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上海のテレビ塔の前で[2018年/上海編その1/中国の高度成長を旅する#13]

反スパイ法と入国


 ザックやリュックを担ぎ、たくさんの麦茶のパックを持ちながら、船のタラップを下りた。そのとき、私の頭の中に、ある思いが渦巻いていた。
「ビザは取れたといっても最終判断するのは入国係官。私が過去に決行した尖閣行きを気にして、係官が入国させないかもしれないよな」と。
 私が心配していたのには事情がある。それは出発前に中国人の知人から聞かされた、ある言葉が引っかかっていたからだ。
「習近平国家主席の時代になってからいろいろなことが変わりました。政治的なことを友達との間で話題にすることが難しくなったんです。あと外国人を告発すれば日本円で一千万円ぐらいの報奨金をもらえるようになりました」
 国内では言論統制を強めて相互監視させ、外国人に対しての密告を奨励する――ということなのだろうか。これがもし本当なら、まるで毛沢東の時代に逆戻りではないか。だが、豊かになった今の中国人とそうした言論・思想統制とが結びつかない。どういうことだろう。
 だが知人の言うことが完全に嘘だとも言い切れない。習近平時代になった後の二〇一四年一一月に中华人民共和国反间谍法(反スパイ法)が制定されているのだ。
 その三八条には、罪となる行為の定義が記されている。「国家の安全を害する活動」、「スパイ行動を行った者」のほか、「その他のスパイ活動をおこなうこと」という条項も含まれていて、要は当局がクロだと思えば、どんな容疑でも逮捕できる可能性がある。しかも、その知人が話すように、密告を奨励している項目があり、密告者には賞金が与えられる場合もあるというのだ。
 取材という行為は、ぶっちゃけた話、原稿を書くための材料、つまりは情報をとりに行く行為である。私は今回、政治的なルポを書くつもりはない。とはいえ過去の記事の内容から、当局や密告者が「ニシムタはスパイ行為をしている」と見なし、入国を拒否されるかもしれない。実際、中国をテーマにしている作家や大学教授が入国拒否を食らっている。入国できたとしても、その後、反スパイ法によって捕まってしまう可能性だって捨てきれない。実際、この容疑で一〇人前後の日本人が何年も拘束されたままなのだ。
 加えて、私の気を重くさせていたのは、李さんからの返事が未だにないということだった。私がジョークで言った「要注意人物」という言葉を真に受けたのだろうか。七月末に会ってから、「北京に行きますので会いましょう」とメールを送ったり、写真を送ったりしたが、何のレスポンスもなくなってしまった。言霊はあまり信じる方ではない。しかし私が李さんに「私は要注意人物」と言ったことで風向きが変わり、入国する頃には本当に要注意人物として当局に見なされ、遂に入国を拒否される……なんてことがあったりするのではないか。

 タラップ下に停まっていた大型バスに乗り込む。するとバスは出入り口を閉めて発進、ターミナルの敷地の外に出てしまった。どこに連れて行かれるのだろう。 

 バスの車窓からは、街路樹が見えた。その奥には歩道、そして高層ビルが見える。片側三車線のゆったりとした道路のようで、通行人は数えるほど。ごちゃごちゃして、どこに行っても人混みという中国の印象からはほど遠い。上海ではなくてシンガポールに来たんじゃないのか。一瞬、そのように錯覚した。 


 乗っていたバスは、数百メートル移動したところで停車した。そこはターミナルの別のゲートから敷地内に入り直したエリアだった。かつての鑑真号は浦江飯店の近くに着岸したはずだから、今回着岸した場所は、元の停泊地に比べてずいぶん東へ移動したらしい。
 私を含めた乗客たちはバスから下車し、荷物を持って、ターミナルの建物の中に入っていく。建物の中は、大都市にある空港の出発・到着ロビーのように整然としており、しっかりエアコンが効いている。
 キャリーバッグを引っ張っている同室だった若者二人と一緒に、動く歩道に乗ったり降りたりして入国審査場へと移動し、列の最後尾に並んだ。乗客の多数を占める中国人はすいすいと入国していく。その一方、日本人は五、六人しかいないのに、列はなかなか進まず、自分の番が来るまでに一〇分ほど待った。 

 記入した入国カードをパスポート番号が書いてあるページに、そして税関申告書を中国ビザが貼られているページにと、それぞれに挟んで、入国係官のいるブースで渡す。担当した若い女性係官は私の顔を一瞥した後、パスポートをスキャンしたり、キーボードにデータを入力したりして、私のデータをモニターで閲覧、不審点の有無を確認した。問題なしと認めたのか、スタンプをガチャガシャッと押すと、私にパスポートを返した。パスポートが戻ってくるまで、ものの数分間。大丈夫かどうか、やきもきしたが問題はなかった。中国行きの手配を始めて一ヶ月半。本当に入れるのかという不安がやっと晴れた。
 その後はまたしばらく、動く歩道に乗って移動していった。最後には麻薬犬が待機していたが、動揺せずに毅然とその前を通り過ぎることができた。

「僕たちはタクシーで行きます。お元気で」
「じゃあまたね。商売がうまくいくといいね」
 名刺をくれた若者二人とは、ターナミルのタクシー乗り場で別れた。

 私はひとり、さらに動く歩道を上り、一般用の出入り口から出た。するとそこは、車が乗り入れられる、吹き抜けの小さなロータリーになっていた。ロータリーの向かい側には、こじゃれたファストフードのスタンドが並んでいて、まるで、シンガポールの野外フードコートだ。 

