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自爆テロ犯とみなされる[2018年/トルファン・ウルムチ編/中国の高度成長を旅する#32]

連絡先は渡せない トルファン

 翌朝、タクシーを使い、ウルムチ駅へ出向いた。

 駅に入るときとホールに入るとき、X線と顔認証、そしてパスポートのスキャンを求められた。

幾つものゲートを越える

 一〇ほどある切符の窓口には三、四人ずつ並んでいて、人数こそ少ないが隙あらば、番を狙おうとする。マナーのなっていない、服装やバッグがダサい、いかにも農民工といった人たちばかり。それでも、人数が少ないので一五分ぐらいで買うことができた。

 乗るのは一二時台の蘭州行きの便の切符だった。成都駅で待っていたのと同様にレーンごとに分かれた長いベンチに座って待つことになった。待っている列は続々と農民工らしき人たちばかり。ウイグル人らしき人はほとんどいない。せいぜい二〇人に一人ぐらいだろうか。しかも男性しかいない。

 ここウルムチまでは高速鉄道専用線路は通っていないらしく、高速鉄道といっても時速三〇〇キロ以下のD(和諧号)だ。やはり一五分前に改札が開き乗り込むことになった。車内に乗り込むと農民工ばかりで、ウイグル人はほとんど乗っていない。

 高層アパートがなくなると砂漠になる。その奥には冠雪した山脈が連なっている。砂漠と山脈の間には発電所の煙突が見える。そこを通過すると山脈が連なるようになり、その手前に凄まじい数の風力発電機が現れるようになった。

途中は砂漠というか荒野。一時間ほどでトルファン北駅に着いた。
 車両を降りると、日差しがやたら眩しいのを感じた。気温は一気に一〇℃ほど上がった。トルファンは標高が一番低いところでマイナス約一六〇メートルと東アジアでもかなり低い場所にある。ウルムチから来ると、標高一〇〇〇メートル近くも標高が下がる。空気は乾燥していてピーカンだ。まさに砂漠地帯の中にある駅という感じだ。

 ホームから地下の階段へと降りていく。そして人の波に続いて暗い通路を伝っていく。すると出口のところなのにまた身分証明書のスキャンの作業があった。ここには顔写真を撮るスキャン機もあった。私たちはパスポートなのでカード上の身分証明書は持っていない。

 自動ゲート横の鉄製の手動ゲートにいる若い漢民族の公安にパスポートを見せる。するとパスポートを持ったまま外へと出て行ってしまった。そこでまた数分待ったのだろうか。鉄の扉が開かれて「こっちに来なさい」と手招きされる。
 外に出ると日差しが非常に強かった目がくらみそうになる。それはともかく出てすぐ左には平屋建ての詰所があって何人かが詰めていた。ヘルメットに迷彩服姿でその他にはやはりウイグル人の警棒を持って立っている女性もいた。

 そのうちの一人である二〇代前半のややあどけなさが残っているウイグル人の男性警官がパスポートの写真が載っているページと私たちの顔をちらちらと見て確認した後に少し強がるようにして言った。
「お前ら記者じゃないだろうな」
「四川省の○○大学の学生です」
 私は聞かれることがなかった。聞かれたら聞かれたで出版関係以外の正当な勤務先を言うつもりだったが。
 ページをめくるだけで、どこかに連絡して判断を仰ぐこともなく、単にページを見ているだけだ。本人そのものは体格は普通だし、むしろ気が弱そうだ。だが権力を持ったことで、万能感を味わっているのだろうか。何だか偉そうだ。
「目的はなんだ」
「観光です」
 まだ私のパスポートを見て、そして嶋田くんのパスポートを見た。私たちを困らせたいのか、その動作をわざとなのか繰り返し、ゆっくりやっていた。それにこうした弱い人こそ権力と言う後ろ盾があると強がるものだ。だからこそ怖い。
 パスポートをチラチラ見た後にすぐには返してもらえなかった。宙ぶらりんな時間を経て結局三〇分ぐらいかかっただろうか。
「行って良いぞ」
 そう言われたとき、どっと疲れた。私は安堵しながらもまだ不安と恐怖の余韻を鎮めきれずにいた。正直なところすごくビビった。これは中国語が話せないととんでもないことになるんじゃないか。九〇年代初めのころのようにふらりとバックパッカーが行ってくる場所ではとっくになくなったということを思い知らされた。

