幕间休息(インターミッション)[中国の高度成長を旅する#11]

恩人に会いたい

 二六年ぶりに中国を辿る旅をしようとしたとき、私が何と言っても会いたいと思った人がいる。それは、はじめて中国に上陸したとき、すごくお世話になった留学生の李小平さん(仮名)だ。
 右も左もわからない私とAを彼は、天津港から北京まで連れて行ってくれただけでなく、ホテルの値引き交渉をしてくれたり、夕食に招待してくれたりしたのだ。あのとき彼がいてくれたことでどんなに心強かったか。その恩を私はずっと忘れずに来たし、可能なら再会して、謝意を伝えたいとずっと思ってきた。
 加えて私には職業柄、別の興味もあった。それは四半世紀たって李さんがどう変わったのか、その出世ぶりを知りたかったということだ。
 彼は両親がともにエリートという恵まれた家柄。そのことだけでも、コネ社会である中国で生きて行くのに大変有利だ。それに彼自身、面倒見が良く、人柄がいいという印象がある。しかも李さん、中国の高度成長期を二〇~四〇代という最も活発な時期に過ごしているのだ。
 何か大きなトラブルや社会的な変化がなければ、おそらく大成功しているはず。今ごろ、私の想像が遠く及ばないぐらいの、華麗な生活を送っているに違いない。そんな彼の成功ぶりを再会し、見てみることで、現象ではなく、個人史としての中国の経済成長を知りたかった。

 この書籍の企画が出版社で採用され、刊行が決まったのを受け、私がまずやったのは、資料の発掘であった。中国を旅行したときの写真や手紙の類を突っ込んである衣装ケース。それらを1Kの住居兼仕事場の押し入れから引っ張り出してみた。二〇一八年七月はじめのことだ。
 李さんからもらった住所が記されたメモ書きや一緒に撮った写真をサルベージするべく、私は過去資料を洗った。六畳と四畳半の住居兼仕事場に保管している衣装ケースを開けて中を確認していったのだ。どこにあるか当たりをつけていたので、写真と書類、それぞれ二箱ずつ見れば、希望する情報に辿り着くだろう。そのように気安く考えていた。しかし、私の希望とは裏腹に、探しても探しても、これだという情報が見つからない。結局は十数箱すべての衣装ケースを見ることになった。
 二日間かかって探したのだが、収穫がゼロだったわけではない。二七年前、PC8801MAを使ってワープロ書きした原稿用紙一〇〇枚ほどの旅行記とそのときの旅を写したL板プリントやそのネガが出てきたのだ。
 旅行記を読むとそこには李さんの本名と彼のだいたいの住所、親の職業という情報が掲載されていた。写真が残っていれば話が早いのだが、プリントは見つからない。九一年の中国旅行のネガを蛍光灯に当てて、透かしてみたが李さんはどこにも写っていない。実際、一緒に撮った記憶もない。撮っていれば、手紙に同封して送っているはずだし、その返事も来たはずだ。

 私が持っていなくても一緒に旅に出たAなら写真や住所を持っているかも知れない。そう思い、私はAに電話をして確かめてみた。彼とはもはや年賀状をやりとりするだけの仲になってしまったが、友人としての縁は今も保っていた。
「もしもし西牟田やけど、久しぶり。オレらが九一年に中国を旅行したとき、船で良くしてもらった李さん覚えてる?」
「もちろん覚えてるで。それで彼がどないしたん」
「久々に中国に行って彼に会えたらええなと思って。電話したのは、李さんの住所とか写真とか持ってないかなと思って」
「悪いけど持ってないわ。写真、一緒に撮ってないんと違うかな」
「わかった。ありがとう」
 約一四億人もの人口をかかえる中国なのだ。写真も住所もないのに、特定の人物を探し出すことは、海底に落ちたコインを探し出すよりも難しいことなのではないか。