 ターミナルにはお金をおろすところも両替するところもなかったので、そのまま外に出た。見上げないと階数が数えられない高層ビルが目につく。道路や信号が整備されていて、車の通行量も多い。通行人は誰しも身なりがこざっぱりしていて、歩きスマホしている者が珍しくない。大量に走っていた自転車の代わりに、音もなく後ろから電動バイクが歩道の後ろから忍び寄ってきて、気がついたときには至近距離にいた。飛び退きつつ、私は思った。
「あれ、これが中国? まさか」
 シンガポールのリー・クワンユーが戦後、中国の指導者になったり、共産党が内戦で負け蒋介石が中国の指導者になっていたりしたら、中国はいったいどうなったんだろう。というか、今いるのは、彼らが統治しているパラレルワールドなんじゃないのか。
 そんな荒唐無稽な考えが浮かぶほど、上海の街は様変わりしていた。


租界という観光地

 ターミナルを出た後、荷物を担いだまま、宿のある外灘方面へとしばらく歩いていった。ターミナルの中には両替所もATMも見当たらなかった。なのでお金を下ろすために、しばらく、右往左往したのだ。
 歩き始めて十数分後、二~三階建ての集合住宅が両側に続く路地に迷い込んだ。通りは一〇〇メートルほど続いていて、一方通行。路地を取り囲む住宅の二階や三階の窓からは路地と直角に物干し竿が伸びている。これは上海の一部が欧米や日本の租界だった一九世紀後半~二〇世紀前半に建てられた弄堂(ロンタン)または里弄(リーロン)と呼ばれる集合住宅だ。 

 まったく同じ路地かどうかは確認が取れないが、九一、九二年当時、この手の住宅を私は見た記憶がある。そのときは確か、タライで子どもに水浴びさせたり、おじいさんの髪を切っていたり、暑いので外で涼んでいたり。弄堂に住む人たちの明け透けな暮らしぶりが路地に垣間見えた。
 洋式で頑丈そうだが古くてごちゃごちゃしている、という住宅の特徴は当時と変わらない。違うのは今やほとんど誰もいないということだ。路上に停められているスクーターがあったり、洗濯物がかかっている物干し竿がいくつかあったりするが、生活臭はかなり薄い。あれだけたくさん集っていた人たちはいったいどこへ行ったのだろうか。

 そこからさらに一〇分ほど歩くと、向かって右側に二〇階建てほどのアール・デコ形式で建てられたかなり古びたビルと、同じく左側にはバロック形式で建てられた横長の六階建てのビルが道を隔てて隣り合っているのが見えた。
 ここで私は、ポケットWifiの電波を摑んでいるスマートフォンを取り出し、百度地図のアプリで現在地を確認してみた。すると、右側のビルは上海大廈、その道向かいはBund1846と表示された。Bund1846のうちBundとはバンドのこと。この建物の南側にある外灘(ワイタン、一九世紀後半~二〇世紀前半に港湾地区として大いに発展した黄浦江西側の共同租界)のことではないか。今いるこの場所は蘇州江の北側にあって、外灘の北隣に位置しているから、拡大解釈して「ここもバンドの一部」、「外灘の一部」だと言い切れなくもない。
 もしそうだとしても、1846のことがわからない。どういうことか。疑問に思った私は、スマホに表示されている百度地図の画面にタッチして詳細を確かめてみた。すると画面に「上海市 虹口区黄浦路衡山集团浦江饭店(上海大厦东)」と表示された。文字列の中に「浦江飯店」と記してあることに気がつき、私はあっと声を上げた。
 こここそがかつてバックパッカーのたまり場だった浦江飯店なのだ。 私はさっそく入口の前まで歩いた。確かに「浦江飯店」とあった。

 あれから四半世紀以上が経過した今、建物からバックパッカーが出てくる気配はない。部屋を確保すべく、ザックを背負ったまま急いでチェックインしようと中に入っていく輩もいない。それどころか入口には、ポールとヒモで入れないよう仕切ってあり、入らないように記された注意書きが行く手を遮るように、三脚つきのカンバスの上に置かれていた。
 青春の思い出を確認する作業ができず、残念に思えた。上海滞在中、できれば一泊ぐらいはしてみたかったが、それは無理な相談だった。
 しかしだ。入口に貼られた「优秀历史建筑」(優秀歴史建築)という銘板に気がつき、私に中に別の気持ちが芽生えたのだった。そして実際、調べてみると、「残念」という思いがいかに狭量であるのかということがわかってきた。
 『上海歴史ガイドマップ』(木之内誠・編著)によると、1846とは、浦江飯店の創業年であるらしい。

 イギリス人リチャード・アスターが1846年に創業した上海最初の本格的洋風ホテル。1860年に現在地に移る。現存建築は(中略)1910年に改修(中略)。当時はパレスホテル(現和平飯店南楼)とならぶ上海屈指の豪華ホテルだった。アインシュタイン(1922年、304号室)やチャップリン(1931年、1935年、304号室)もここに投宿する。日中戦争中は、北楼に日本陸軍の将校クラブ偕行社が開かれた。1959年、英国資本より接収(中略)。築後80年を経てさすがに老朽化はいなめず、外国人にドミトリー形式の安宿を提供することぐらいが特色の二流ホテルであったが、1990年12月、建物1、2階部分に上海証券交易所がオープンして40年ぶりに復活した株取引が時の話題を集める。(中略)。ホテルは2004年の大規模な改修を経て三つ星ランクに(以下略)。

