李さんの親切[1991年/燕京号・天津・北京編/中国の高度成長を旅する#2]
ファッションと改革開放 燕京号の船上にて
フェリーの甲板にはたくさんの人が集っていた。ポートターミナルの岸壁とフェリーの間には色とりどりのカラーテープが張られていて、様々な思いが交錯していることがみてとれた。蛍の光のメロディーが流れると、フェリーは静かにそしてゆっくりと岸壁を離れていく。それと共に両岸を結ぶカラーテープがちぎれていった。人々はしきりに手を振っている。僕はデッキで、期待と興奮に胸を膨らませていた。初めて行く日本以外のアジアへ行くのはそれが初めてだった。
僕が乗りこんだ燕京号は一年前に広島で作られたばかりの新しい船。友好的関係にある神戸と天津を結ぶ航路として就航し、まだ一年ほどしかたっていなかった。重量は九九六〇トン、旅客定員は三九九人。木曜日の正午に神戸を出て、明石海峡、瀬戸大橋、関門海峡と瀬戸内海を通って、翌々日である土曜の正午に天津に着く。明石海峡大橋やしまなみ海道が含まれないのは当時まだ橋がかかってなかったからだ。
旅に出た一九九一年はバブルがはじけるかはじけないかという時期だった。当時、僕は神戸の西の外れに新設された私立の大学に通う三年生だった。
周りの学生はシルビアやプレリュードといったスポーツ型セダンを乗り回したり、DCブランドとかボディコンといった一着何万円もするような服に身を包んでディスコに行ったり合コンに励んだりといった派手なことをする学生が目立ったし、そういった派手なことをしなくてもバイト三昧という学生は珍しくなかった。
世の中的には、土地の値段が上がったとか地上げがどうだとか、GNPがアメリカを抜いたとかそんな浮ついた話が飛び交っていて、まだ二一歳かそこらの、世の中のことがあまりわかっていない、まだ学生だった僕ですら、この国大丈夫か、と心配になるぐらいに世の中全体が舞い上がっていた。そうした浮ついた日本の雰囲気が嫌だったからか、僕は日本から背を向けるようにして、海外へと出かけ始めた。手始めは一九九一年二月のヨーロッパ一周、そしてその年の夏にはまたも日本を飛び出した。それがこのときの中国旅だったのだ。
夏休み時期だったので満員だったのだと思う。旅客の大半は日本人で、中国人は家族や留学生という里帰り組ぐらいのもの。ちなみに僕が泊まっていたのは船内で最も安い二等和室だった。定員が二二人という大部屋に布団がすき間なくズラーと並んでいた。敷き布団の横幅は掛け布団の三分の二で、大人ひとりがやっと眠れる幅しかなかった。隣で寝たのは僕が誘って着いてきた高校の時の同級生A。またAとは逆隣には寝相が悪く時々いびきをかいたり、足を載せてきたりするおっさん、シルクロードへ行くと言っていた京大生、全員北京大学のTシャツを着ていた自転車か何かのチーム、やはりいびきがうるさいバイク乗り、シベリア鉄道でモスクワを目指す真剣くんと呼ばれた大学生、桂林で川下りをする予定の大阪市大の二人組などだ。同じ国へ向かう人々が同じ部屋にぶち込まれているという体験は興味深かった。だからといって意気投合するかは別だ。いびきをかく人は話す気にならなかったし、揃いのTシャツを着た人もそうだ。だから話したのは真剣くんぐらいだった。その後彼からの連絡はないが、天津新港に着くのが八月三日で、そこから一六日後の一九日にはモスクワでクーデターが起こっている。これはマルクスレーニン派の守旧派によるもの。そのクーデターが引き金となって、その年の年末にはソ連は解体したのだった。
二日目になると船は外海に出た。すると途端に船は大いに揺れた。昼ごろやっと稲れと船酔いから開放されたので、朝鮮半島など見えないかと思い、僕は甲板に上がり、ボーと海を眺めていた。そばにはノースリーブのブラウスを着た二〇代の中国人らしき女性が目にとまった。清楚できれいなその子は留学生だろうか。そんなことを思って、もう一度、ちらっと彼女を見た。僕は目を疑った。というのも彼女の腋には毛がふさふさと生えていたのだ。
一九七八年に改革開放政策が始まって以降、人々はお洒落を楽しむようになった。しかしそれに伴うエチケットやマナーまでは広まっていないのだろうか。かといって本人に聞くわけには行かずモヤモヤした。
