乗れなかったシベリア鉄道[1992年/北京編/中国の高度成長を旅する#5]
切符を求めて歩き回る 北京
台湾人演奏家の女性二人組や残留孤児のおばちゃんたちと連れ立って、地下通路を歩いた。おばちゃんはお持ちきれないほど荷物を持っていた。だから別れるところまではいくつか荷物を持って運んであげた。
階段を上って駅前広場に出ると、そこは人々でごった返していた。地方から出てきた出稼ぎの漢民族の人たちのほか、彫りが深く目がぱっちりしたウイグル人、顔が赤くて小柄な雲南の少数民族らしき人々もいた。
広場を歩いていると、地図を売りにくる中年女性やら、乗り合いタクシーの呼び込みと、次々と声をかけられる。ただでさえ、騒がしい場所なのだ。ウザったくて仕方がなかった。
あたりには座り込んでいる人があちこちに目立った。過酷な移動を経て到着し茫然自失という感じなのか、それとも人が多すぎてやはり呆然として座り込んでいるのか。または仕事が見つからず途方に暮れているのか。にわかにはわからなかった。
別れはすぐに訪れた。残留孤児のおばちゃんらはタクシー乗り場へ行くというのだ。
「さようなら、再見!」
「サヨナラ、再見!」
くれぐれもお元気でいて欲しい。そしてお幸せに。
北京南駅へ向かうバスがどこから出ているか確かめる。地図によると、数分歩いたところにある建国大街という大通りから出ているようだった。バス停まで歩いてバスの番号を確かめた後、やってくるまでその場所で待った。
しばらくすると北京南駅行きの二両連結のトローリーバスが現れた。乗り込むとまもなく、若い女性の切符売りが料金を回収に来た。中国元で三角(〇・三元。七・八円)を払うと、幅一センチぐらいの柔らかい紙でできた切符をくれた。
バスは建国門大街を東から西へ走る。しばらくすると右には紫禁城の入口となっている天安門があり、毛沢東の肖像画などが見えてきた。一方、反対の左側には天安門広場が見える。三年前に血が流れたあの広場だ。広場だけを見ていると昨年と何も変わっていない。
バスが南方向へと左折すると、ちらほら工事が目に付き始めた。道路の舗装工事がなされていたり、ビルが新築されたりしている。今年の始め、鄧小平が深圳を回って談話を出して以来、改革開放の動きにアクセルがかかりつつあるのだろうか。真相はわからないが、北京の街が大きく変わりつつあることは間違いなかった。
乗ってから小一時間、トローリーバスは終点である北京南駅のバス停に到着した。群衆に交じって、バスを降り、そこからはホテルを目指して、しばらく歩いた。向かったのは、昨年も泊まった僑園飯店であった。
道中の風景は一変していた。見渡す限り、それこそ川というか堀が数百メートルにわたって両岸が掘り起こされ、土砂がこんもりと小山になって積み上げられていたのだ。そんな状態なので、川沿いに賑々しく展開していた商店街は閉鎖されていた。
その代わり、グニャグニャに曲がった別の商店街を歩いて、ホテルへ向かった。ここは以前からある迂回路なのか。それとも新設されたのかどうかはわからなかったか、人通りが多く、やはり賑々しかった。
十五分ほどして僑園飯店に辿り着く。するとそこは東門だった。一〇階建てほどある僑園飯店の本館と、北側に面する別館はそれぞれそのままだ。本館へ向かうと、右手、つまり北側に閉鎖されている門が見えた。それは昨年、使われていたかつての正門だった。
本館にあるフロントでホテルの服務員に部屋があるかを尋ねる。彼ら、彼女たちは若く、英語の覚えがある。だけど僕は英語は使わない。昨年、一ヶ月ほど回ったので、空き部屋の有無ぐらいは中国語で聞けたのだ。
「你好、有没有多人房?」
一番安いドミトリーがあれば泊まりたかった。というのもこれから三ヶ月、世界中を旅するのだ。できるだけケチらねばと思っていたからだ。
「没有」
フロントの若い女性はにべもなく答えた。昨年もそうだったがこのドミトリー、やっぱり人気のようだ。どうしようか。空くまで止まって待つとするか。
「僕の部屋でよかったらどうですか? 今から私、ここをチェックアウトするんですよ」
とそのときたまたま横にいた四〇歳ぐらいの中年の日本人男性に声をかけられた。これは渡りに船だ。
「すいません。でしたら厚意に甘えます」
聞けばその方これからシベリア鉄道に乗って、満州里経由でモスクワに行くと言うではないか。
「二週間待った甲斐がありましたよ。切符がとれたという連絡があって、急遽出ることになったんです。ソ連じゃなくて、今はロシアか。そのビザとるのに一〇日も待ったから大変だった」
「僕はロシアとモンゴルのビザだけはあるんですよ」
「だったらモンキービジネスかCITSに行って、切符があったらすぐ買えるでしょ。もしなかったとしてもロシア人街に行けば買えるかも」
チェックアウトの手続きを終わらせた彼にお礼を言って、その場で見送った。そして、彼が泊まっていたベッドがあるドミトリー部屋にチェックインした。一泊一五元。服務員は僕のパスポートをチェックし、名簿に僕の名前やパスポート番号を記したのだった。
本館にあるドミトリーの部屋へ荷物を置きに行くと、そこは空調のない八人部屋だった。スプリングがほとんど切れている硬いベッドにせんべい布団が敷かれているだけ。そんなドミトリーの簡素すぎるベッドに一年ぶりに腰を下ろすと、いよいよ旅が始まるという実感が湧いた。