 私たち二人は駅の入り口から向かって右側にあるバスの乗降場へと歩いた。ちょっとした乗り場になっていて、道の途中にバス停があるという感じではなかった。砂漠の中にあり夏などは耐え難い暑さになるからだろうか。レーンごとにちゃんと屋根があり椅子も備わっている。
 そこには見た感じ五〇代という感じの、ややいかつい感じの貫禄のあるウイグル人男性が声をかけてきた。「ニホンジン?」
 先ほどまでの厳しい尋問と落差がありすぎて、どう反応していいのかわからず、戸惑いながら無視してバスに乗り込んだ。すると、その男性はなんとバスに乗り込んでくるではないか。
「あなたたちどこ行くの? ホワイトキャメル? もしそうだったらこれじゃないよ。このバスだったら降りてから一五分ぐらい歩くよ。二二番のバスだったらすぐだよ。もう切符買っちゃったの?」
 スラスラと日本語が出てくる。私はそのマシンガンのような日本語を聞いて懐かしく思った。
 九〇年代初期、中国の大都市にはウイグル人がたくさん住んでいるエリアがあって、そうした場所に行けば外国人紙幣と高いレートで交換してくれたのだ。そうした場所は少し危険な雰囲気があって治安があまり良さそうではなかったが、彼らとやり取りをすることに過ぎるを感じた日の醍醐味を味わったような気分になったのだ。また九一年にトルファンに来たとき、街を歩いているだけで日本語で声をかけられ観光に行かないかと言われたものだ。しかし夏に沿岸部の大都市や雲南省に行ってもウイグル人はまったく見なかったのだ。
 すっかり日本人観光客が減ってしまった後もこうやって日本語を話しかけてくる観光客目当ての人がいることに嬉しくなった。
 当時は当時で鬱陶しがっていたのだから現金なものだが。一方で嶋田君は彼を警戒していた。
「歩くんで大丈夫です」と日本語で言って話を終わらせようとしたのだ。
 するとその男性は諦めずに話を続けた。
「私はねトルファンの安岡力也って呼ばれてるの。八九年からこの仕事やってるよ」
 これを聞いて私は日本語を喋れるというだけで、三〇年にもわたって生活ができるほど日本人がこの場所に来ていたんだなということを少し感慨深く思った。嬉しくなって私は二七年前の写真を見せた。それはトルファンの街中で撮ったロバに荷車を引かせその上に乗っているウイグル人の写真や地下水路カレーズの写真。すると〝力也〟さんは途端に寂しそうな顔をして言った。
「昔の方が良かったね」と。その言葉と表情に嘘はなさそうだった。
「明日からあなたたちツアーでしょ。私は朝八時半にホテルに行くから」
 こちらは別に頼んでもいないのにそうやって半ばゴリ押しのような感じで言ってきた。
 私は彼の昔の方が良かったという言葉に引っかかった。ツアーそのものはどうでも良くて、なぜ昔の方がよかったのかという言葉の裏にあるもの是非聞いてみたいと思った。

 トルファン北駅から街の中心部までは一五キロだった。九〇年代初期は本当に小さな町で三〇分もあれば周り尽くせるような感じだった。それこそ数キロ車を飛ばせばもう砂漠のど真ん中といった感じだったのだ。

 ところが今回、バスがひとたび市街地へ向かうと様子が変わっていた。駅前広場のところから幹線道路に入るまでの間に、習近平主席とウイグルの子供たちが一緒に写っているプロパガンダ的な写真があった。は雲南同様のお約束だ。幹線道路に入るとずっと舗装がされていて片側二車線ほどの道の両側には干しぶどうの工場や自動車の修理工場、ホテルなど、高くても三四階建てと言う背の低い建物がだらだらと並んでいた。ウルムチのように漢民族が押し寄せて高層アパートがぎっしり沿道を埋めるという感じではなくてその点は少しほっとした。
 そんなときだ。嶋田君が言った。
「西牟田さん、ちょっとあれ見てくださいよ」

2018年11月時点の写真

こちらは百度地図のストリートビュー

画面中央がその施設(吐鲁番市职业中学の斜め上)

 それは進行方向左手にある四階建ての殺風景なビルだった。窓に鉄格子がはまっていて、最上階の側面には出入りする人間に向けて監視カメラがついている。手前の門柱には何も書いていない。奥には二階建てほどの建物があり赤い文字でスローガンが書いてある。
「~斯党話 ○党走」