李さんの親切 北京その1
出航してから二日後の八月三日の昼、船は天津新港に入港した。船を下り、入国審査場へ向かうと人と物でごった返していた。数としては少ないはずの里帰り中国人乗客が持ち帰った大量の荷物であふれかえっていた。その大半はナショナルや東芝といった日本の家電品だった。八月はじめという酷暑の時期だったがクーラーはなかったと思う。暑さと罵声と人いきれで、混沌としたホールで僕とAは汗だくになりながら一時間半ほど待った。当時は、そんな経験はしたことがなかったので、耐え難かった。それでもなんとかなったのは、船内で仲良くなった中国人青年李小平さん(仮名)と一緒にいたからだ。彼は大阪の大学に通う留学生。団子のようにまん丸で鼻とほおが丸い、愛嬌のある顔の青年で、日本語がとても上手だった。
「みんな親戚の分も含めて、頼まれて買ってくるからよけい荷物が増えてしまうんですよ。人が多いでしょ。これが中国ですよ」
人は事情がわかると不快感や怒りが静まっていくものだ。このときはまさに彼がいたからこそ、安心して並べたのだった。
一時間半ほどたってようやく入国審査と税関審査が終了。出口まで来ると、するとそこには「~先生」などと記されたプラカードを持った出迎えの人が押し合いへし合い殺到していた。歓迎ムードではあったがまたも大混雑。人民服を着ている人はいないが、スラックスに襟付きの半袖シャツばかりと、服装は整っているがいかにもダサくて垢抜けない。テレビでしか見たことがないが、戦後まもなくの買い出し列車のようだ。とんでもないところへ来てしまったなと僕はそのときたじろぎ、そしてほんの少し後悔した。
李さんには、両親が北京からわざわざ出迎えに来ていた。流れ的に僕とAは李さんと一緒に動くことにした。天津新港の客運站の建物を出て、李さんとともに乗り込んだのが塘沽站というところへ向かう二両連結のポンコツ汽車(バス)だった。こんな長いバスは見たことがなかった。
バスに乗ったからと行って安心ではない。むしろそこからが大変で、火車(鉄道)に乗るために站の切符売り場で並ぶ必要が出てきた。気が遠くなるほどに人が多く、しかも列に割りこんでくる人があちこちにいるので、入国時同様になかなか進まない。果物とかひまわりの種などを食べ、辺り構わずそこら中に捨てるので切符売り場は人いきれと食べ物が腐っていく臭いが混じったような臭さと、語気の強い中国語がつんざくように耳に突き刺さってきてうるさくて仕方がない。結局、切符が手に入るまでに二、三時間かかってしまった。
李さん一家とともに火車に乗り込んでみると、そこは硬座(二等自由席)だった。車窓は延々と農村が続いている。ゆっくりと進んでは停まっていくので中々進まなかった。北京南站に着いたときには日付が変わろうとした。同じ火車を降りる人たちは、それぞれカバンを肩から下げ、両手には蟹やら鶏の丸焼きやらを大事そうに抱え家路を急いでいた。駅は大変な数の人で賑わい何やら混沌としていて、やはりそこは戦後まもなくの買い出し列車の趣であった。
その後、李さん一家に導かれるままに彼らと乗り合いタクシーに乗った。初めての北京、しかも夜も遅くなっているのだ。単独では行動し辛かった。オレンジ色の街灯が街を照らしていて、街は薄暗い。道路の幅はかなり広いが、それを上回る通行人が歩いていたり、自転車が通っていたり。西瓜を売っていたりして埋めつくされていた。しかも誰も信号を守っている感じではなく、赤でも平気で信号無視をしてしまう。「赤信号みんなで渡ればこわくない」というギャグが、中国ではギャグではなく、それが交通ルールとなっていた。つまりここは法律やルールがあってないような世界なのだと僕はそのとき覚り、とんでもないところに来てしまったなと、戦慄したのだった。そのとき僕の表情は引きつっていたのだろう。
李さんは落ち着いた表情でニコニコしながら言った。
「これが北京の道路事情だよ~。大丈夫、大丈夫」と。
三〇分ほどでタクシーは二〇階建てほどという北京にしてはずいぶん立派なホテルの前に停まった。入口には「裕龍大酒店」と記してある。中国では酒店は酒屋ではなくホテルなのだ。