モンキービジネスという名前の代理店は新館七一六号室にあった。そのことは昨年知ったが、入るのは初めてだった。
世界中の紙幣が壁中に張り付けられているのが目に入った。店の人が旅行した国の記念として持ち帰ったものだろうか。それともここを訪れる旅行者からもらったものを貼っているのだろうか。全部合わせると一〇万円分ぐらいはありそうだ。
事務所には三〇歳ぐらいの白人男女がいた。彼らが切り盛りしているらしい。北京発のモンゴル旅行、シベリア鉄道のみを扱っている、この店ですることはただひとつ。モスクワまでのシベリア鉄道の切符を購入することだ。
「ハウマッチ?」
モンゴルのウランバートル経由と東北地方の満州里経由がそれぞれ週に一便ずつ。僕が目当てにしていたウランバートル経由モスクワ行き(ノンストップ)二等寝台が二五〇ドルとのことだ。
「いつの便があるんですか?」と英語で聞く。
「八月五日発以降のモンゴル経由の便、八月七日以降の満州里経由。七月二九日のモンゴル経由?ないですね」
落胆しつつもやはりと内心頷いた。日本で手配をお願いして手に入らなかったのだ。当然と言えば当然だ。かといって延期することは考えられない。
日本で手配したものがすべてパーになってしまうからだ。モンゴルビザは七月二九日から三一日まで。ロシアビザは三〇日から出国する八月七日までしか有効ではなかった。それにモスクワのホテルやブダペスト行きの列車の切符はどちらも日付を指定して予約してあったのだ。
モンキービジネスを出た後に遅い昼食をとった。昨年のお気に入りの店はないか、と商店街をさがした。そこは安くて味のいい中華の店だったか、ご飯に石が入っていてガリッと噛んでしまったのをきっかけに入らなくなった店だった。そのおいしさが忘れられず、もう一度入ってみたかったのだ。
商店街自体が消滅していたので、やはり見つからない。そこで僕は代わりに朝鮮冷麺の店に入った。鉢のてっぺんまでギリギリいっぱい汁が入っていて醤油っぽい味付け。チャーシューが数切れ、パクチーはどっさりとのっていた。鉢に口を付けて冷たい汁をすすると、ほてっていた体が中から冷めた。
その店の二十代後半という感じの目が少しつり上がってる上品な女性とややぽっちゃりした年下の女性、そして三〇歳ぐらいの男性が店を切り盛りしていた。
午後のピークが過ぎて暇だったからだろう。三人と筆談をした。
「我们有彩电,视频和冰箱」と男性は自慢げに記す。カラーテレビ、ビデオ、冷蔵庫を持っているということらしく、店の中に置いてある、それらをいちいち指さして教えてくれた。日本だと、大学生の僕ですら、それぞれを所有しているが、中国では北京でさえも、まだ珍しいのかも知れない。たしかに昨年お邪魔したRさんの家にビデオはなかった記憶がある。
感心して僕は、「万元戸?」(当時、中国のお金持ちのことをそのように呼んだ)と書いた。すると、褒められて嬉しかったのかうんうんと嬉しそうに頷いた。そして彼は続けた。
「我们不是真正的万元戸。我没有车。但是,我去过香港。如果中国和韩国有外交关系,我想去首尔」
これは「万元戸といってもちょっと厳密に言うとそうじゃない。だって僕らはまだ車を持っていないんだ。でも香港には行ったことがある。韓国に行けるようになったらソウルにも行ってみたいね」といった意味のようだ。ちなみにこのとき、中国と韓国には国交がなかった。国交を結ぶのは、この年の翌月(九二年八月)のことだったのだ。
朝鮮冷麺屋で油を売っていたら、午後四時近くとなってしまった。僕はこの日のうちに、シベリア鉄道の切符を入手しておきたかったが、もう遅い。というのも、その切符を販売しているCITSが午後四時半に閉まる、とガイドブックに書いてあったのだ。ちなみに場所は北京駅の奥にある長富宮飯店(ホテルニューオータニ)の裏手にあるらしかった。とすると北京駅から直行していれば、僑園飯店に来る前に行けていたのだ。なぜ気がつかなかったのだろう。残念だ。
夜、暗くなってから部屋に戻る。すると中東風の顔つきをしたバックパッカーが何人かいた。よくは知らないが英語ではない不思議な言葉を使っている。アラビア語だろうか。英語で尋ねてみた。
「僕は日本の旅行者。あなたたちはどこの国の人ですか?」
「僕らはイスラエルから来たんだ。兵役を終えてね」
今年の一月、中国とイスラエルは国交を結んだそうで中国に来れるようになったのだという。通りで彼らは昨年、一切見なかったわけだ。
イスラエルでは男女ともに兵役があり、それが終わったら半年以上かけて放浪するのが、習慣としてあるのだという。僕はこの先、中国各地で彼らイスラエル人バックパッカーを見ることになった。
その他、部屋には様々な国籍のルームメイトが集っていた。ヨガにはまっている俗世離れした五〇ぐらいの西洋人。一五五センチほどしかない西アフリカから来た黒人、一緒にシベリア鉄道に乗ることになる小柄なイギリス人と人種はバラバラだった。多国籍な室内に僕は違和感を覚えるというより、気分を高揚させた。日本を飛び出して旅行してるという実感が湧いてきたからだ。