 私がここに来る直前、日本に住んでいるウイグル人に言われていた。
「小学校のような建物に鉄格子がはまっている」という条件にぴったり合うのだ。しかしこんな幹線道路から見える、一般人が確認することのできる路線バスが通っている道路にわざわざこんなものを作るだろうか。私は首をかしげた。それとも全ウイグル人の約一〇人に一人あたる約一〇〇万人もの人数を収容しようとするのならば、こうしたところにも作っていなければ場所が足らないということなのだろう。これは本当に一〇〇万人収容してるのかも知れない。

(太い線は繁華街)

 そんなことを考えてるうちにバスはだんだんと市街地に近づいてきた。ガソリンスタンドはテロ抑止策なのだろう、直径一〇センチほどの鉄パイプのバリケードで入り口が塞がれている。また一ブロックごとに交番のような治安維持施設が配置されているのを見るようになった。それこそ数十メートルおきだ。以前のようなロバ車はまったくいない。もちろん羊や牛の放牧もまったくない。その代わりちょっとしたショッピングビルがあったり、ホテルがあったりと開発され発展されている様子が目に飛び込んできた。

 バス停を降りて歩いて行く。一ブロックごとに便民警務所と呼ばれる「交番」があった。そこには突撃銃や棒を持った警官があちこちに立っている。以前、街の中心にはほとんどウイグル人しかいなかったのだが、漢民族が増えていて、ぱっと見半々ぐらいみかける。横断歩道があり信号、そこここには防犯カメラが設置され、街中を見張っていた。

 ダヴィンチのような長い髭を生やした老人はいないし頭にスカーフを折った女性もいない。目鼻立ちのはっきりしたウイグル人はいるがみんな髭はないのだ。それに服装もみんな洋服だ。顔つき以外は漢民族とまったく区別がつかなくなった。
 九一年当時のトルファンは、NHKでやっていたシルクロード特集や大ヒット曲『異邦人』のイメージそのものといった小さな町だった。しかし二七年たった二〇一八年、その壮大なはるか遠くの桃源郷のようなイメージというのは、きれいさっぱりなくなってしまった。桃源郷、つまりユートピアともいえる風景は、ハイテク化されたディストピアと化していた、というと言い過ぎだろうか。

 二〇分ほど歩くと、九一年に泊まった吐魯番賓館の前にたどり着いた。とはいっても入り口は電動ゲートで閉じられていて入るには横の検問所を通る必要があった。X線検査機に荷物を通して中に入る。入口のおじさんは取り締まるという気は全然なさそうで、まあ形だけ検査という感じで見ていない感じだった。吐魯番賓館は私が泊まった後に建てられたようで、見覚えがなかった。その建物を抜けて奥へ一〇〇メートルほど歩いたどん詰まり。そこに予約していたホワイトキャメルゲストハウスがあった。

踊りが行われた舞台

踊り子さんたちはどこへ

この建物は見覚えがある。これが吐魯番賓館では?

どん詰まりにホワイトキャメルがあった。

私たちは一旦、部屋に荷物を置いて、一休みした後、吐魯番賓館まで取って返した。

 吐魯番賓館のフロントには五〇代という感じのややふくよかで知的なウイグル女性がいた。嶋田君が切り出してくれた。
「ここにいる彼は一九九一年以来二七年ぶりにこのホテルに来ました」
「そのとき私はまだ働いてませんでした。当時のトルファン賓館の建物は奥にある二階建ての開元賓館です。当時はその建物の一階がドミトリーで、クラスが上の高い部屋は奥の離れの部屋でした。当時は日本人のお客さんが一番多かった。それこそ半分以上いたようです」

「野外ステージでウイグル人女性の舞踊が振る舞われてましたが、今もやってるんですか」
「今やってませんね。いつ止めたのかわかりません。九三年銀行の建物ができてドミトリーはこの建物の地下に移動しました。しかしそのうちそこは職員の宿舎になりました。日本のお客さん今も夏場は来ますね」
「これは当時の写真なんですよ」と私が言って二〇枚ほどの写真の束を渡した。すると彼女は途端に食い入るように見たのだった。
 ちょうど踊り子の写真を見たときに聞いた。
「踊り子の人たちがどこにいったかそれは分からないわね」


