経済特区の検問[1992年/広州・深圳・香港編/中国の高度成長を旅する#10]
広州~深圳~香港 発展見本市と野生動物市場
手荷物引き渡し所(行李提取厅)のベルトコンベアから荷物が次々と現れた。その中から僕はサニ族の刺繍バッグをまとめたビニール袋を見つけ出し、受け取った。デイパックを背負い、二つの刺繍カバンをたすき掛けにしてから、到着ゲートを出る。到着ゲートへと向かう通路の壁には、ソニーやパナソニックといった日本の電化製品などの広告があふれている。クーラーがガンガンに効いているからか通路はやけに快適だ。
この広州の空港は七八年以後、八年連続で乗降客が中国一だった時代がある。それもそのはず。一九七九年に改革開放政策が始まったとき、政府は広東省の深圳、珠海、汕頭、そして福建省の厦門に経済特区を置いて門戸を開放、これらの地を投資を呼び込む「南玄関」としたからだ。つまりここ広東省は中国の対外貿易センターなのだ。
到着ゲートを出てホールに出る。「~~先生」などという名前を大書きにした紙を持っている人たちがたくさんいる。彼らの身なりは悪くない。Yシャツの前をはだけ、安物のスラックスをはいて、どこでもタバコを吸い、どこでもツバを吐くという、典型的な中国人ではない。というか、これまでの旅行中に会った香港人や日本人とさほど区別かつかない。それぐらいこざっぱりした人たちばかり。聞こえてくる言語にしても違う。「ネイホーマー」とか「ハイ」とか、どこかユーモラスな響きがして、明らかに北京語ではない。旅の途中、ドミトリーで何度か同じ部屋になった香港人と同じ言葉を話しているのだ。とするとこれは広東語ということらしい。
ホールの目立つところには、社会主義国に相応しくない迫力の展示がなされていた。パナソニックの大型テレビ「画王」がたくさん、これでもかというぐらいにどーんと展示されていたのだ。二九インチ、しかもブラウン管だけあって、存在感というか迫力が半端なくある。世界を席巻している日本の家電メーカー。そのフラッグシップともいえるテレビがたくさん展示されることで、日本の経済力のすごさが伝わってきた。と同時に、これから経済をどんどん発展させていくんだという中国政府の気概を感じたのだった。
ターミナルの建物を出ると、一転して蒸し風呂のような耐え難い空気に包まれた。しかも満員電車のような人だかり。いるだけでめまいがしそうだった。幸いなのは、街の中心部までたったの一〇キロほどとすぐ近くだということ。広州駅を直撃するんじゃないかというぐらいの低空飛行に肝を冷やしただけに、目と鼻の先なのだ。だから、リムジンバスに乗って広州駅へ向かうと、一五分ほどとあっという間に到着した。
バスを降りると駅は北京や上海同様に、大きな荷物を持った垢抜けない恰好の出稼ぎ労働者でごった返していた。また祖国団結などというスローガンが目に飛び込んできた。人混みとスローガンを見て、やっぱりここも中国なんだということに気がつき、気が抜けないと思い、内心、苦笑いしていた。
駅で客待ちをしているタクシーの運転手に、ガイドブックに記してある「広州青年旅舎」(ユースホステル)の住所を指さして見せ、行ってもらうことになった。途中、高速道路を通ったりして、空港から駅よりも、駅から旅舎への道すがらの方が遠い気がした。高架橋から見下ろす広州の街並みは、ごちゃごちゃと新しい新旧入り混じっていた。沿道には大きな商業ビルが建ち並んでいた。特に目的地のない僕はひとまず駅で降りる。降りたところは市外の南部。そばに珠江という川が流れていて、遊覧船の乗り場が見えた。
車窓から見る広州の風景は、今までの訪れた都市の中で一番発展していた。昔、租界地だったなごりからか古い洋風の建物が残っているという点で上海に似ていた。しかし上海よりもさらに、先をいっている気がした。僕が泊まるつもりだったユース、その住所を訪ねると、そこにはない。改装中だという。それでもなんとか、歩いているうちに移転先をなんとか見つけることができた。