翌朝、北京駅の向こうにある高級ホテル、長富宮飯店の裏にあるCITS(中国国際旅行社)へ向かった。一五分歩き、バスに乗って小一時間かけて北京駅方面へと向かったのだ。
CITSの中に入ると、ベルト式のホルダーに忍ばせておいたパスポートをとりだして、用意した。セピア色の別紙に写真が貼り付けてあるロシアビザ、シール式のモンゴルビザを、対応してくれた服務員に見せた。そして七月二九日の便に空きがあるかどうか聞いてみた。
すると一等の切符はあるという。値段は一等なのに二二〇ドル。この値段ならモンキービジネスの二等より三〇ドルも安い。
「我要、我要」
興奮しうわずらせた声で僕は言った。そのとき内心、飛び上がりたくなるぐらいに喜んでいた。
これで三ヶ月間の世界一周旅行は実現できるぞ!、と。
トラベラーズチェックか米ドルで代金を支払うと、そう時間はかからずに、発券された。そのチケットは青いチケットホルダーに入っていたはずだ。ホルダーを開けてチケットを確認すると、番号や名前が手書きで記されていた。名前の記載ミスはない。とするとこのチケットは有効だ。
何度か繰り返しチケットの記載欄を確認した僕は、パスポートを入れるための腹巻きに、そのチケットを大事にしまったのだった。
麦当労という最先端
その後はスキップしたくなるような気分で、北京の街を歩いた。軽食の屋台や果物、水で冷やしているジュース、アイスキャンディーといった屋台をあちこちで見かけた。水で冷やしているジュースというのは北京ではなぜか多かった。
なんとなく入ってみた百貨店のビル。そこには服やおもちゃ、文具に家電とあらゆる物が置いてあって、品質さえ問題にしなければ何でもあるように見えた。面倒なのは、一度お金を払ってから、引換証をもらって商品と交換するという手続きだった。このやり方は昨年と同様だった。
人々のお洒落はレベルが上がっているような気がした。一九九一年は薄い布地のブラウスや札が目に付いたが九二年には、バルセロナオリンピックTシャツやカラフルなワンピース女の子のスパッツなどが目についた。九一年は目の周りをマスカラで真っ黒で塗りたくるような化粧が目立った。しかし今年は違っていて目元を強調したりとかポイントを押さえた化粧をできるようになってきたようだった。
流行っているのは、頭にかぶる日傘、毛沢東のプロマイド、テトリスの電子ゲームとそうは変わらなかった。プロマイドは自動車の安全祈願、テトリスは暇つぶしだ。とくにテトリスは、個人経営の暇そうなお店の店主や何か順番待ちをしている人などがプレイしていたりして、いつでもどこでもやっているという印象を受けた。
そんな風に観察しながら、何となく歩いていたら、紫禁城の東側ほど近く、南北に走っている王府井という繁華街に出た。ここには北京で言うところの銀座にあたる場所。歩行者用の広い道路に数々の店が並んでいる。その通りから横にちらほら旧市街が延びていて、その奥は北京を代表する四方院という壁に囲まれた古い住宅が残っている。
王府井の一角には今年開店したばかりという、麦当劳(マクドナルド)の北京一号店があった。ここは当時、世界最大の規模を誇っていた。建物に対峙すると、二回の屋根の上に巨大なドナルドが腰掛けているのが見えた。店の前にはドナルドの前でポーズする子どもと撮影する親でごった返していた。
中はものすごく広く、レジは二〇ほどもあるというのに大混雑。食べもしないのに、中で記念撮影をする人があちこちに見られた。掃除にやたら力を入れていて、収容人数は六〇〇人、従業員は一一五人もいるという。カウンターの中にいて、ハンバーガーを温めたり、レジで精算したりする人は八〇人。
面白いのでメモしてみたところ、スプライトやコーラファンタなどのジュースが三・五元、ハンバーガーが三・五元、フライドポテトSが三・五元、シェイクが五・五元、ビッグマックが八・五元、ポテトのSと飲み物がセットのハンバーガーが一〇元。日本円にすると九一円~二六〇円となる。中国の庶民の平均年収は四二七三元(一一万一〇九八円、一九九二年・上海統計局)。日本でのマクドの値段とそう変わらないが、中国人の賃金からするとずいぶん高い。
訪れている人は食べる食べない関係なく、質のいいカジュアルな服で目一杯お洒落をしていた。そうしたお洒落の気合いの入り方といい、値段といい、ここ麦当労は当時、中国の発展の象徴ともいえる、最先端の場所だったのだ。
僑園飯店という楽園
シベリア鉄道の出発の日まではあと四日あった。紫禁城(故宮)を見に行ったり、慕田峪長城という昨年行ったのとは別のポイントを観光したりした。故宮は端から端まで歩いたし、慕田峪長城はひたすら階段を登り、歩きまくった。
切符が手に入って、気分はモンゴルや遠くモスクワへと飛んでしまっていた。だから観光をしても上の空だった。であればと僕は行動様式を変えることした。わざわざ観光しまくるのではなく、毎日、ゆっくりと宿やその周りで過ごすことにした。
日が昇ってきてしばらくすると、クーラーのない室内は暑く、不快になってくる。そこで宿の外に出ることにする。敷地内を東門から出ると、急ごしらえした四軒のバラックが門と向かい合って見えてくる。外国人用紙幣から人民元への両替を百対一二〇のレートでやってくれる店があったり、瓶入りヨーグルトや冷えたジュースを売っている店があったり、貸し自転車があったりして、バラックの店は旅行者にとって便利な店ばかりだった。