 ちょうどそのときフロントのところにやってきた男性がいた。歯は一六〇センチ少しとウイグル人にしては小柄な人で、目鼻立ちはぱっちりしているが、寸足らずなので顔つきはミニラのようだった。彼は五〇代ぐらいだろうか。フロントの女性の写真を見終わったそばから受け取って食い入るように見た。九〇年代初期のころと比べて現在、彼らはどのように写っているのだろうか。ただ、そうしたことをこちらから誘導するかのように聞くのは、なんだか憚られた。しかしその真剣な表情からはずいぶんと漢民族化されたこの街に対して、何らかの強い思いを持っているようではあった。
 ホテルのロビーを出ると先ほどのミニラ顔の男性が声をかけてきた。
「私の車で行かないか。あちこちに連れて行ってやるぜ。アイディン湖までは二〇〇元、他も行くなら三〇〇元」
「街中のバザールにまず行きたい」
 私がそう言うと、彼は元々泣きそうなミニラ顔をさらに悲しそうな表情にして言った。
「今はもうないんだよ」
 それは今にも泣きそうな表情だった。
「君の持っていた写真の場所すべて分かるし連れて行けるよ」
 私はその言葉を聞いて彼とともに漢民族化される前のトルファンめぐりをできるんじゃないかと思い、話に乗ることにした。
「ヘビースモーカーなんだけど許してくれるか」
 弁解するようにそう言った。
 嶋田君はそれを聞いて「この人色抱えてるんでしょうね」と言った。漢民族による同化政策には胸の張り裂けそうな思いを持ち、しかしそれを人には言えないことで生じる強いストレスをタバコでごまかしているのだと。

2018年時点

1991年時点のモスク。バリケードはないし、スローガンが貼り付けられてもいない。

 まず出かけたのはモスクだった。
 一見何も変わらないようだったが写真と比較して細部が変わっていた。例えばミナレットの先端の月の部分はすべて取り除かれているし、アラビア文字で書かれたコーランの一節の部分は黒い布で覆われていた。その代わり、中国共産党の掲げている「中国夢」のスローガンが建物入り口の四つほどのくぼみのところを埋め尽くすように書かれているし、モスクの入り口は有刺鉄線のついたバリケードで覆われていて入れないようになっていた。
「私も最近は入れないんだ」
 ミニラ顔の男性はまた泣きそうな顔になった。
 モスクの横には日干しレンガで作った昔ながらの集落が残っていた。その一帯は重要保護施設と書いてあって、共産党の判断によってここは残されることが決まっているようだった。

昔はにぎやかだった


 羊を売り買いしている路上市場はあるにはあったが空き地になっていた。
「ここ見覚えあるだろうだけど、今はやってないんだよ」
「羊や牛の町への立ち入りは今は法で禁止されてます。ロバ車もしだいに減っていった」

 その後はひたすら郊外へ行った。アイディン湖へ行く道すがらは土くれの家家が残っていてひたすら貧しかった。子供たちは歩き回って遊んでいた。
 一時間ほどで湖のあるところに到着したが水はまったく何もなかった。標高はマイナス一〇〇メートル以下でほとんど平地だ。手前には武装したヘルメットをかぶった警備兵のいる切符売り場があった。「日本語話さないで」と言われる。そこからは何もない田んぼのあぜ道のような道をずっと行く。そのうちぼた山のような土の土饅頭のようなものがあって、それを避けながら言ったのだが、途中で行けなくなってしまった。


「この辺りが湖の底だったんだよ」と言って彼は車を降りた。
 道路から二メートルほど下のところに降りると、確かに生えている草が海藻のようなものがあった。
 その後、高昌故城を見てから元のホテルまで戻った。そして握手をした。私は彼と連絡先を交換しようかどうか迷っていた。すると嶋田君は言った。
「我々と接触しているということは彼の立場を悪くするかもしれないでやめときましょう」
 寂しい気持ちになったが仕方がなかった。