到着し、フロントで受付を済ませようとするも、お金が足らなかった。一泊三五から四〇元。しかもデポジットも払わなければいけないからだ。なので両替してから出直した。一階の日本やシンガポール並みの綺麗なショッピングセンターを通り抜けて、両替所へ辿り着き、トラベラーズチェックを両替してから払った。
あてがわれた部屋は、三〇~五〇ぐらいのベッドが一部屋に並んでいる、野戦病院のような、超がつくぐらいの大部屋だった。客は西洋人ばかり。空調は扇風機だけしかなくてかなり暑い。なので、昼寝したかったが、なかなかできなかった。
夕方、起き出して街を散策した。商店街も近代化されていてファストフードの店や高級レストランが目につく。清平路のあたりには、広州で一番大きな自由市場があった。ガイドブックによるとそこは清平農副産品市場というところ。漢方薬がずらっと並んで活気のあるかと思えば、野菜や肉、魚が売られていたり、骨董品が売られていたりして、かなり豊富にものがあった。北京語はあまり通じないらしく、果物売りの兄ちゃんに「いくら?」と北京語で聞いても、「あ~?」と聞き返されてしまった。
その市場の一角に野生動物市場があった。ぎっしり身動きできないぐらいにブリキ水槽に詰め込まれたスッポン、前足を切断されたのか骨がむき出しになっている元気のない子鹿、片目が潰れ額が負傷している檻の中の子猫。これが人間だったらアウシュビッツ並と思えるぐらい酷い扱いを動物が受けていたが、売り手はそんなこと、気にしない。ビックリして立ち止まっていると、売り手の男は気にせず、「買っていけ」などとニヤニヤしながら、広東語で声をかけてきた。そのほかサンショウウオ、センザンコウ、ヘビ、猿などが売られていた記憶がある。
目の前では生まれて間もない子猫が売り買いされていた。もちろん食べるためだ。これを残酷だと決めつけることはたやすい。だが、野良猫を人知れず殺す日本の保健所でのやり方とどっちがひどいかというと、正直わからない。
こうした市場は数日前、昆明で見かけたばかりだった。動くことのできないほど檻の中に押し込められて、ポーポーと悲しげに鳴く鳩たち、黒と黄色のストライプで頭部が膨らんだ毒蛇、尻尾を鳴らすガラガラヘビ、五〇センチ以上の大きさのトカゲやカエル、さかなやドジョウなどが道端で売られていたのだ。
僕は他のバックパッカーからある噂を聞いていた。それは、ある高級レストランでの特別メニューのことだ。会社の接待か何かで高級レストランに行くと、丸いテーブルがあって。間に穴が空いている。その穴から、頭蓋骨を切除され、脳がむき出しとなった猿が、頭だけをテーブル下から覗かせる。それを生きたまま、注文した客同士で食べるというものだ。
猿が売られている場所で聞いてみたかったが、聞く勇気もなかったし、どうやって聞いて良いのかわからない。そもそも聞くための語学力が僕にはない。筆談しようにも、忙しい市場ではそんなことを相手にされるとも思えない。そもそも買い物客ではないしなあ。そんな風に頭の中をグルグルいろんな考えて巡らせ、質問すらできなかった。
経済特区の検問 深圳
1997年に再訪したときの写真
広州には一泊だけして、翌日すぐに香港を目指した。広州駅で鉄道の切符を買い求めるが、当日は全て売り切れだった。駅前には盲流の人たちがたむろしていて、中には寝ころがっている人もいた。彼らには近代的なマナーは一切ない。切符を買うべく、駅でうろうろしていると、身なりのダサい若者に声をかけられた。そのとき僕は、食べ終わった弁当をすてるゴミ箱を探していた。すると、そのダサい男は、僕から発泡スチロール容器を取り上げて、ぽいっと地面に捨てた。そして「これが中国のマナーだよ」と笑って言ったのだった。