バラックの店々は客引きに熱心で、宿の客が出入りするたびに、「ハロー、チェンジマネー」と声をかけていた。そうした彼らの両替の誘いを断る事は朝夕の僕の日課となった。
一番右つまり南側の店は三〇歳ぐらいの若夫婦が切り盛りしていた。夫は肩までかかる髪と口ひげが似合う男前で中世の中国の武将のような雰囲気があった。妻はアイシャドウやルージュでしっきり決めた派手な化粧をした美人で、花柄のワンピースなどをよく着ていて、化粧も服装もド派手だった。妻には幼児がいて、客である外国人によくかわいがられていた。
バラックには子猫が住みついていて、ある日、北欧系の金髪少女が現れて、その子猫のことをかわいがり始めた。なでてみたり、抱きしめたりと溺愛し、ついには「この猫ちゃんちょうだい」とバラック妻にお願いした。ちょうどそのとき、目の前にいたので様子を見ていたのだが、バラック妻の反応が傑作だった。「あなたのお父さんがここでたくさん両替したら貸してあげてもいいわよ」と上手な英語で言って、いたずらっぽく笑ったのだ。
このバラックの前あたりでは暗くなってから、宿泊者がだらだらたむろっていることが多かった。
いつだったか忘れたが、あるとき、がっちりした体格をした男たちの集団に会ったことがあった。二メートルはありそうな大柄の男や分厚い胸板をした格闘家体型の男などが五人以上いたのだ。彼らは目をギョロギョロとさせた肌の茶色い立派な髭を蓄えていて、路上にしゃがみこんで、お茶か何かを飲んで談笑している。なんだろうと思って見ていたら声をかけられた。
「Why looking us? Just drink tea.Who are you?」 何故俺たちを見てるんだ。お茶飲んでるだけだぜ。
「I'm japanese traveler,just looking.What are you doing?」日本の旅行者です。ただ見てるだけです。
「Ok you Japanese!」
なぜか僕が日本人とわかっただけで急に態度が柔らかくなった。恐る恐る彼らに何をしているのか聞いてみる。すると彼らは隠そうとせず、あけすけに言った。
「俺たちは北京政府から武器を買いに来たんだ。メイドインチャイナは安くていいよ」
武器商人たちだった。彼らは一体どこへ武器を売るつもりなんだろうか。彼らが売った武器でどのぐらいの被害が出るのだろうか。そうしたことをそれとなく聞いてみたかったが、それは不可能な相談だった。
「詳しくは言えねえよ」
英語でそう言って僕の方を真剣な眼差しでギラッと睨んできたのだ。
僕はその時何を思ったのか場を持たせるために百円玉を出し笑顔で「ナマステー」と言った。それとそのうちの一人がにっこりとしてポケットからくしゃくしゃの小さなお札を出した。それは透かしのところが破れている一ルピー札だった。
日本人にしても変わった人物がたくさんいた。当時、この宿に集まっている日本人は、社会からドロップアウトし、半年とか一年とかの長期で旅行している人が多かった。その人たちの多くはシルクロードかチベットを目指し、その後、パキスタンやインドへ抜けるというルートを計画していた。
四国出身のM田さんは当時二六歳。渥美二郎のような顔の四角い顔をした、生き方がヒッピーっぽい人だった。
「開高健さんの仕事のお手伝いでモンゴルに行ったりしてた。先生がお亡くなりになったのでアジアを放浪してるんだ。シルクロードを越えて、パキスタン、インドと放浪して帰るつもり」
大学を卒業後、彼はアフリカを一年かけて回っている。
スーダンで洪水に遭い三ヶ月間、閉じ込められた後、ザイール(現コンゴ民主共和国)で、大河ザイール川を筏で下ったのだという。
「日本人の相棒と二人で筏で下り始めたんだ。周りはジャングルでね、ほとんど人に会わないの。だから真っ裸になってね、川を下ったの。すると、突然、現地の人とバッタリ会ったりしてね。向こうも全裸なんだよ。バッタリ会うもんだから、お互い、恥ずかしくなって、大事なところを隠してたね」
マラリアに罹ったり、腐った肉を食べて腹を壊したり、ヘロイン中毒になったり。ザイール川の筏くだりは大変だったという。
「相棒が日に日に衰弱しちゃって亡くなったんだよ。だけど人は自然に帰るものだからね。それを人よりも早く成し遂げただけだよ。だから何も怖くなかった。だってそんなものだろ」
M田さんはマリファナをくゆらせながら座った目つきで、僕を見据えながら言った。
そんなM田さんとつるんでマリファナにハマっていたのが、公務員を辞めて旅に出たFさん(二八歳)だった。宿の建物の外で彼ら二人はうっとりとした表情でマリファナを吸っている様子を不意に目撃して、ぎょっとしたことがあった。もちろん僕はそこには参加しなかった。
こうしたドロップアウト組の旅行者たちは日本に戻れば、社会的な地位は底辺。なのになのか、それともだからこそなのか。彼らの中には、日本が経済大国だということを鼻にかけ、中国人を見下す者が少なくなかった。