見え透いた嘘 トルファン

 午後九時前、吐魯番賓館入り口近くに〝力也〟さんは待っていた。マイクロバスが停まっていて、その助手席に彼がいたのだ。
「あなたたちツアーに行きますか。ベゼクリク、火焔山、カレーズ、蘇公塔、交河故城~」
「半日だけって言いましたよ」
「じゃあこの車に乗って。半日一日三〇〇元でどう」
 そう言って帰ろうとする。
「どうしますか」と嶋田君に迫られてたじろいだ。だけどなんとなく車に乗った。
 乗った後に「〝力也〟さんがいないなら行かない」とようやく勇気を出して言うことができた。
 すると彼は困った様子だったが少し興奮した様子で「わかった私仕事色々あるけど行くよ」と言ってついてきてくれた。
 ずいぶん高い半日ツアーになったが彼の本心を聞くことがやっとこれでできる、と安堵した。
 マイクロバスにお客は私と嶋田君だけ。助手席に座った〝力也〟さんに私は、移動している中、世間話を装って質問を繰り出した。
――昔来てからずいぶん変わったんですね。
「……」
――昔、ヤギとか羊とか街にいたのにいませんね。
「二年前までいたね」
――ロバ車も走ってないですね。
「二年前までね」
――なんで警察こんなに増えたんですか
「酔っ払いが多いからだよ」
 明らかに見え透いた嘘ついている。話が噛み合わない。昔はよかったという言葉は昨日聞いて期待したら彼はタヌキだった。私は一瞬腹立たしい思いがこみ上げてきたが、こうでも言わなければ警察にしょっぴかれ、取り調べを受けるのかもしれない。そう考えれば仕方がないと思った。これも現地で生きていく処世術なのだ。
※ロバ車は数年前まであったらしくネットで二〇一四年の旅行記を見ると確かにいた。羊やロバもそうだ。その点、〝力也〟さんの言ってることはそんなに間違ってはいない。次第に減っていき、二年前に陳全国に区長がかわってから完全になくなったってことのようだ。

 ものの一〇分ほどで世界遺産、交河故城に到着した。彼は「一時間半後にまた来ます」という。放射冷却の影響なのか大変寒い。〇℃ぐらいだろうか。そんな中、まったくフロントガラスも何もない電瓶車で入り口まで数キロ移動した。
 脳がキーンと冷え切って思考が停止しまうような寒さだった。電瓶車がついたところは、古びたお土産がいっぱい置いてあるお土産屋。確か前回はお土産屋の少女とその母親と片言の言葉で話をしたり一緒に写真を撮ったりしたのだが、見終わってくるころには誰か来るだろうか。

 九一年当時、交河故城は発掘してその直後の王国の街並みが現れたという感じ。見ているだけで太古のロマンのようなものを感じた。だがかつての王国の歴史を想像させるような、今にも朽ち果てそうな脆さ、それと引き換えの想像を喚起するような雰囲気があった。


 だが今やよく見ると日干しレンガか何かで作った土を固めただけの建物の跡の上にコーティング剤のようなものが塗られていた。また数十メートルか一〇〇メートルおきに街灯を支えているのと同じような柱が立っていて、そこから防犯カメラが点々とある。またアナウンス用のスピーカーがイミテーションの土塊のような形で所々に設置してあって見事に整備がされていた。

土の上にぬってある

これはもう共産党お墨付きの古代をテーマにしたテーマパークだ。一見すると歴史的な雰囲気があるが、今やもう似ても似つかなかった。こんなことになるんだったら世界遺産にならなければよかったんじゃないか。これはもう、漢民族の金儲けのためのツールでしかない。

 結局お土産屋と再会することなく、一時間二〇分ぐらいで外に出た。駐車場にはコマを回して遊んでいる八歳から一〇歳ぐらいの男の子たちがいた。コマをムチのようなもので、ひっぱたいて連続させて回していく。一〇メートルぐらい離れて見ていると気配に気がついたのか、だんだんと離れていく。コマの動きに合わせて動いているだけなのかと思って、ゆっくり近づいていくとまた離れていった。

 あからさまな拒否反応というのはないのだけども、近づきたくないというのはよくわかる。九一年であれば、外国人を見るやいなや逆に近づいてきて「写真を撮れ」とか僕の持っている荷物を見て「それはなんだ」とか色々うるさかったりした。非常に友好的で好奇心むき出して面白かった。だがその後、漢民族の同化政策が子供たちのこうした態度に影響しているのだと思った。親たちが理不尽に差別される様子を見て、子供たちも警戒しているのだろう。寂しいことだ。

 その次にカレーズにやってきた。これは砂漠の中にあるトルファンという土地の命綱ともいえる地下水路。この水路があったから過酷な気候のトルファンでも農業が可能となり、人びとの生活が成り立ったのだ。以前は無料で行けたし、その地下水路の中、子どもたちと涼んだり、ブドウをくれたりと交流したのだ。


