りが見られるらしいのだ。翌日、西双版納へ向かうバス切符を持っていなければ泊まったのだけど切符をキャンセルしてまで泊まろうとはそのとき思わなかった。
 チェックインするのに1時間もかかり石林を見る時間がかなり減った。鍾乳洞と同様に急がないと一通り見れない。人民料金で入場券を買うと石林バッジがもらえた。石林の中は登ったり降りたりぐにゃぐにゃとした道。日本人パックツアーご一行と一緒に巡った。彼らと一緒にいるとそれぞれの石の説明があるし迷わずに済む。要点を押さえてテキパキ回るので早い。日本人添乗員からは煙たがられたけど一行には気に入られた。その一行は中年のおじさん達だった。
「こんなところはよく個人できたねすごい」などと言われる。彼らはたった一週間のツアー中国に来てまだ三日か四日だと言う。彼らは下心見え見え。Mさんにくっついていく。
「わしの娘と歳が同じぐらいだだから君もわしの娘にしてやろう」
 Mさんはあまりいい気がしていなかったようだったが、ガイドしてもらっているのだから我慢した。
 そのうち望峰亭とかいう見晴台に出た。針山みたいなものが一面に広がってて壮観だ。石の林というその名前のまんまだ。やたらめったらにはすごいとは思わなかった。雲海や霧がある分、黄山のほうのがよい。てなわけで観光は終わり。一行に便乗してお茶までご馳走になる。
「わしらと一緒に飯食ってもいいよ」と。Mさんを娘扱いにする親父たち。だが添乗員が許さない。当たり前だ。
 お茶を飲み終わって二人でふらふら散歩していたらお茶の店に、陳さん羅くん、揚さんの三人組があらわれた。しかし話しかけなかった。着いてからも正義にこだわっていた昆明駅での羅くんの態度にモヤモヤしていい気がしていなかったからだ。あちらが気がついていたかどうかは分からない。
 民族衣装を着た娘さんがいどうがたくさんいたけど彼女たち全員がサニ族なのだろうか。やたら化粧っぽくて童顔でない子もいたし。漢族のアルバイトだろうか。出口で若い女性ガイド達に囲まれた。厚化粧のもいた。そのうちの一人は例のインコ訛りで日本語を話してきた。やったら黙っていて言ってることがよくわからなかった。分かったのは日本のことが好きだという内容ぐらいだった。

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