「中国人は汚いし、サービスの概念がない。ダメな民族だ」などとあからさまに見下すHさんはすべてにおいて自己中心的だった。すぐにキレるしすぐに知ったかぶりをした。部屋では夜遅くなっても短波ラジオを大音量で流しっぱなしにするので西洋人からも嫌われていた。
痩せていて長髪にヒゲの人といういかにもヒッピー風のAさんという人がいた。商店街の食堂で彼と一緒に食事をしているときだったか、彼が財布をすられそうになったことがあった。彼はたまたま気がついた。そして食べていた肉を吐き出しながら、盗人に怒鳴りつけた。
「こら、何してるんだ。殴るぞ!」
盗人はこのとき、Aさんの財布に触れたわけではなかった。もし盗人が財布に手を付けていたら、実際、彼は手が出てしまっただろう。とすると、警察に連行されていてもおかしくなかった。この人危ないことするなあと僕は他人事のように思った。僕が似たようなことをこの旅でしてしまうのだが、そんなことは知る由もなかった。
窃盗事件が一段落した後、彼は事件について次のように振り返った。
「中国人は信用が置けないよ。油断も隙もない。ダメすぎる」
この事件より前からそうだったが、彼もまたHさん同様に、中国人を見下す傾向があった。
捕まった
出発の前日、買い出しに行った。中国製インスタントラーメン五袋、そのラーメンを食べるためのホーローのカップ、果物、搾菜、そして果物ナイフも買ったはずだ。
明日に出発を迎えて、僕は興奮して眠れなかった。僕と同じ部屋の背が低く、眼鏡をかけているイギリス人も同じ列車だった。彼に切符を見せると、彼は悔しそうにした。なぜなら、彼はイギリスで二等シャワーなしの切符を約一〇万円で買わされたからだ。彼は僕に言った。「遊びに行くからシャワー貸してね」と。僕が乗る予定の一等はシャワー付きだからだ。
そして翌日、僕とイギリス人は、駅まで一緒に行くことにした。
午前五時に起きて、午前五時半にホテルをチェックアウトした。一五分ほどで北京南駅に到着した。南駅から、北京駅まで、市内バスやミニバスで行くことができる。僕自身は楽なミニバスに乗りたがったが、イギリス人は市内バスに乗りたがった。意見は対立したが、ミニバスが来ないので、僕が折れ、市内バスで北京駅へ行くことになった。
僕らの乗った市内バスは長くて大きかった。バス二台がアコーディオンで連結され、長さは乗用車の四~五倍。入口は前の車両に一つ、後ろに二つあった。色は白を基調にし、真ん中と下に赤い線が入っていた。そして、切符売りが車内に前後車両に一人ずついた。
午前五時五五分、僕らは市内バスの後ろの車両に乗り込んだ。午前六時前だというのに座れなかった。僕らの場所の最寄りの切符売りは、やはり女だった。それも二〇歳ぐらい、少々太っていた。髪は後ろがうなじまでしかない、ショートカットだった。
その女に僕らはお金を渡した。イギリス人にはすぐ切符とお釣りが返ってきたが、僕のは返ってこなかった。というのも運賃が三角(〇・三元)しかしないのに、僕が外国人紙幣の一〇元札を渡してしまったからだ。切符売りはそのとき、僕に返すお釣り分の小銭を持っていなかった。お釣りが集まるまで、切符はお預けなのだ。
バス停に三回とまり、やっとお釣りがたまった。そしてやっと、僕は切符売りからお釣りをもらえた。しかし、肝心の切符がもらえなかった。切符売りはお釣りを集めるのに必死で、切符を渡すことを忘れたようだ。切符のことを伝えたかったが、そのタイミングはなかなか訪れない。
天安門の前を過ぎるとバス内の乗客はめっきり減った。すると、その切符売りは切符の有無を検査し始めた。僕はちゃんとお金を払っていた。それにお釣りのことで、かなりの面倒を掛けさせたのだ。女は僕のことを覚えているに決まっていた。
しかし、切符売りは何を考えたのか。僕に対して、
「给我看门票(切符をみせなさい)」と無茶なことを言い出した。
確かに僕は切符を持っていなかった。しかし、払ったことは事実だし、外国人紙幣を渡してきた僕のことを忘れているはずがない。
もしくは、僕の非を指摘しようとトラップにはめたのだろうか。お金を払わせて、切符をわざと渡さない。そしてあとから切符の検査にきて持ってないことを指摘する。痛いところを突かれた客から罰金を徴収するといった作戦なのだろうか。だとしたら、卑怯すぎる。なんだこれは。
そんな考えが浮かぶと、ボルテージは少し上がった。だけどもめるほどのことはない。財布を取り出し、お釣りの九・七元を見せて、「僕は払った」ということをアピールすればいいだけだ。
そしてそれを実行すると、切符売りは予想だにしない行動に出た。おもむろに財布に手を伸ばし、お札を丸ごと強奪しにかかったのだ。
「えっ、何するねん。オレの金、なに勝手に盗もうとしてるんや」
僕は思わず大声を上げた。
「******」
小太りの切符売りは何か怒鳴っている。
「運賃を払いなさい」と言っているのが、順当な線なのだろう。しかし財布に手を突っ込むのは、怒らせようとしているしか考えられない。なんだこの女は。
女の力は強く、グッと引いても財布を取り戻せない。
「もう払ったがな。なんで二回も払う必要があるんや。しかも人の財布に手を突っ込んで、何するんや」
ジェスチャーで一度払ったと言うことをアピールしたが通じない。どうしたらいいのか。
僕はもう一度、財布をグッと引いた。しかし、切符売りは絶対放さない。