 また『人民網日本語版』(二〇一八年一月四日)によると、ホテルは二〇一七年末まで営業したらしく、今後は博物館になるのだという。私が一九九一年に泊まったときは、長旅のベースキャンプのような感覚で使っていた。だが、そうしたバックパッカーのたまり場だった時代は、八〇年代後半~二〇〇〇年代初頭までのわずかな期間。このホテルが一番低迷していた時代だったのだ。もちろん淋しくはあるが、あるべき姿とは違う。ホテルの歴史を紐解いて、その感を強くした。
 さて、話を戻そう。
 上海大廈と浦江飯店が道を隔てて向かい合っている先、方角的には南側に、古びたトラス橋が見えた。これは中国で初めての鉄橋、外白渡橋(別名ガーデン・ブリッジ)。一九〇七年に作られたそうで、戦時中は日本軍の検問所が設けられていたという。
 長さ一〇五メートルの外白渡橋の歩道を南へ歩いて行く。その途中、橋の骨組みをバックに、花嫁と花婿がウェディングドレスとタキシード姿で野外撮影をしている様子が眼に入った。結婚写真のロケ地の定番なのか。何組ものカップルが橋の周辺にいた。 

 橋を越えると、外灘のエリアにさしかかった。ここからは黄浦江に面する中山东一路を歩いて行く。その右側前方には浦江飯店同様にレトロなビル群が立ち現れる。一九世紀後半~二〇世紀前半にかけて、この一帯は租界時代、行政・経済の中心部として機能した。今となっては古びているが、かつては西洋的な高層建築が立ち並んだ、当時としてはアジア随一の大都会だった。現在は銀行、ホテル、ブランドものの店などが固まる有名な観光地となっている。
 外白渡橋といい、外灘の中心部といい、考えてみればアヘン戦争に負けなければ、今日、存在しないことになる。かつては屈辱的な存在であっただろうに、百年前後、経過し、観光資源となっているというのは、皮肉なことといえるのか。それとも、儲けにつながるのなら何でも利用する、という中国人の実利的な一面がなせる技なのか。

 全長が一キロほどの中山东一路、その三分の二ほどを歩いたところで、福州路という通りへ右折した。前述の『上海歴史ガイドマップ』によると、そこはかつて上海の重要な部分が凝縮されたような場所だったらしい。
「上海開港以前からあった細道を、租界当局が整備して1864年に完成。南京路から数えて四番目の通りであることから四馬路〔スマロ〕と通称。南京路に次ぐにぎやかな通りとなる。河南路以東は、官庁、オフィス街。福建路までは書店、文具店の集まる文化街を形成。さらに西にむかうと、かつては茶館、劇場、妓楼などが軒を連ねる遊興の巷として名高い界隈となっていた」
 その通りの西側は歓楽街になっていて、その一帯には阿片窟が固まっていたというが、私が泊まっていた周辺は河南路以東なので、官庁、オフィス街だった場所にあるようだ。
 ターミナルから寄り道しながら、ここまで徒歩で三〇分あまり。ネットで予約していた安宿、船長青年酒店に辿り着いた。対峙したホテルの外観はいかにも古びている。それもそのはず。旧浦江飯店と同様、「优秀历史建筑」(優秀歴史建築)らしい。ここもやはり一九二〇年代の租界時代に建てられたものだという。 

 旧浦江飯店とは違うのはしっかりと商業利用されているということだ。一階の一部がファミリーマートになっていたり、五階が会社になっていたり、私が泊まる宿になっていたりした。ネット予約した証明となるようにプリントアウトした予約書をフロントで見せる。多人房(ドミトリー)は一泊七五元だから日本円で約一二〇〇円。九一年当時、浦江飯店の多人房は一泊三〇元ほどで当時のレートだと約七八〇円。物価は意外と上がっていない。
 カードキーをもらって、あてがわれた部屋の中に入る。中には二人の中国人と二、三人の西洋人がいた。クーラーの効いた部屋で各々が、昼間っから寝ころがったりスマホを眺めたりしていて話しかける雰囲気ではない。なので私は一休みした後、まともに話もせず、カメラとスマホとガイドブックだけを持って再び外出、道向かいにあるレストランで、遅い昼食をとってから、再び歩き始めた。

 福州路から一〇分ほど歩いたところにある南京東路も歴史が古くて興味深かった。『上海歴史ガイドブック』によると、「バンドに始まり競馬場へ向かう南京路を中心とした上海最大の商業地区。その裏通りには里弄の住宅が密集していたが、近年急激に旧住宅街区の取り壊しが進められ」た、とのことで、確かに通りには、そうした類の住宅はまったく見あたらない。メインストリートには、スイーツや飲み物のテイクアウトを扱う観光客向けの店が一階部分に並んでいて、歩道には歩くのも困難なほどの夥しい数の観光客が通りに繰り出していた。 