「今日は遅いから、ここに泊まって。うちはすぐそばにあるから、一緒にうちで夕ご飯を食べましょう」
李さんは僕らのためにわざわざホテルを紹介してくれた。その上、李さんは値段交渉をしてくれて、ツインの部屋一泊一六〇元を一〇〇元にまでまけさせたのだった。
そこまでしてくれたので、僕らは断るにも断れず、そこに泊まることにした。ベルボーイに案内された一四階の部屋はやはり豪華で身分不相応だった。窓の外を見下ろすと、中央電視台(テレビ局)が見えた。ホテルのチラシを見てみると海淀区と書いてある。ガイドブックによると、ここは北京の文教地区。北京大学をはじめ八大学院があるのだという。
荷物をホテルに置いた後、僕たちは李さんやご両親とともにタクシーに再び乗り込み、一キロほど先にあるご実家にお邪魔した。両親が医者だという彼の家は立派だった。部屋数の多いきれいな家だった。便所は洋式の水洗で、ペットには二匹の猫がいた。
一九九一年時点での中国での年収は三三七五元(上海統計局)、つまり八万七七五〇円にしかならない。一方、日本はと言うと世界一の経済大国。サラーリーマンの平均年収は四六〇万五九〇〇円(厚生省年次統計)だから、単純に計算して五〇倍以上。それほど物価の差がある隣国に子供を留学させているのだ。李さんの両親はそれだけ収入があり、かつ教育熱心だと言うことがうかがえた。ご両親が用意してくれていた夕食を僕はご馳走になった。朝作っておいたものだろう。温め直してくれた中華料理、数品でもてなされた。
「吃吧!」(食べて下さい)と李さんの母親は僕に言った。
「謝々!」と僕は覚え立ての中国語で礼を言って箸を付けた。
食べながら李さんは言った。
「明日、安いホテルをさがしてから、北京観光にも連れていってあげるよ」と。
たまたま船で会ったばかりだというのに、この親切さはなんだろう。僕は垣根のない、熱烈歓迎振りに戸惑いつつも、感激した。
バックパッカーのたまり場 北京その2
翌日、僕はAと李さんとともに、目当てにしていた安い宿を目指してバスに乗った。小一時間ほどたって到着したのは昨日、やってきた北京南站であった。そこから一五分ほど歩いて、目当ての僑園飯店に到着した。このホテルは外国人が泊まれる数少ない安宿で、それだけに外国人バックパッカーのたまり場になっていた。
李さんは再び部屋の交渉をしてくれた。しかし一泊四〇元(二人で一〇四〇円)とかのツインベッドの部屋しかなかった。僕らは彼を待たしてはいけないと思って、目当ての相部屋ではなかったが、それで妥協し、五分か一〇分ですぐに荷物を置いて出てきた。しかしそのときなぜか李さんの姿はなくなっていた。探してみたが見つからなかった。それが李さんとの別れとなった。
泊まることになった僑園飯店から北京南站まで続く道は食堂やら雑貨屋やら商店が集中して、商店街を形成していた。ホテルそばの食堂にはいつも白人が群れていて、その横には貸自転車屋があり一日五元(保証金百元)で自転車を貸してくれた。雑貨屋にはジュースのペットボトルや牛乳瓶入りヨーグルト、西瓜などが売られていた。特に牛乳瓶入りヨーグルトは気に入った。ホテルを出るとき、帰るときには必ず飲んでいた。
翌日だったかそのうち多人房(相部屋、ドミトリー)の部屋が空いたので、そちらに移った。部屋代は一〇~二〇元(二六〇~五二〇円)とやや安くなった。
ホテルと站を結ぶ道のさらに北側には小川が流れていた。そこをずっと進み、南駅を突っ切る。少し行ったところを左に曲がると永定門内大街、前門大街が見えてくる。前門大街は北京の浅草と呼ばれるところで僕らは北京ダックを食べたり、服を買ったり、民族楽器にさわったり、ケンタッキーでチキンを食べたり(味は世界中どこも同じ)した。前門大街をまっすぐ北へ行き、突き当たったところが天安門広場だった。
二年前この広場で天安門事件が発生した。最初は故・胡耀邦前党総書記の正当な評価・報道の自由・汚職の根絶を求める小規模な学生運動だった。それがいつのまにか百万人もの規模に膨れ上がり、運動の目的も民主化を要求するという大きなものへ変わっていった。政府はその運動を武力によって鎮圧した。そのときの死者は定まっていない。今後、確定することはあるのだろうか。また、この運動はその後、この国の発展にどのような影響を及ぼすのだろうか。