 しかし今は建物の前に立派なモスクのような建物が立っていて一人当たり四〇元の入場料が必要だった。入り口で切符を渡してX線検査をして入っていく物々しさ。水の流れている上にはフタがあり、あとライティングがあったり、水を汲んでいる人形が展示されていたりして、単なる観光地と化していた。そんな様子だからもちろん子どもたちを見かけることがなかった。

 〝力也〟さんとはこれでおしまい。吐魯番賓館まで送ってもらってお別れした。別れ際に「連絡先をくださいよ」と言うと少し厳しい顔になって「今は厳しいからダメね。私はいつも吐魯番賓館にいるから」と断られた。

自爆テロ犯と見なされる トルファン~ウルムチ

 荷物を持ってトルファンのバスターミナルへ移動した。ここからウルムチへと戻るつもりだった。バス乗り場は、外のゲートのところに防寒用の厚手のカーテンがあり、そこを抜けると顔認証のスキャンとX線の検査があった。パスポートをかざしてスキャンするとパスポートの画面が現れた。改めてここで私の顔とパスポートの画面が写っている顔が照合された。


 そしてバスターミナルの建物に入るところでまた顔認証とX線の検査があった。ホールの中は人で埋まっているのかと思ったらほとんど誰もいなかった。ウルムチ行きのバスは約二時間後の午後一時四〇分発だと言う。二〇一五年には二〇分おきに出ていたという旅行者情報を持っていたがずいぶんと便が減ってしまったらしい。

 まだ二時間ほどもあった。なので乗合タクシーで行くことにした。その場合もやはりバスと同様の切符を窓口で買うことになった。
 建物の大きさは、それこそ奥行きが一〇メートルもない、まるで田舎の小さな駅という感じ。体育館の半分ぐらいの大きさだ。その建物から出るときに、またパスポートと顔認証の組み合わせという検査。バスターミナルに入るところから実に三回も厳重な検査を行われたことになる。
 外に出ると逆らしい客は誰もいなかった。右手には乗用車が一〇台ほど停まっていて、左手にはワンボックスは大型バスが停まっている。ウルムチ行きと行き先を記してある車を探してみた。ところが乗れそうな車は何もないし運転手もいない。一九九一年は乗り込めず、窓から乗り込もうとした。ところが今やウイグル人に対する移動制限が徹底してるからか、閑散としていた。

「二、三年前までは、ウイグル族の若い人を成都の街中でけっこう見かけたんですけど、今はほとんど見かけないんです。それはこういうことだったんですね。ウイグル族への移動制限と成都の状況と関連性をハッキリ自覚しましたよ」と嶋田くんは言った。


 バスターミナルの乗り場方面に現れるのは一〇分に一人ぐらいしかいない。これはテロ防止のためにウイグル人の移動を極端に制限しているということなのだろうか。気の弱そうなの三〇代のウイグル人男性ドライバーが運転手。彼が車を解錠してから乗り込むもなかなか揃わない。結局一時間半ほど待っただろうか。ウイグル人の運転手が運転する普通の乗用車にようやく四人が揃った。私と嶋田君以外の二人は六〇代の痩せた男性とウイグル族か漢民族かわからないぽっちゃりした三〇代の女性。赤いマニキュアを塗っている。女性は彼氏を伴ってやってきた。そして別れ際に少し抱き合った。
 車は古いサンタナだった。この車は私が九〇年で初めに行ってきたときフォルクスワーゲン社と現地の中国の車会社が合弁企業を作り、そこから出ていた車で当時、沿岸地方でたくさん走っていた車だ。かつて沿岸部でタクシーか何かの目的で使われた車を払い下げて使っているのだろうかもしれない。


 運転手はガソリンスタンドを探して給油してからウルムチに行こうとした。ところが次々と断られた。ウイグル人だということで通行(営業?)許可証があっても、車を突っ込んでの自爆テロを警戒しているのだろうか。入り口の直径一〇センチにも及ぶ鉄のバリケードで覆われた入口の所に立っている警備員にダメダメと言われて門前払いが続いた。運転手がウイグル人だということで、ガソリンスタンドは車を使った自爆テロを警戒しているのかもしれない。