 かといって、古い建物がまったくないわけではない。それどころか、建物の二階以上を見ると、船長青年酒店の建物の外観と同じく窓枠や外壁がかなり古びている。おそらくこの通りの建物は、旧浦江飯店や船長青年酒店と同様、歴史的建造物として保護することが決まっているのだろう。だとすると、建物を後世に受け継ぐべく、壊さないよう慎重に建物の内部をリフォームしながら、街の開発を進めているはずだ。
 南京東路を歩いている途中、私はある食べ物に目が釘付けとなった。九一、九二年当時、私が愛飲したビン入りヨーグルトが復刻して売られていたのだ。老上海酸奶(旧上海のヨーグルト)という名前で、瓶の蓋には金色のカバーがかけられている。一瓶で一五元(二四〇円)と実に高い。これはもしかすると、当時の一〇倍はするかも知れない。しかし、私は懐かしくて、飛びついた。味は洗練されているが、そのままだ。ストローで十分に吸えるほどの柔らかさで、味は上品で甘すぎない。当時の味のままだ。私は懐かしさのあまり、売ってくれた二〇代半ばの男性店員に、持参していた翻訳機(ポケトーク)を使って伝えてみた。
「经过二六年的间隔,我喝了这种酸奶。 非常好吃。(私はこのヨーグルトを二六年ぶりに飲みました。美味しかった)」
 店員は黙って頷いてくれた。そのことが嬉しかった。


上海のテレビ塔の前で

 南京東路を歩いているうちに、モダンなビルに覆われた交差点に出た。南京东路站という名前の地下鉄駅の出入り口があったので、そこから地下鉄に乗った。この地下鉄自体、私が九二年に訪れたときは、まだ一本も走っていなかった。なのに二〇一八年の夏時点で一六路線、全三九三駅、総延長は約六四四キロにも及んでいるという。 


 切符はひと区間、三元(四八円)と安い。切符の形はテレフォンカードにそっくりだ。私は見よう見まねで、カード大の切符を日本でいうSUICAやICOCAのようにセンサー部分にかざして改札の中に入った。
 すると目の前にX線検査用の機械があらわれた。「鉄路保安」と記された腕章をつけた制服姿の係員が立っていて、機械に通すように促しているX線検査機が透視した結果を別の係員がモニターで見たり、金属探知機で一人一人、チェックをしたり、ペットボトルの水を検査したりしている。係員たちは忙しすぎるのか、適度に手を抜いている。ペットボトルを持ったまま検査を無視して、通り過ぎる輩がいるがとめることはない。
 エスカレーターで下に降りると島型のプラットフォームになっていた。ホームドアが設置されていてゴミひとつ落ちていなかった。もちろんタバコを吸う人はいない。
 まもなくやってきた列車に対して、乗客たちは我先にと乗り込むようなことはせず、ちゃんと降りる人を待ってから乗り込んでいる。しかし降りるときも同様に我先に降りたりはしない。乗客の平均は三〇代。世代が変わってしまったと言えばそれまでなのかもしれないが、「やはりここはパラレルワールドじゃないか」というぐらいに、マナーがいい。

 この日、私にはぜひ行ってみたい場所があった。それは九一年、そして九二年と私が対岸の外灘から遠望しただけで訪れることがなかった浦東地区だ。
 当時、訪れるチャンスはいくらでもあった。渡し船を使えば、簡単にいくことができたのだ。それにも拘わらず、結局訪れることはしなかった。というのも、「ガイドブックにすら載っていない、行っても仕方がない、存在価値のない空き地」と見なしていたからだ。
 実はこの年、浦東地区は「国家の重大発展と改革開放戦略の任務を受け持つ総合機能区」である国家級新区となり、大開発の端緒についていた。つまり空き地だからこそ価値があったのだ。浦東地区がマンハッタンのように急激な開発ができたのは、旧租界のように古い建物が残っているわけではなく、フリーハンドの都市計画が可能だったからなのだろう。
 にしてもだ。野っ原のような場所が、たった四半世紀の間に、マンハッタンさながらの、摩天楼に変貌するなんて、当時はまったく想像できなかった。