「*****」
段々怖くなってきた。このまま、この女、僕を困らせようとしているんじゃないか。
手をぶらぶらと振って、お札からそれでも放さない。
「この後、シベリア鉄道に乗るのにちょっとなんやねん。乗られへんようになったらどうするんや」と僕は叫ぶ。このときの僕は正直、めちゃめちゃ焦っていた。
女はお札をつまんだ手をグッと引いて、強引にお札を抜き取りにかかる。それは何枚あったのかはわからない。全部あったとしても、せいぜい二〇〇円あまりなのだ。やらせておけば良かった。
なのにそうはしなかった。無理矢理お金を強奪されそうになったことに恐怖感と怒りのボルテージが最高潮となった。はっきり言ってしまえば、カッとなってしまったのだ。
「こら、ええかげんにせえよ」
何も考えず、ほとんど反射的に女のほおをパチンと打っていた。ほとんど無意識のままに。
女は僕の予想外の行動にひるみ、財布から手を放した。
これで収束するかと思ったら、とんでもなかった。女は僕のほおをパチッと打ち返してきた。
もうこうなったら両者ともに止まらない。ほおやら肩やら相手の手やらをパチパチと打ち合った。体感的には三〇秒ほどだったが、もしかすると一〇秒ぐらいかも知れない。僕と女は別れ際の痴話ゲンカのようにして打ち合った。性別的には僕の方が有利だが、体格的には女の方が有利だったかも知れない。しかも中国人の押しの強さ、性格のきつさからすると、相手の方が僕に対して、僕に対してよりダメージを与えていたかも知れない。惜しむらくは、言葉が通じていれば、殴り合いにはならなかったのではないかということだ。
はたき合いは財布の引っ張り合いや口論の延長にあった。だから殴り合いが終わっても口論は続いた。僕は頑として、財布を外に出さなかった。
口論もすぐに収まったので、そのまま収束するかと思っていた。ところが、問屋は下ろさなかった。はたき合ったことでまわりの客の注目を集めてしまったのだ。
それも怒りの目は僕ばかりに向けられていたのだ。こうなれば針のむしろである。僕はまわりの白い目に耐えられなくなった。
財布をもう一度とりだして、女のほうに差し出した。すると女は当初の予定通り、運賃分だけを抜き取った。こんな一〇円以下のお金にこれほどこだわってしまったのかと思うと、なんだか虚しい気分になった。
お金も払ったんだし、これで下ろしてもらえるよな。仕方がないな。この仕打ち。そんなことを考えて、何もなかったかのように、財布をポケットにふたたびしまった。すると、バスのほかの乗客が僕に対して、罵声を浴びせ始めた。フィルムでしか見たことがないが、これは文化大革命の「自己批判」のようなものだ。というか、僕に罵声を浴びせていた人の中には、当時、紅衛兵だった人もいるかもしれない。まわりの客から一斉に怒鳴られるという体験は袋叩きに近い。肉体的なダメージはないが、精神的にズタズタになる。
言葉による袋叩きが終わるころに、バスは北京駅に着いた。結局イギリス人は何もせず傍観するのみだった。
バスが北京駅に着き、前後三つのドアが開いた。客はどんどん降りていく。僕も朝から運が悪いと思いつつ、出口に向かった。ところが前に進めない。背負っていたデイパックが何かに引っかかっている。なんだこの感覚は。
後ろを振り向くと切符売りがいた。彼女は、僕のリュックをガッシリ、両手で捕まえていたのだ。驚いた僕はは振り切ろうとして、リュックを左右に揺さぶったり、前に思い切り引っ張ったりした。しかし、彼女の力は強く、振り切れなかった。
そこで僕はシベリア鉄道の切符を腹巻きからとりだして、左手で持って、それを後ろにいる女に後ろを振り返ったまま見せて、「これに乗るんだよ。だから下ろさせてほしい」と言って懇願した。ところが彼女は切符を見ようともしない。
そこで、もう一人の切符売りにシベリア鉄道の切符を見せて、「下ろさせて欲しい」と頼んだ。しかし、もう一人の切符売りは何も言わず、首を振った。そのうち、バスのドアは閉まった。僕は閉じ込められた。バスの中には、僕、二人の切符売り、運転手、そして、僕を激しく非難した目撃者の代表二人。外にはイギリス人が心配そうに待っていた。しかし、それも一分ほどだった。彼はすぐに、駅へと向かい、人混みにまみれていった。
一度、バスの扉が開いた。そして正体不明の二〇歳代の男が乗り込んできた。そして、すぐに扉が閉まった。逃げる暇はなかった。その若い男は英語が話せた。彼は早速、僕にジェスチャー混じりの英語で話しかけてきた。彼はこぶしを頭にもっていく動作をしながら、こう言った。
「君は罪を犯したので、公安(警察のこと)に行かなければならない」
「どんな罪だ」
「君は女の子を殴った。こんなこと中国人はしない」
「・・・・・・・・・・・」
げんこつではなくて張り手ではあった。だが手が出てしまったことは間違いない。だから言い返せない。
確かに中国、特にここ北京では口論をよく見る。男女お構いなしだ。そして殴り合いの喧嘩もたまに見る。しかしその喧嘩は男性同士であって、女性が殴り合いをしているところなど見たことがない。