 ETCか何かで通過し、高速道路に入ったところにある、三軒目のガソリンスタンドで給油をようやく認められる。そこではまず我々乗客が全員降り、警備員か警察からIDチェックを受け、バリケードがガガガと開いて中に入り、そして閉められ給油をしている間、我々は手持ち無沙汰で待ってその後ようやく出口側のバリケードがまたガガガと開いて、そこを抜けたサンタナにようやく乗りこめた。そういうめんどくさい手段を踏んだ。こんなバリケードにガソリンスタンドを覆わないといけないほどこの町は無法地帯つまりリアル北斗の拳の世界なのだろうか。どうみてもそうは思えず過剰に緊張を煽っているだけのような気がしてならない。つまりは極度のテロへの警戒と大一統による同化を当たり前とする価値観が合わさることで、ウイグル人を結果的にはひどい目に遭わせているということらしい。
 その後、大渋滞した。というのも長さ二〇メートルぐらいのロケットのような形をした鉄の部品の運ぶトレーラーが二台連なっていて、あまりにも大きいので二車線使ってノロノロと走り続けていたのだ。しかも追い抜きを防ぐためにワンボックス車が左右の原因にハザードをつけながらゆっくりゆっくり走っていて、追い抜こうとすると前に立ちふさがって邪魔をする。
「いやー混むねえ。これ軍事関係だよね」
「そうです。この一帯は蘭州管区で軍事施設がたくさんあるんです。その関係のものでしょう」と嶋田君は言う。
 私たちは暇だったこともあって、これまで見てきたウイグル人へのひどい人権侵害の話などをした。
「バスじゃなくて乗り合いタクシーしかいないのってウイグル人へかけられた移動制限の影響だろうね」
「でしょうね。街中も監視カメラだらけでしたし、みんな萎縮して生きてましたよね。お祈りはできないし、収容所では豚を食わされてるっていう話ですしね」
「来る前に読んだけど、ウルムチよりもカシュガルの方がひどいという話みたいよ」
「なるほど。もっとひどい人権侵害が行われてるんですね」

 途中のカーブでトレーラーが立ち往生した。とそこに後ろから回転灯を付けピーポーピーポーと音を鳴らしながら救急車が突っ込んでいく。さすがにこれは軍の車とはいえ先に通した。結局一時間ぐらいして二代の隊列が崩れたその隙に通り抜けることができた。

 結局、ウルムチに着いたのは午後五時だった。南駅バスターミナル。夕方には嶋田くんの飛行機の出発があるので急いでいたのだけども完全に乗り遅れた。というか彼は途中で諦めて、違う便に変更するのかと思ったら「ニシムタさん私カシュガルに行きます」といきなり宣言をしたのだ。これにはびっくりした。車中の暇な時間会話もせずずっとスマートフォンをいじっているから何をしているのかと思ったら、カシュガル行きの便を探し出して、予約してしまっていた。
「明後日の便が安いんですよ」
 あっけにとられた。私が驚いていることに気がついたのか、嶋田君は言った。
「ウルムチよりもひどい人権侵害が行われてるカシュガルの現状を見てみたいと思って。せっかくウルムチまで来てるんですからね」
 後ろ髪を引かれる思いがした。しかし今回はやめておくことにした。九一~九二年に私はカシュガルまで足を延ばさなかったからだ。しかし後になって、嶋田君の報告を聞いて、行っておくべきだったかもと、後悔することになる。

ウルムチ暴動の現場を歩く ウルムチ

 私はその日一人だけで漢民族エリアである繁華街の中国版東横インのウルムチ店に泊まるつもりでいた。そこに彼も一緒にチェックインすることにした。南駅バスターミナルからは漢民族地区までタクシーで行った。運転手は六〇代。彼は見たところ漢民族だ。
「一七年前に来週から引っ越してきました。三年前まではテロや犯罪が横行していました。だけども政府がテロリストや犯罪者を取り締まってくれたおかげで、今ではすっかり安全になりました」とそのように言って安心した表情を見せた。私は少し愕然とした。というのも同化政策や漢民族の相次ぐ移住によってコミュニティを乗っ取るような形をしておいて我慢しろということの方がよっぽど理不尽だ。
 同胞が殴り殺されたことへの抗議をデモという平和的な手段で訴えただけで、天安門事件さながらのやり方で鎮圧してしまったのだ。さらには言葉を奪い、片っ端から収容しているのだ。捕まらないにしても、ビクビクしたり心を痛めたりしながらも身を潜めて生きているのだ。もちろんおじさんにはなんの罪もない。しかし彼の物言いには、そうだろうなと諦めの気持ちを抱きつつも、違和感を覚えた。
 漢民族とウイグル族は驚くほど交流がないというからそうしたデモの類といったものも含めこのおじさんはもしかするとイメージだけでものを言っているのかもしれないが。