 地下鉄に乗っていたのは五分ほどだろうか。一駅目の陸家嘴(ルージャーズイ)駅で私は下車した。カード型の乗車券を改札の機械に挿入して外に出て、地上に上がる。
 すると、まるで絵に描いたようなメトロポリスが広がっていた。イタリア・フィレンツェの大聖堂のような丸いドームが乗ったビル、エンパイア・ステート・ビルの表面を棘だらけにしたようなビル、栓抜きのような形をしたビルなど。高層ビルはどれも個性的な形をしていて、まるで、空へ向かって個性を競っているかのようだ。
 目の前の道路も普通ではない。一方は地下へ、もう一方は一方通行ときれいに舗装された道路が複雑に行き交っている。その道路の脇には、緑が目に優しい街路樹が目についた。
 道路の進行方向の先には、東京タワーにゴルフボールを突き刺したような、ユニークな形のタワーがそびえ立っている。これは東方明珠電視塔(上海テレビタワー)。上海、いや中国の経済発展ぶりを世界に誇るランドマークとして、今や世界中に存在を知られている。公式サイトによると、一九九四年に竣工したとあるから、私が訪れた一九九二年当時、すでに施工中だったのだろう。しかし私は気がつかなかった。
 目の前にある幅の広い道を数分歩くと、エスカレーターが設置されている歩道橋が目についた。せっかくなのでと思い、乗って上がると、円形の歩道があらわれた。見下ろすと、そこは交差点ではなく、ずいふん大きなロータリーだということがわかった。そのロータリーを覆うように歩道橋自体が円形になっているのだ。
 その歩道を半周ほど歩くと、東方明珠電視塔の入口最寄りの下りエスカレーターの乗り口に辿り着いた。私はこのタワーにぜひ上ってみたいと思っていた。浦東地区という経済発展の象徴するエリア、中でも最も有名なこの建物に上ることで、上海の凄まじい発展ぶりを俯瞰してみたかった。
 エスカレーターで地上に降りると、タワーの根本部分に位置する切符売り場のブースへと歩いた。切符を購入しようかと思い、ブースへ近づいたところ、目の前の光景に私は思わず卒倒しそうになった。
 まずひとつはその入場料の値段である。一番上三五〇メートル地点の展望台へ上るための入場料が一八〇元と記されていたのだ。これは日本円に直すと二八八〇円。一九九〇年代前半の中国人の月収の半額ほどの金額にあたる。しかもこれは外国人料金ではない。入ろうとすると、人民もおしなべて同じ料金を支払う必要があるのだ。なのにその切符を求めてけっこうな列ができている。
 入場までいったいどれぐらいの時間がかかるのか。気になって、係の人に片言の中国語できいてみた。すると、「二時間待ち」だというではないか。
 九〇年代前半の月給の半分ほどの金額を支払い、二時間待ちでタワーに上る。
 中国人が豊かになったと言えばそれまでなのかもしれない。しかしその事実に思いが至った私は打ちのめされる思いがした。
 一方、別の思いも私にはあった。それは私が生まれた一九七〇年、大阪で開催された万国博覧会との比較から、思い至ったことだ。その年の日本人の平均年収は八七万一九〇〇円だったのに対し、入場料は八〇〇円。今の日本人の年収はその約五倍。とすると現在でいうと、約四〇〇〇円となる。それほどの高額な入場料にもかかわらず、半年の間に六〇〇〇万人以上の人が訪れた。当時の記録映像を見ると、社会が高度成長した後の達成感や、さらに便利になっていくんだという未来への希望が人々の表情や展示物から読み取れる。混んでいてパビリオンに入れないとしても、会場にいるだけで経済成長の高揚感を感じることができたのだろう。
 この東方明珠電視塔に上るために、高額な入場券を買い二時間待つ人たちも、同じ気持ちなのではないか。塔ができて二〇年建ってもなお、この塔は経済発展のシンボルと見なされ、人々の羨望を一身に受けている、ということではないか。北京オリンピック、上海万博、そしてこのタワー。入場のため、長時間待っている中国人たちは、日本から四〇年以上遅れて、経済成長の高揚感を味わっているのかもしれない。

二重・三重写しの光景

 リベンジを図るべく、スマホで検索した。「浦東 一番高い」というキーワードを入れて調べたところ、上海中心大厦(上海タワー)という名前が出てきた。携帯していた『地球の歩き方 中国編 17~18』には載っていない。それもそのはずだ。このビル、二〇一六年に完成して二〇一七年にやっと開業したばかりらしいのだ。一二七階建てで、高さは六三二メートル。世界で第二位、中国では最も高いビルなのだという。
 タワーから上海中心大厦へは歩道橋を伝って行った。円形の歩道からまっすぐ五〇〇メートルほどの歩行者専用路が続いていて、それぞれの超高層ビルへと直結しているのだ。
 歩いていたのは現地時間で午後四時半。照り返しのせいなのか、時間の割には、ずいぶん暑く感じる。日よけとなるガラスの屋根の上をなるべく通った。ちなみにその沿道には和洋中のレストランがあったり、高級服飾品が売られていたりと、お金を使わないと楽しめないようなお店ばかりが軒を連ねている。 


 見上げると左右ともに高層ビルだ。いったい高さはどのぐらいあるのだろう。高いビルが、すぐそばにあるので、距離感や大きさが次第にわからなくなる。似たような感覚は、新宿西口の高層ビル街にはじめて行ったときに感じている。上海浦東地区の高層ビル街は、新宿よりずっと、ビルひとつひとつが高いし、数も多い。というかあまりにスケールが大きすぎて、これぞコンクリートジャングルだな、とかいう陳腐な表現しか頭に思い浮かばない。
 二〇〇メートルほど歩くと左前方に広々とした緑地が見えてきた。スマホを使い、百度地図で確かめたところ、陸家嘴中央緑地という名前だった。一方、右前方には先ほど見たエンパイア・ステート・ビルの表面を棘だらけにしたようなビル、さらに奥には栓抜きのようなビルが見えてきた。手前のビルは金茂大廈。八八階建てで高さは四二〇・五メートル。一九九八年に完成したというから、かなり早く完成した方なのだろう。 