中国人男性は女性を決して殴らないのだろうか。女性は弱いから大事にしなければならないと思っているのだろうか。しかし、それだったら、矛盾する。中国はバスの切符売りや運転手、列車員、市場の物売り、果ては土木作業員にまで、広く女性が社会進出している。だとすれば、暴力を振るうかどうかの基準も、目覚ましい社会進出に比例させるべきなんじゃないか。彼の言う「女性だから殴っちゃいけない」というのはある意味差別じゃないのか。
しかし、そんなことはどうでもいい。「僕が先に殴った」という事実がある限り、僕の方が悪いのは間違いない。そして、バスはどこかへ走りだした。そのとき午前六時四〇分だった。
もうどうにでもなれと思っていた。やけっぱちで放心状態だった。バスは、一度も停まらず、来た道を折り返した。窓から外を覗くと、同じ番号をつけたバスが駅に向かって何台か、通り過ぎていった。あのバスに乗れたら、まだ間に合うのにと思いつつ、何度かバスを見送った。二〇分経ち、バスは車庫に入った。
バスを降ろされ、隣にある永定門公安局の建物へと入っていった。建物の中は薄暗く、不気味であった。僕と二人の切符売りは警官に一番奥の部屋へと案内された。目撃者や英語を話せる男は別の部屋に入った。運転手はバスに乗ったままだった。
どうやらそこは取調室だった。粗末で、薄暗い部屋だった。机が二つといくつかの椅子があった。僕らは椅子に座るように言われた。そして、身分証明書を見せるように言われた。
僕はパスポートを警官に渡した。すると、警官は、ちらちら見た後、パスポートの一番最後の頁に「crubmsk7、29jと筆記体でサインし、僕に返した。
警官の態度は威圧的ではなく、事務的だった。しかし、パスポートを見せているときに、ほうきを持って入ってきた警官には心底、恐怖を感じた。問答無用で殴られるのかと思ったからだ。実際はただ掃除に来ただけだった。その警官はすぐに部屋から出ていった。そして、パスポートを見ていた警官も僕の身分を確かめると、すぐに出ていった。警官たちが出ていき、僕は、切符売りたちに目をやった。僕が殴った方の切符売りは、何やら、調書のようなものを書かされていた。もうひとりの切符売りは部屋に出たり入ったりと忙しかった。
彼女たちの表情は一応に暗かった。僕が殴った切符売りが調書を書き終えると、もう一人の切符売りは完全に出ていったきりになった。そして僕と切符売りは取り残された。僕はすることがなく、ボーッと椅子に座り続けていた。
切符売り女は机に顔を埋めてしまった。泣いているのかどうかはよくわからなかった。その状態が一時間ほど続くと、切符売り女は別の取調室へと去っていった。僕は椅子に座ったまま、さらに、二時間ほど待った。そしてやっと、呼び出された。僕は別の取調室へと移された。切符売りや目撃者とは別の部屋だった。
取調室には、警官が三人いた。途中、何人か警官が出たり入ったりしたが、彼らは取調べには関係なかった。僕の取り調べをするのは、審問事項を言い、調書を書く一人、日本語と中国語の通訳の一人であった。彼らは三〇歳ぐらいの男性だった。中国での取り調べというと、拷問があるだろうと思っていたが、それは、誤解だった。彼ら、取り調べを担当する警官は事務的で冷静だった。しかし、僕の場合、運が良かっただけかもしれない。
「事件が起こった時間と場所を教えてください」
「午前六時三〇分ぐらい、北京南駅から北京駅へ行く、五四番のバス。確かそうだったと思います」
「どちらが先に手を出したのですか」
「僕です」
「なぜ手を出したのですか」
「彼女の態度は横柄で我慢のならないものだったからです」
「・・・・・・・・どんな理由があるにせよ、あなたは彼女を殴りました。このことは中国の刑法二三条に違反しています」
「反省しています」
「今回、あなたには罪は課しません。良い旅を続けてください」
「ありがとうございます」
取り調べはこんな調子だった。結局、何の罪にも課されず、罰金も払わずに済んだ。
公安にいた時間は約五時間でそのうち取り調べに要した時間は二時間だった。釈放されたとき、もう正午を過ぎていた。もちろん、シベリア鉄道には乗れなかったが、公安の人たちは親切だった。切符の払戻しのため、パトカーでCITSまで送ってくれたのだ。
飛行機を二度乗り過ごす
昼休み中だったので、午後からの開店時間を待った。そして実際に開くと中に入り、すぐ払戻しをしてもらった。帰ってきたのは定価の六割だった。そのとき僕は念のため、シベリア鉄道の切符の有無を聞いた。
「八月五日以降のモンゴル経由、八月七日以降の東北経由はあります」と服務員は答えた。
当然間に合わない。なのに聞いたのは、自分を納得させたかったからだ。乗り損ねたという事実を受け止めたかったのだ。
で、あればどうすればいいのか。シベリア鉄道は二週間は待たないと乗れないし、ビザを取り直さねばならない。
鉄道に追いつくべく、飛行機で移動するというのはどうか。
「北京からモスクワまでは週に二本ありますが、当分埋まっています」
とCITSの服務員は英語で答えた。とするといずれにしろビザは間に合わず、取り直さねばならず、万事休す。ここで僕はロシアを経由しての世界一周を断念した。
とするとどこに行けばいいのか。当分は、あの地獄のような混雑の北京駅には行きたくない。だけども北京から先へと旅は進めたい。とするとパッと遠くへ行ける飛行機で全然違う場所へ行くこととしよう。