駅前には乗り合いタクシー(ワゴン車)がたくさん止まっている。深圳行きだという、そのうちの一台に乗り込む。鉄道の切符を買うのは人ごみの中にまみれることなので面倒だ。それに比べて乗合タクシーなら並ぶ必要などないから楽そうだと思ったのだ。運賃は三〇元。客は僕一人。これでは出してくれない。僕が満席になるまでは。結局は、一時間待ってやっと出発した。そのとき正午ごろだったはずだ。
まだ植えたばかりなのか。低い椰子の並木の中の道を通り抜けて、深圳を目指した。広州から珠江の河口を右手に南下していき、途中、東莞を通過し、その先にある深圳へとワゴンは進んでいった。途中一回だけ、休憩があった。そこにはジュースやアイスを売る屋台があって、車外へと降りる我々に声をかけてきた。その場所に車が停車するのをわかった上で、来るまでの間、ずっと待機して、商機をうかがっていたのだ。それもそのはずだ。深圳を目指す車は必ずここで停車し、チェックを受けることになるからだ。
一九七九年以降、ここ深圳は香港からの投資を呼び込む玄関口として、機能した。このことが中国の経済発展を呼び込み、支えてきた。進出する外国企業には、輸出入関税を免除したり、所得税の三年間の据え置きしたりするなどの優遇措置を実施した。そのほか賃金や人事、企業の経営自主権の保障などが実施された。もちろん、輸出加工区として、高度成長する起爆剤として深圳は利用されつつあったのだ。
そのように、ほかの中国と比べ、深圳は特別な場所であった。賃金は桁違いに高く、企業は自分たちの権限で様々な事が差配できた。そうした場所だけに一山当てようという人が殺到しては困るということなのか。一般の中国人が深圳に入るには労働の許可証が必須だった。僕らの乗っていたワゴンが停車したのは、許可証を持っているかどうかをチェックする検問、つまりは国内にある国境のようなものにさしかかっていたのだ。
なので一度ワゴンを降りて検問を通らなければならない。とはいっても僕は外国人なのでパスポートをみせさえすれば、問題なかった。ちなみにこのとき、同乗の中国人たちを見ると、B5ぐらいの大きさの証明書を係員に見せていた。
検問の建物を出るとキオスクのような店が目についた。中に入ると品揃えの質がそれまでの中国とまったく違っていた。ジュースひとつとっても包装は小綺麗だし値段も三割から五割増し。これらは香港から陸伝いに運ばれてきたのだろう。いよいよ香港は近い。まもなく社会主義の国から脱出できると思うと、気持ちが少し高揚した。
検問の建物から深圳方向へ歩くと、ワゴン車がたくさん停車していた。どれもすべて、広州方面から来たものらしい。僕はそのとき、ワゴン車のナンバーと、窓に貼ってあるポスターの形状を照合し、また同じワゴンに乗車した。
ワゴンに戻り、いよいよ深圳市内へ入っていく。珠江の河口がある右側には昨年の一〇月に開港したという深圳の飛行場が見えてきた。しかし周りは空き地だらけ。開港は早すぎたんじゃないかと僕は思えた。実際、その当時、特区といっても、検問から十キロぐらいは開発中の更地ばかりが続いたのだ。その様子は異様だった。何かが建てられるからこその更地なのだろうが、ここまで一気に、見渡す限りの更地という者をそれまで僕は見たことがなかったのだ。(これは勘違いであることに後年気づかされることになる。上海の浦東地区で同じことが起こっていて、実際、見た後だったのだ)。
十キロぐらいの更地を抜けると建設中の竹やぐらに覆われた建物(マンションだろうか)の集まりや遊園地や中国の名所旧跡の見えるテーマパーク。同じ間取りの商店群と急に賑やかになってきた。道路が舗装され、数十階建てのホテルが中国銀行が高さを競い合っている。
深圳の発展はまだ端緒についたばかりだった。今年の一月に鄧小平が南巡講話というものを発表し、経済発展の加速を呼びかけはしたが、この広い中国全土を発展させていくことなんて、本当に可能なのだろうか。