 奥のビルは上海环球金融中心(上海ワールド・フィナンシャル・センター)。こちらは一〇一階建てで高さ四九二メートルもある。日本の森ビルグループが二〇〇八年に完成させたビルで、別名、上海ヒルズと呼ばれているらしい。
 奥の上海ヒルズには少し惹かれた。しかしまずは、一番高いビルに行ってみよう。ということで、私は上海ヒルズには行かず、予定通り、上海中心大廈へ行くことにした。歩道を右へと曲がって金茂大廈の中へ入り、ショッピングモールを通って、エスカレーターを降りて、地上階から外に出た。
 この時点で時間は午後五時前。それでも暑さが厳しい。緑があっても、これだけ高いビルに囲まれていると、やはり照り返しがきついということなのだろうか。
 上海中心大厦は金茂大廈の隣にあった。隣だから歩いて一、二分かと思ったら、思いのほか遠い。入口につくまで歩いて五、六分かかった。ビルひとつひとつが大きいので、近く見えたのだ。このビルは、空高く、きりもみしながら、天へとまっすぐ伸びているかのような、独特の形をしている。これは天へと昇る龍をイメージして建てられたもの。デザインを手がけたゲンスラー社の担当者によると「中国のダイナミックな未来を表現している」のだという。
 建物に入ると、私が子どもだった一九七〇年代後半に流行ったスーパーカーが広々とした一階フロアに展示されているのが眼に入った。高級感の中に、あからさまな派手なバブリーさが今の中国の気分を表しているのかも知れない。
 一一八階の展望台行きのエレベーターに乗るために、チケットを購入する。金額はタワーと同じく一八〇元(二八八〇円)と高額だ。九〇年代初頭ならば、中国語を使いさえすれば人民料金で安い切符が買えたものだが、購入にはあいにく身分証明書の提示が必要だというからその手は使えない。というか、そもそも今や、以前のように外国人料金がなく一律同じ値段なのだ。チケットの高さに一瞬躊躇するも、これも体験だと自分に言い聞かせて、チケットを購入した。現金で払うと『100かいだてのいえ』という絵本に似た可愛らしいチケットが手渡された。
 直通エレベーターのある方向へ進んでいくと、先にはまたX線検査が待っていた。さらには金属探知機の検査もあった。それらをパスすると、この陸家嘴地区の歴史を紹介する展示や、世界各国の高層ビルの高さを一覧にした展示コーナーなどがあった。
 そうしたものをひととおり見た後に、ようやく直通のエレベーターへと辿り着くことができた。このビルの展望台は昨年のオープン以来、上海タワーに並んで、屈指の観光スポットになっているのか、日本の銀行のように並ぶためのレーンが設けられていて、一〇〇人ほどががすでに待っていた。そして後ろから次から次へと人がやってくる。彼らも東方明珠塔に並ぶ人たちと同じような感覚で並んでいるのだろう。ただしこちらはキャパシティが大きいのか、さほどは並ばなくて済む。
 一〇分ほど待っただろうか。三台あるエレベーターのうち一台に乗り込むことができた。このエレベーターは三菱製で定員は二一人。ボタンはB2、1、117、118、119と五つしかない。狭さを感じさせないようにするためか、中は鏡張りになっている。客が乗り込み、ぎゅうぎゅう詰めになったところで制服を着たエレベーターガールが扉を閉める。
 いったいどのぐらいで到着するのか、気になっていたので、私は腕時計のストップウォッチ機能を使って計ってみた。
 上がりはじめるとき、びゅーんと音がした。しかし、横揺れはほとんどない。急激に上がるために重力が体にかかるのではないかと思ったがそれもない。それこそ考えているヒマもないぐらいの速さで、一一八階に辿り着いた。到着まではなんと五五秒しかかかっていなかった。秒速だと一八メートル、時速六四・八キロにあたる。この記録はギネスブックに認定されているというから、なおのことすごい。日本の技術もまだ捨てたものじゃない。

 チンという音の後にエレベーターのドアが左右に開いた。外に出ると、すべての建物が眼下に見えた。二時間待ちで上れなかった東方明珠電視塔ははるか下にあったし、八八階建ての金茂大廈、一〇一建ての上海环球金融中心(上海ワールド・フィナンシャル・センター)も下にあった。ビルの海とでも言ったら良いのだろうか。その規模は新宿は遙かに凌駕している。
 たった四半世紀あまり前、これらのビルがほぼすべて存在せず一面の空き地だった。そのことを予備知識のない子どもたちに話しても全然信じてもらえないのじゃないか。そのように過去の歴史を吹っ飛ばしてしまうほどに、この高層ビル街は存在感があった。 

 三六〇度歩いてみると、周りはすべて無数のビルで覆われていた。それこそあちこちに大小のビルがポコポコと無数に建っていて、それは浦東地区だけに限らないことがよくわかった。ただその一方で二階建ての建物のような低いところがけっこうあった。黄浦江の向こう岸には外灘のレトロビル群や停泊する新鑑真号が確認できた。しかしそれらはあまりに小さくて、プラモデルのジオラマのようだった。
 上海という町自体が、アヘン戦争で負けて以降の一九世紀半ば以降、第二次大戦終結までの租界時代の建物から、毛沢東時代を挟んで、一九九二年以降の本格的発展の時代以降の建物……という各時代のレイヤーが、まるで多重露光された写真のように、ひとつの時代ひとつの街に同居していた。眼下に広がる上海のビルの海。これは中国がいかに経済発展しているか。それを視覚的に裏打ちさせる。一人当たりのGDPで言うとやはり日本の方がまだまだ全然多いのだろう。しかしこの経済発展の勢いと中国の持つスケールの大きさとが両立されながら発展しているという事実を眼科の光景から突きつけられたような気がして、私は圧倒された。
 夕方以後、外灘に戻ってきた。広くなった外灘沿いのプロムナードを歩く。すると、そこには浦東地区の摩天楼の夜景を見るために人だかりができていて、その数はざっと数千人はいるように見えた。凄まじい人だかり。しかし一方、かつて人々のまなざしを一心に集めていた外灘の風景には誰も目を向けず、背を向けていた。中国の人たちの目は、確実に未来へと注がれているのだ。