もちろんこのまま帰国する気はない。香港やバンコクといった場所もピンとこない。じゃどこにするか。
そのとき、頭に浮かんだのが、成昆鉄道という鉄道路線であった。鉄道作家、宮脇俊三さんの『中国火車旅行』という本が昨年、文庫で出版され、それを読んでいたのだ。四川省の成都と雲南省の昆明を結ぶ山岳鉄道の様子が、事細かく記されていて、興味をそそられたのだ。昆明からであれば、以前から憧れていた、雲南省の山岳民族のいる地域へ行くこともできるだろう。ガイドブックに載っている、大理や西双版納といった項目に記された、少数民族の住むエリアはいかにも興味深い。であれば成都へ飛んでそこから成昆鉄道に乗って昆明へ。さらに昆明からは少数民族のいるエリアへ足を伸ばしてみよう。
切符を払戻して得られたお金で僕は成都行きの飛行機の切符を七〇〇元(一万八二〇〇円)で購入した。出発は翌七月三〇日の午前九時五五分だ。
部屋に帰ると、同じドミトリーにイギリス人はやはりいなかった。宿に帰ってみると、シベリア鉄道に乗り損ねたという事実が堪えてしまって、ぼんやりしてしまった。次の日何時に起きればいいのか、よくわかっていなくて、目覚まし時計は午前七時と適当に合わせた。
ぼんやりして起き出して、三〇分で支度しバスに乗り、午前八時半に東単というところにある中国民航事務所に行った。そして、事務所前で、空港行きバスを待った。
しかし、目当てのバスは来なかった。
事務所の服務員に飛行機の切符を見せると、「ここからバスは出ません。だから間に合いませんよ」と彼女は日本語で答えた。
バスはここではなく西単というところの中国民航ビルのそばから出発するのだった。
バスが東単から出ないことがわかると、僕はすぐにタクシーを捕まえ、空港へと向かった。そのときすでに午前九時二五分。空港までは市街から三〇キロも離れていて、到着したとき、時計は午前一〇時をさしていた。(七〇元、一八二〇円)
もちろん飛行機は出てしまっていた。早速、払い戻して、どこでもいいやとやけくそになって桂林行きに変更した。
昨日今日と天中殺だったのか、北京空港のパネルは壊れていて、チェックインカウンターの場所や受付締切時間については何も記されていなかった。三〇分前までにチェックインしなきゃいけないのだが、僕が動き、カウンターに辿り着いたのは離陸二五分前のことであった。
「締め切りましたので乗れません」と英語か中国語で言われて断られた。
たまたまそのとき、ウルムチへ行く日本人の大学生がいた。なんの気なしに彼に相談する。
「あんた飛行機乗ったことあるんですか」と吐き捨てるように言われてしまった。彼は「あんなこともあったねと」と中島みゆきの『時代』を歌ってその場を去っていった。
そこにはチェックインしようとしている日本の商社マンがいて「もう手遅れだね」と言って、慌ただしく去っていった。
救いだったのは、Oさんが手を差し伸べてくれたことだ。彼は秋田の出身で二六歳。彼は工場で勤務してお金を貯めて、旅に出るということを繰り返している人だった。
そんな彼が、僕が宿に戻ってきたとき、ベッドを譲ってくれたのだ。しかも彼は「これ差し入れな」と言って、「香港’97」と記されたノーカットのポルノ本を譲ってくれた。僕はその本で性的な興奮を覚え、生きる気持ちを少し取り戻したのだった。
再出発~成都へ
何もする気が起こらず、ドミトリーに泊まり、日中は外で過ごし、夜に戻ると言うことを繰り返していた。行動することがあっても、付き合いで、北京ダックや焼き肉を食べにいったぐらいで、自分からは動かなかった。
八月一日に予告なく、ドミトリーが値上げされた。ホテルの料金表のパネルの修整が間に合わなかったようで、二〇元とマジックで書いて紙で貼り付けてあった。連泊している人はチェックアウトするまで一五元でいいそうなので、僕はそのままの値段で良かった。
僕が北京を出ようと思って動いたのは、八月二日だった。目的地はやはり成都。最短と言うことでお願いしたら、八月四日発で値段はやはり七〇〇元(一万八二〇〇円)であった。
そして当日、今度こそ出るんだ、ときばって出発の五時間以上前である八時半にはホテルを出た。リムジンバス乗り場への行き方は前日八月三日に下見をしてバスの乗り換えの仕方を予行演習していたので大丈夫だ。空港までは八元、早めに空港へ行き、チェックインカウンターには一時間半前、つまりカウンターが開くのと同時に済ませ、余裕を持って飛行機に乗ったのだった。
周りのボーディングパスや切符の行き先をじろじろ見て四川省の成都行きということを確認した。それでも到着するまでは気が気でなくて、別のところへ行くんじゃないかとかそんな考えが頭に浮かんだ。横五列で縦が三〇列ぐらいという約一五〇人乗りのM82という新型の飛行機だ。
飛行機は三〇分遅れで、午後二時一五分、飛び立った。やっと北京を抜け出せた。北京から成都までは約一五〇〇キロもある。その距離を飛行機は約三時間で飛んだ。同じ距離を東に飛べば福岡についてしまうのだ。
午後五時半、飛行機は幸い無事に成都空港に到着した。
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