深圳に限っても、十キロにも渡る一帯が未開発の更地なのだ。中国全土はおろか、ここ深圳に限っても、開発が完了する時点のことを想像できない。深圳中心部の高層ビル街は香港を前にしたハッタリというか見栄だけで作ったもの、ということはないのだろうか。開発は見かけ倒しで終わるんじゃないだろうか。
出発して深圳の中心街までは約三時間もかかっていた。突然現れたビル群ときれいな舗装路にあっけにとられているうちにワゴンは国境すぐの駅前に止まった。
時計は午後三時を表示していた。やたらと豪華なビルの中国銀行にて香港ドルを手に入れ、残った中国元で遅い昼食を中華のファースト店でとった。
香港行きのバスは午後五時出発なので時間に余裕があって中国から抜ける記念としてビールを飲んだ。バスの出発点で待っていたら催してきた。路上でバスの切符売り場の平屋のそばにいて道路に背を向けて立ちションした。それが切符売りの関係の人に見つかってしまい怒られそうになった。下手したら警察に罰金を課せられるかと思った。だがうまい具合にバスが来た。右ハンドルで入口は左側。香港ではイギリスの植民地なのだ。
羅湖という鉄道駅から少し東へ。そこに検問があった。一応そこが国境なので、X線による荷物チェックがあった。入国申請書を書く。そして入国スタンプ。同じバスに乗っていた香港人は日帰りで来てるのだろう。手ぶらの人すらいる。申請書なんて書く必要ないしスタンプも押してもらわないのでどんどんゲートをくぐっていった。
安堵する猥雑さ 香港
出入国管理の建物の香港側出口で運転手が待っていてくれた。バスは僕以外は全員香港人のよう。三〇人から五〇人乗りのバスには一つを除いて席が埋まっていた。申請にて乗り込むときは右ハンドルということもあってバスはひどく先進的に見えた。というか目立っていた。ただ香港の道路バスが走り出すと周りの景色に溶け込んでしまった。小高く緑豊かな山々と海がそれぞれの窓から覗く。中国とは車の流れが逆日本車もたくさん走っているし、高速道路はクロスしたりループしていて発達している。スムーズに流れる車と山そして海という景色を見ていると日本に帰ってきたのようかのように感じた。だがそう思ったのは束の間だった。二、三〇階建ての団地というかマンションが山の上あたりに林立そして群生しているのを見てやはり日本じゃないなと実感した。
バスに乗っていたので直接触れたわけじゃないけどひとつ思ったことがある。排気ガスや砂塵などがどこに行っても舞っている印象のある中国に対して香港やそれらがない。空気が綺麗だ。汚染された地域から安全地帯にやっと逃れられたという感じでほっとしていた。
高速を降り坂上の住宅を抜ける。日本円でも大した値段のしそうな立派なファッションホテルやレストランが点在している。深圳を出て三時間以上経ちすでに真っ暗になった頃やっと到着した。広州のユースを出発してから約一二時間、やっと着いた。
だが現在地がわからない。着いたところは何やら海沿いのバスターミナル。どこかよくわからないのでとりあえず歩き出すと大通りに出る。景洪で譲り受けた無料の香港地図、それにて場所を確認した。するとそこはネイザンロードという道らしい。その後、安宿がたくさんあるという重慶大厦前までとにかく歩いた。
なんだか浦島太郎になったかのようだ。まばゆいネオンや車の群れ。それでいて雑然としていない。やっと現代に抜けたという感じがした。女性のブティックのショーウィンドウ、地下鉄駅の入り口前のスナック屋台、タージマハルのようなモスク、歩道上に横に突き出す漢字の看板。カメラ、時計の安売り店、両替屋。中国人、西洋人、インド人、黒人。香港は雑多な無国籍地帯だった。