洪水とハンバーガー

 上海に到着した翌日私は、上海人何人かに話を聞いてみることにした。ぶっつけ本番の街頭インタビュー。なぜそんなことを考えたかというと、私にはどうしても聞いてみたいことがあったからだ。
 一九九一年九月初旬。私は旅の終わりに上海を訪れた。浴徳池という風呂屋へ行って垢すりをしてもらい疲れを癒やした。店外へ出たところ、折からの大雨。みるみる道路に水があふれ出し、帰りは膝まで浸かりながら歩いて宿まで帰った。あのとき私が体験したことは〝洪水〟だったのか。それとも水はけが悪いだけだったのか。そのことがずっと引っかかっていたのだ。
 Travelocoで発見し、案内をお願いしたやまださん(仮名)は、私と同世代のアラフィフ。一九九二年九月に上海に留学を開始、以来、断続的にこの街に住み続けているという方だ。事前にネットで調査内容を伝えてやりとりをした。彼の答えはだいたい次の通りだ。
「一九九一年九月初旬の時期、梅雨明けからすでに二ヶ月弱過ぎています。またその時期、台風も来ていませんね。私が住み始めてからのことで言うと、大雨が降り、市内の一部地域が膝までの水位になったことが九〇年代に何回かあり、公安局がボートで住民の避難を手伝う様子がテレビのニュースで流れていたのを覚えています。二〇〇〇年代に入ってからも冠水はありました。足首をゆうに超えてはいましたが、水位は膝までには至りませんでした」
 九一年の九月、私が膝まで浸かって上海の街を歩いたとき、雨脚は歩いて帰れるほどだった。日本の都市部であの程度の雨が降っても冠水はしない。同じことは二〇〇〇年代以降の上海がそうだ。大雨が降ってもかなり冠水しにくくなったそうなのだ。
 そうした状況から考えると、冠水しにくくなったのは、上海市内の下水インフラが整備されたからではないか。
 そうでなくても都市の景観は九〇年代前半に比べずいぶんと変わった。こうした都市インフラの整備と経済的な発展について、ずっとこの街で暮らしてきた、古株の上海人たちは、こうした発展ぶりについて、どのように捉えているのだろうか。
「上海人に話を聞くのは難しいですよ。当時に比べて”上海”の規模がとても大きくなり、上海市の人口は今や三〇〇〇万人近くいるとまで言われていますから。私が住み始めた九二年当時、一三〇〇万人都市と言われていたので、この二六年で二倍以上に増えています。増えた人口の多くは”外地人”と言われる上海以外の地方の中国人、そして外国人です」
 生粋の上海っ子には簡単に会えるものだと簡単に思っていたので、意外だった。では古くからの住民が住んでいる場所で訪ね歩くのはどうだろう。
「浦江飯店の周辺は開発され始めるのが遅かったんです。しかし、ここ数年でかなり変わりました。そのあたりかもう少し北の杨树浦路のあたりがいいでしょう。あの辺ならば、まだ少し古い建物も残っていると思います。私も当時のことを住民に聞くのが楽しみです」
 新鑑真号に乗り込む前に、やまださんとそこまで話をつけていた。そして上海滞在二日目、やまださんに案内してもらうことで話が付いていた。

 上海市内にある彼の家は、宿のある外灘から西へ二〇キロあまり。本来であれば車で約一時間。しかし途中で渋滞にはまったため、倍の二時間がかかり、午前一一時近くに宿のそばまでやってきてくれた。
「西牟田さん、お待たせしました」
 年齢はそう変わらなそうな、ポロシャツを着た頼りになりそうな方。それがやまださんだった。彼が乗ってきたのは紺色のセダン。トヨタ車だがこちら仕様の左ハンドル。九〇年代初頭は外国メーカーの車はなく、あっても合弁企業の車だったから、車の輸入がかなり自由化されたことがわかる。渋滞がひどいことも、裏返して言えば、それだけ中国が車社会になったということらしい。『21世紀の中国経済篇 国家資本主義の光と影』には、中国の自動車の普及について次の通り記されている。記されていることを次の通り、簡潔にまとめてみた。
 自動車の国内販売量はWTO加盟が実現した二〇〇一年は七〇万台だった。〇四年六月発表の「新自動車産業発展政策」により完成車の輸入関税を二五%に引き下げると、車体の金額が安くなり、〇五年には二七七万台にまで急増した。さらには、〇九年一月に発表された「自動車産業調整侵攻計画」によって、自動車の普及に拍車がかかる。そこに記された自動車市場の育成、道路補修費の見直し、自動車ローンの規範化、中古自動車市場の整備、農村部での自動車販売促進のための補助金支出といった施策が功を奏し、一〇年には九五八万台と激増した。新車の販売台数において中国は世界一となった。
 このように、中国が自転車社会から自動車社会へと生まれ変わったのは、二一世紀に入ってからの諸政策が実を結んだからだ。やまださんが渋滞に巻き込まれたのは、それだけ中国が車が増えたと言うことの副作用なのだ。