 泊まったのはウルムチの漢民族エリアのホテル。錦江インとかいう東横インみたいな経済的ホテル。フロントでは無料で飲み物が飲めた。シングルで予約していたが、ツインに変更して欲しいと言った。するとすぐに変更してくれた。ツインで約三〇〇〇円。このスムーズで無駄のないスピード感溢れるサービスというのは小気味良かった。おとといにウルムチに到着して以降、この宿に泊まるまでの間、緊張しネットが繋がらず不便を強いられていた。そんな空間から抜け出したことですごくほっとした。しかし同時にそれだけにウイグル人の置かれている理不尽で緊張を強いられる生活というものに思い当たり、胸が痛くなった。

 一時間半ほど宿でゆったりして、その後午後七時ごろに、ウルムチ在住の日本人に会うことにした。その人ともネットでコンタクトを取って会う約束をしていたのだ。住んでみて見えてくるくる夢中などういうものなのか知りたかったのだ。
「ヘッドハンティングされてこちらの金属会社で勤務しています。同僚は漢民族が大半で少数民族はわずかです。言葉の問題もあるんでしょうね。ちなみに私は単身赴任です。妻も子供もウルムチには一度も来てません」
 無精髭で長髪の小柄なバックパッカーぽい人が松藤さん(仮名)だった。年齢は四〇過ぎ。遭ってすぐに意気投合した。
「私がよく通りかかる通りの道すがらに刑務所があります。そこはここ数年見るからに面会者が増えました。列を作って待っていて老若男女色々です。女子刑務所は左の隣にあって入り口が建物の裏側にあるので見えませんけど、やはり面会は多いんでしょう」
 これはウイグル人の弾圧の証拠なのだろうか。何か事件を起こした受刑者が入る刑務所と、ウイグル人を教化する再教育キャンプは別物のはずだ。関係があるのかどうかはよくわからない。
「ウルムチは民族問わず誰にとってもセキュリティの厳しい場所です。あるとき出発まで三時間かかったこともあります。荷物検査や人の検査。一人一人厳重になるので飛行機が必然的に遅れてしまうんです。ウルムチから出国するとき写真を全部消去されたこともあります。万事厳しいせいでしょうか。人口はこのところ減ってきてます。不思議な発展の仕方をしていて、不動産の価格は下がりません。急騰から緩やかな伸びへ変わったんです。こんなところ誰が買うのかっていうマンションもあちこちに立っているんですけど気がつけば売れてます。
 一〇年前に来たころは羊や牛の群れがたくさんいて町にもそういうのを見たことがあります。西牟田さんの持っている写真ほどじゃないですけどね。三年前にバザールにトラックが突っ込んだりする、小さなことが度々ありました。しかし今はまったくなくなりました」

 彼にはウイグル人街と漢民族の街の境目にある人民路に連れて行ってもらった。宿のある錦江インのあたりは新宿東口か銀座のようなビルが建つ繁華街が続いていて、今や立派な都会という感じ。それこそ中国各地の大都市ならどこにでもあるような都会の繁華街だ。しかし宿からほどなく、南にある地区の境に行き、横断歩道を渡る。すると不自然に道の広い寂れた団地の続く通りになった。

「このあたりはウルムチの暴動の現場だった一帯です。当時は電話もメールも何ヶ月もの間、不通になりました。三年前まではこの辺りに屋台が並んでいて車も通れないぐらいに賑わっていました。だけど今は屋台がすべて撤去され今は人もまばらです。当時はウイグル人のみがこの辺りにたくさん来ていて、集って賑わっていました」

 この辺りはボロい集合住宅がたくさん続いて五階建てくらいの。道の途中に鉄柵のゲートがあって顔を映すカメラがある。ここで顔認証してブラックリストに載ってさえいなければ通ることができる。文字通り顔パスなのだ。顔によって認証するのでもちろん一人ずつしか通れない。そこを抜けると食堂街があった。祝日でもないのに、中国国旗を掲げている店が多かった。その様子はまるで、ピストルを突きつけられて手を挙げている人のようだ。このようにして国家への忠誠心を示すことでようやく商売ができているということらしい。

 食堂街を抜けるとモスクの前に出た。そこは鉄柵で覆われ、中には五星紅旗が掲揚されていた。入口にはX線検査機と顔認証用のカメラが備えられ、そこには警察が二四時間体制で厳重な警備をしていた。私は自分の方に向けられている防犯カメラの存在に気がついた。



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