中でも重慶大厦は無国籍地帯の中核だ。ゲストハウスの客引きにはインド人黒人中国(香港)人、入り口付近は雑多な人種。そのうちの一人であるインド人についていく。エレベーターは偶数階に止まるものと奇数階に止まるものがあった。どちらも途中階からだと乗れたためしがない。かといって階段を使わない方がいいみたいだから一度使っておりたことがあったが立体迷路である重慶大厦では迷ってしまうかもしれないし薄暗くて雰囲気が良くない。ホールドアップの可能性は十分にあるとみた。身動きが取れなくなるほどぎっしりとエレベーターに人々が乗り込んだ。雑多な人種の中ではエレベーターはどうも怖いのだ。
一五、六階にあるインド人のゲストハウスへ行く。一泊六〇香港ドルだと言うのでついていくと「この部屋もこの部屋もダメ安い部屋はない一泊我慢して次の日からでどうだ」などと誘われるが次の日も同じこと言われそうな雰囲気がした。インド人はなんとなく嘘つきが多そうでし信用ができない。なので一人エレベーターに乗る。その次の下一五階か一四階でおりるとそこは黒人のゲストハウスだった。女性がいるのでいくらか聞く。だが「わからないので一緒に降りましょう」とのことでまた最初の一階に降りた。
すると日本人の旅行者がいて、「これからチェックアウトするんだけど僕のいた床の上を譲りますよ」と謎のアピールをされた。それで実際に一緒にエレベーターに乗ると、ベッドもマットレスもないタダの床の上だった。
そこは辞退してまた下へ行く。すると中国系のおばちゃんの客引きに会った。「一泊六〇元でいい」「三泊なら一二〇元だ」とのことなのでついていく。重慶大厦の二つ隣のミラドハウス。そこの一二階のパイプの二段ベッドが並んでいるゲストハウスだった。そこには白人がぎっしりと一五人ほどいた。入り口側の上のベッド。これだったらまだマシだということで決める。
翌九月二二日は朝から旅行代理店を巡り、そこで帰りのチケットを購入した。エアインディアの大阪~香港の往復便であった。
そして夜、スターフェリーに乗った。これは香港島と九龍半島を隔てるビクトリアハーバーの両岸を結ぶものだ。尖沙咀から対岸の中環までは一〇分程度。前時代的な古くさい船に乗り込むとうねりがかなりあって船はかなり上下した。向かい側には、高層ビルとネオンサインが広がっている。なぜ人は夜景に見とれるのか、その理由を僕は持っていなかったが、噂にたがわず、この夜景には見とれてしまった。旅がおわるという感傷もあってか、ほっと安堵する気持ちと、ただただ夜景に見とれる気持ちから、気がつけば、僕の目にはかすかに涙が浮かんでいた。
この夜景は、香港が築いてきた繁栄を象徴していた。この風景は一朝一夕で築き上げることはできない。中国政府は深圳をはじめ、中国全土を発展させようと意気込んでいるが、いくら頑張ろうと、深圳や上海にこれと同じぐらいの規模の、美しい夜景を作り上げることは無理だろう。深圳と香港の経済格差がまだまだありすぎるのだ。
その後、僕は尖沙咀に取って返し、男人街や女人街という服を中心とした屋台街を歩いたり、そのあたりの屋台でゲテモノ料理に舌鼓を打った。食べた中華はスープは出なかったがカエルは美味かった。
重慶大厦の前まで戻ると建物の前の雑誌屋台に立ち寄った。そこで僕は香港97という局部があらわになった写真が並ぶポルノ本を手に取った。これは北京で僕がOさんに差し入れられたシリーズ。シベリア鉄道に乗り遅れてどっぷり落ち込んでいた僕を勇気づけた雑誌だった。僕はこの雑誌の過激で自由な表現に、気持ちを軽くさせられたのだ。そう、香港には中国大陸にはない自由な表現が存在するのだ。
これから五年後、香港は中国に返還される。その際、この雑誌はどうなるのだろうか。政治体制は変えないという一国二制度は果たして維持されるのだろうか。ポルノ雑誌の表紙を飾る、中華系の美女の着衣写真を見ながら、僕は佇んでいた。
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