天安門前には東西を貫く道路があり、そこを東へ歩いて行く。すると北京飯店、日本大使館、友誼商店、建国飯店、長富冨飯店、玉府井などがある。友誼商店とは中国の大都市なら必ずある外貨ショップ。洋物タバコや高級ウイスキーなどここでしか買えないものがおいてあったが、僕には必要のないものばかりだった。
長富宮飯店という超高級ホテルには貧乏旅行者である僕には本来縁がないと思ったらそうでもなかった。中国国営旅行社(ClTS)や日本航空の事務所が入っていたので、僕はさっそく帰りの飛行機の切符(上海~大阪間)を購入した。それはビジネスクラスで片道約三万九千円だった。
王府井は北京の銀座とも呼べるところらしいのだが僕らは主要な商店街よりも商店街手前の屋台街に惹かれた。そこは昼間、服などの雑貨を売っているのだが夕方から夜にか飲食店街に早変わりする。そこでの安くてうまい夕食の味は忘れらない。シシカバブー屋(羊肉の串焼き)、四川風ラーメン屋、ぜんざい屋、爆膵屋、冷麺屋など。衛生的には疑問符が付いたが食欲と好奇心に負けてしまった。
中国人に混ざって汽車に乗り込み万里の長城や明の十三陵や遊園地を回った日もあった。万里の長城の壮大さにはびっくりしたが、それ以上にえっと思ったのは、遊園地での中国人の行動だった。入口で係員と筆談をしているとあっという間に見物人に囲まれてしまったのだ。中国語を話せない人が珍しい地方出身者たちなのだろうか。だったら西洋人の方が見た目的に珍しいのに、なぜ僕らの所に集まってきたのだろうか。
また、別の場所では洋式水洗便所のどの便器にも糞古がてんこ盛りになっていたり、個室になっておらず衝立しかないトイレをみつけたりしたことも目からウロコだった。
混雑が辛い
中国で何より、えっと思わされたのは何より人の多さだ。その点、全国から人がやってきては去って行く大都市の火車站の様子には茫然とさせられた。北京の南西にある河南省の洛陽へ火車で行くために、北京站へ行ったときだ。駅の構内はもちろん駅前広場でさえ人でびっしり埋まっていたのだ。幸い切符売り場は外国人用と人民用に分かれていた。僕らは激しいやりとりがされている人民用切符売り場を横目に外国人用切符売り場へと向かった。外国人用も決して楽ではなかったが切符を狸ることが出来、ホッとした。洛陽行きの直快、砿臥(二等寝台)が外国人料金で百十三元だった。
北京出発当日、僕と友人は駅へやってきた。乗るのは、午後五時四分出発の直快硬臥である。ところが目当ての火車が四時間も遅れることが判明、数時間後に出直した。いざ、四時間後に駅へ来てみると火車の到着ホームが変更されていた。それに気づくのが遅かった僕らは結局その火車を乗り過ごしてしまった。
北京駅の構内は人人人であふれかえっていた。服務員はその混雑ぶりに、ほとほとうんざりしていたようで誰も僕らのことをかまう余裕さえもっていなかった。僕らは火車に乗り遅れたことを近くにいた服務員を捕まえて片っ端から訴えてみたが誰も取り合ってくれなかった。
火車が出発して二時間以内なら払戻しがきく筈だったが、駅じゅうの服務員にそのことを訴えているうちに二時間が過ぎてしまった。切符がパーになったのだ。僕らは呆然として待合室のソファーに腰をおろした。そのときすでに午後十一時半を過ぎていていた。
「汽車の終電はもう終わったし、もしホテルに戻れてももうフロントもやっていないけどどうする」
「どうするって言ってもどうしようもないやん」
「ここで寝るしかなさそうやな」
Aと二人で協議して、駅前で野宿する覚悟を決めて、各々がもってきたウレタンマットや新聞紙を敷いてザックを枕にするか、抱くかして横になり始めた。
当然、眠れるはずがない。まんじりともせず、一夜を明かすことになるのか。ヘトヘトだし目だけでもつぶるか。荷物は大丈夫かな。これだけ人が多いし。盗まれても見つけようがないぞ。