 彼とは打ち合わせを兼ねて、早く一緒に食事をとる。そこはリーズナブルだという、日本風精進料理店。日本だと一五〇〇円ほどしそうな、小鉢がいろいろとついた野菜だけで作ったヘルシーな定食だ。これが一人当たり四八元(七六八円)。前日の昼に食べた辛い豆腐料理とご飯は三六元(五七六円)、ファミリーマートで買った弁当は一三・八元(約二二〇円)。日本よりは割安だが確かに日本に比べるとリーズナブルだが、どうしても私は九〇年代初頭の中国と比較してしまい、高いなと思ってしまった。あのころに比べると三倍とか五倍はするだろうか。
 彼と食事をとりながら会話した。やまださんは私に、暮らしはじめた九〇年代初頭の頃の思い出について語ってくれた。
「このあたりはかつてフランスの租界があった付近です。当時、私はこの近くに住んでいました。地下鉄一号線が試運転をはじめたのは九四年。なので来たばかりの頃は歩いたり自転車に乗ったりして移動していました。高架道路もまだなくて、家の側では、高架道路の基礎工事をしていました。柱の杭を打つ、カーンカーンという音が九四年頃まで響いていた印象があります。九二年から九八年が一番、街が変わりましたね」
「私は知らなかったんですが、東方明珠電視塔はすでに施工を開始していたんですね」
「そうです。だけどあのころ塔を作っていたことは僕も気がつかなかった。夜にそっと渡し船で外灘から浦東へ行ったことはあったんですけどね。あの当時、訪れた浦東の印象? ”リアル北斗の拳の世界”ですかね。バス停に裸電球があるだけで、あとは見渡す限り真っ暗なんです。建物の残骸の様な物が近くなんでしょうけど、ぼんやりと見えるだけ。あとは何もありません。私は怖くなってすぐに引き返しました」
 そうした話を聞いて私は、浦東地区に何もなかったという記憶に間違いがなかったことを知ってほっとした。
「改めてお聞きするんですが、やまださん自身、洪水にあわれたことはあるんですか」
「僕自身、九〇年代に似たような経験を何度かしています。中でも記憶が鮮明なのは上海にマクドナルドが初めてできた九四年の夏です。当時はこの付近にある団地の六階に住んでいて、ちょうど、その日、彼女が僕の家に来ていました。彼女は楊浦区の弄堂出身の地元っ子です。そんな彼女に『ハンバーガー買ってきて』って言われて、ビックリしたんです。街をボートで移動するぐらいの雨。その様子をテレビで中継しているぐらいでしたから。僕が『冗談でしょ?』って言ったら、『ほんとよ。私のために買ってきて』って。
 私は覚悟を決めて、買いに行きました。普段なら歩いて五、六分のところなんですが、膝を水につけながら歩いてるので、なかなか進まないんです。街中には当然、車は一台も通っていないし、誰も歩いていません。結局、店に着くのに三〇分ぐらいかかったのかな。
 店は奇跡的にも開いていて、店員も、なんでこんな日に客が来るんだってことで、驚いていました。ハンバーガーを買った後、やはり三〇分かけて団地の六階まで戻りました。
 すると彼女、『何やってるの遅い』って怒るんです。普段、何を言われても受け入れてたんですが、さすがにこのときばかりは憤慨し、『こんな大雨の中、買いに行ったのに、遅いってそれはないだろ』って叱ったんです。すると彼女、しばらく黙り込んだ後、ハンバーガーを食べないまま、ゴミ箱に捨てて、家を飛び出して行ったんです」
 一時間ほど探すも見つからない。家に戻ってくると、彼女はやまださんの家の前まで先に戻ってきていた。彼女は泣いて謝った後、一緒に家に入り、ゴミ箱に捨ててあったハンバーガーを拾い出して、食べたという。やまださんにとって、上海の洪水は、そうしたほろ苦い思い出がこもっている。
「あのころは排水状態が悪かったですからね。街が冠水するのは珍しくなかったですよ。その後、二〇〇〇年代に入る頃、インフラは一気に整えられ、そうしたことはなくなっていきました。二〇〇〇年代のなかばに一回、冠水することがありましたけど、それ一回きりですね。
 排水のインフラ以外には、高架道路もそうですし、地下鉄もそうです。あと浦東地区の高層ビル街の開発もそうです。あらゆることがすごい勢いで改善されていきました。
 排ガス問題もそうです。西牟田さんが来られた九〇年代初頭は自転車がたくさん走っていましたよね。それがスクーターにとって変わっていくと大気汚染が問題となりました。さっそく、政府はスクーターなどの二サイクルのバイクの走行を禁止、続いて四サイクルのバイクも禁止しました。そして今は電動バイクのみが街中での走行を許されています。
 この国はトップダウンで物事を決められる。だから開発するにしろ、排ガス規制にしろ、やるとなれば即断即決なんですよ。日本や欧米のような民主主義の国ではこうはいかない。だから僕の考えでは、一党独裁が必ずしも悪いとは思っていないんです。もちろん、あの電動バイク、音もなく近づいてくるから、怖いですけどね」
「にしてもこんな変わるなんてビックリしました。物価もずいぶん高騰してるみたいですし」
「そうなんですよ。たとえば街中の汁のない麺が一元だったのが今じゃ、最低でも一〇元はします。マッサージは一〇元だったのが五〇元とかになってます。以前に比べると個人でやってる店がなくなりましたね。それに昔は、何が起こるかわからないおもしろさがありましたけど、今はいろいろ整いすぎて、便利は便利ですけど面白さって意味で言うと昔の方が面白かったかな。もちろん今の上海も好きなんですけどね」


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