不安になってときどき目を開けた。目の前には程度の悪いボストンバッグを持った男性がいたり、小さい子供を連れた母親、土のうの袋をかばん代わりにしている色の黒い筋骨隆々のおっさんたちがいた。その数はざっと数千人はいそうだ。彼らは地方からやってきて、行くところがないのだろうか。宿に泊まる余裕はないのか。この人たちは今後どうするのだろう。そんな考えが頭をよぎる。この人たちも中国人だし、李さんも中国人。だけどここにいる人たちと、境遇があまりに違いすぎる。
午前十二時半頃、ガードマンか警察がやってきて、拡声器のようなものを使って何か言っている。すると数千人の人たちが移動を始めた。僕とAも群集の動きにせき立てられるように動いた。彼らに着いて行ったところは、站の建物の外だった。つまり敷地を出るようにということらしかった。
僕とAは仕方なく駅前にマットや新聞を敷いて再び寝床を確保した。しばらくして再び拡声器を使ってあたりにいる人々をけ散らしに警官がやってきた。それぐらいでは誰もどかないので怒った警官たちは装甲車を引っ張り出してきて駅前で寝ている人たちの前に出た。このままだとひき殺される。群衆たちは慌てて右往左往する。その一員に僕とAがいた。Aの気持ちは知らないが、僕はこのとき、彼ら群衆たちと連帯感と同情の気持ちを抱くようになった。すると警戒感は擦れていった。
しばらくして雨が降り始めた。僕らを追い出した警官たちは仕方なく再び構内へ入るのを許可した。僕らと白人の男ひとりが外国人切符売り場前に寝床を確保した。
僕らは次の朝すぐに、(破座しかとれなかったが)昨日と同じ車次の火車の当日券を手に入れることができた。そして夕方に出直すことにして僕らは毛首席記念堂へ行った。そこには防腐処理が為された故・毛沢東元首席の亡骸を一目見ようと全国から駆けつけたであろう人民が既に天安門広場に列をなしていた。記念堂の中で立ち止まることは許されず、通り過ぎるだけなのだ。なのに列は途絶えることなく延々と続いていた。順番か回ってくる。入口の兵隊を横目に記念堂へ入る。そこにはソ連の国旗にくるまれた故・毛沢東の亡骸があったが、何かを感じるには時間がなさ過ぎた。
街をぶらぶらしたり、昼ご飯を適当に食べたりした後、僕らは時間に余裕を持って再び駅へ行った。駅は相変わらず人であふれかえっていて、うんざりした。しかし、昨日ほどは、ぞっとしていなかった。
幸い火車は定刻通りの出発らしく僕らはなんとか火車に乗り込めた。なんとか乗り込めたのである。なんとか。
なぜくどくどと「なんどか」を繰り返したかといえば、前述した駅の混雑ぶりを想像してもらえばわかると思う。駅に僕らが目当てにしている火車が着くやいなや、まるで人類最後の日が来たかの如く人々は一斉に走りだした。北京は始発駅なのでみんな座席があるはずなのにである。僕らはまわりの行動にあっけにとられながらも、負けじと走った。火車に乗り込んでみるとやはり座席はあった。すぐに荷物を網棚にのせた。そして座席に座った。しかしまわりは満席だった。火車は十一時間かけて洛陽へと行くのであった。座席は硬くまるで板のようだった。
僕の座席は窓際だった。車内にはクーラーはもちろん扇風機さえ付いてなかった。だから窓は開けっ放しにしていた。途中、駅に着くたび乗客は増え続け通路さえ埋まってしまった。通路さえ埋まっているというのに停車するごとに乗客は増え続けた。車両の入り口からは入れないほど乗客が増えたため窓から乗り込んでくる人もいた。僕のそばの窓からも人が入ってきた。また、そこから出ていこうとする人もいた。
僕は我慢の限界を通り越し、「こらー、いま何時や、夜中の三時やぞ。ゆっくり寝させろや」と近所のおやじが怒鳴るかのような大声を上げたはずだ。しかし、ザワザワとたくさんの人がいるし、ガタンガタンと音を立てて移動しているのだ。僕の声は虚しくかき消された。とりあえず窓を閉めこれ以上出入りできないようにすることしかできなかった。
そのとき、室内灯は相変わらず煙煤と光っていた。乗客の大半は皆眠りにつきたいが明るすぎて眠れずにもがいているようだった。僕やAは座席があるだけまだいいほうだ。通路の乗客はその場で鳩のようにうずくまり眠ろうとしたり眠るのをあきらめボーと突っ立っていたりした。
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