 世界が九一年当時のまま、テクノロジーが進化していないのならここで諦めたかも知れない。
 しかし今や中国はアメリカがその技術に一目を置くほどのIT大国。アメリカや日本同様、あらゆることが検索できるし、中国の各地のストリートビューをみることもできる。SNSによって各人が自由に意見を発信し、同窓会や会社、趣味などのコミュニティによって交流をしているという。現在の中国のIT技術を使えば彼を見つけ出せるのではないか。
 まずは中国のSNSのアプリをスマートフォンにインストールし、さっそく登録した。それは中国版LINEである微信(ウィーチャット)と中国版ツイッターの微博(ウェイボー)である。ちなみにGoogle検索は百度(バイドゥ)、Google MAPやストリートビューは百度地図という風に、中国国内では独自のクローンサービスが定着している。
 というのも二〇〇〇年代の後半、中国は金盾(ジンドゥン)と呼ばれるネット検閲システムを導入した。そのシステムは政府や共産党に不都合な情報を遮断するというもの。それを機に世界的に普及しているGoogleなどのサービスを追い出してしまったのだ。
 話を、ネット上での李さん捜索に戻そう。
 中国は日本と違って漢字は簡略字が基本。だから彼の名前も、当てはまる簡略字を探し出し、スマートフォンのアプリから検索をかけた。しかし匿名が基本なので思うようにヒットはしない。雑誌や書籍で中国人が自由闊達にいろいろ発言しているといっても、それは匿名でのことなのだ。
 では実名制のSNSはどうか。世界のビジネスパーソンが登録しているLINDKINや中国版のFACEBOOKである人人网(レンレン)のウェブサイトにPCからアクセスし、簡略字やアルファベットで検索してみた。すると同姓同名がずらっと並んだ。一人一人DMを送るには多すぎる。これは無理だ。
 では次に中国版Googleである百度はどうだろうか。私はPCから百度にアクセスし、彼の住所と親の職業、そして彼の名前を打ち込み、検索をかけてみた。また、ご両親が勤めていた組織のウェブサイトにPCからアクセスし、職員名簿を確認してみた。
 結果はと言うと後者は該当者はなし。前者の検索結果はというと、こちらは期待が持てそうだった。北京市の海淀区に本社を某会社のサイトがヒットしたのだ。
「******公司」
 その董事长として李さんの名前があった。董事长とはその集団の最も重要な地位を持ち、実権を持っている人のことだ。会社の規模は「登録資本金:○百万元」とある。海外を相手にする某専門機器の専門代理店なのだという。社員の数はごく少ないが、業務内容や資本金からすると、少数精鋭なのだろう。
「李さん、日本で大学を卒業した後、日中の架け橋になっているうちに起業し、今は成功をおさめつつ段階なのかな」
「******公司」のウェブサイト、その公司概要(会社概要)を液晶ディスプレイで確認しながら、私は李さんがその後たどった人生を思い浮かべ、夜な夜な一人で興奮した。
 その勢いで私は李さん宛のメールを作成した。日本語で記し終わった後、Google翻訳を使い、中国語へと変換し、会社のメールアドレス宛で送信した。文面は左記の通りだ。
李先生
 突然のメッセージで済みません。私は日本人の西牟田靖と申します。年齢は四八歳です。
 私は一九九一年八月に神戸から天津へと船で旅をしました。天津港に着くと私は同じぐらいの年齢の中国の若者にすごく親切にされました。
 天津港に到着すると、李さんの両親が名前の入ったプラカードを持って待っておられました。私は李さんやその両親とともに北京へ移動しました。李さんには、その日ホテルを予約してもらったり、夕食に招待してもらったりしました。ちなみに彼の両親は二人とも○○という同じ職業で当時、××という組織の集合団地にお住まいでした。もしかするとあなたはあのときお会いした李さんではないでしょうか?  西牟田靖 拝

奇妙なフォントの日本語

 日曜の夕方のことだ。離れて暮らす娘に会いに行った帰り、スマートフォンがぶるっと震えるのを感じ取った。メールボックスを確認すると、そこにはスパムかと思しき、変わったフォントのメールが届いていた。そうしたメールはウイルスに感染している可能性がある。なのでいつもなら、読まずに消去する。だがそのメールのタイトルは見慣れない、奇妙なフォントの日本語で記されていた。もしかしてと思い、私は消すのを思い留まって、メッセージを開いてみた。するとそれはフォントこそ奇妙だが、きちんとした日本語で書かれた文面だった。
「西牟田様
 突然のメール、すみません! メール内容を拝見しました。小生日本留学時代の事を一致しております。若し間違いなければ、そのメールアドレスにご連絡をお願い申し上げます。誠に勝手の申し入れで御座いますが、是非ご確認をお願い申し上げます」
 東海道線で湘南から東京に向かっている途中だった。しかし、私は人目はばからず感情を顔に出した。プルプル目尻を震わせ、目に涙を溜めたのだ。画面が涙でぼやけた。お礼をしたいという長年抱いていたモヤモヤとした気持ちが晴れていくのを感じた。
 電車から降り、その日の夜、別件の用事を済ませて帰宅した深夜に、私は李さんに返事を書いた。もう中国語である必要はない。私は日本語でメールを作成すると、翻訳サイトを通さず、そのまま送信した。
「本当に李さんだったのですね。その際は大変お世話になりました。私はあれ以来、あなたのことを時折思い出していたんです。ありがとうございました。もうすぐ私は北京を訪れるのですが、可能ならばお会いできませんか?」
 するとその日のうちに返事が来た。
「私は仕事の関係で中国と日本の間を行き来しています。今週の後半、東京へ行くのですが、お会いしましょうか? 日本での住所と携帯の電話番号はこちらです。090~********」
 二七年間忘れないでいた人がいきなり夢の中から実世界に飛び出してきたかのように私は錯覚した。嬉しさを感じるというより、あっけにとられ、茫然としてしまった。
 私はすぐに返事を送った。
「えっ東京ですか。驚きました。北京か東京、いずれにしろ近々お目にかかりたいです。私は今、日本で作家をしています。これは私が今までに書いた書籍の一覧です。中には中国で読めないテーマの作品もあるかも知れません」
 Amazon日本サイトの私のプロフィールページのリンクを添付してメールを送った。私が「中国では読めないかも」と含みを持たせたのは、私が政治的・歴史的なテーマを一つの柱として活動するライターだからだ。二〇〇七年には飛行機をチャーターして、二〇一二年には漁船によるツアーに同行して、尖閣諸島にアクセスしている。日本側、そして香港側とそれぞれの主張を聞いたり、島の地主関係者に当たったりとかなり突っ込んだ取材をする一方、歴史関係をいろいろ調べたりして、それを記事や書籍という形で発表してきた。
 尖閣諸島を中国国内で語ることは中国ではタブーに類するという話だ。中国のITをテーマにする本には、天安門や釣魚群島(尖閣諸島のこと)といった言葉を記すとメールは遮断されると記してあった。尖閣は日本での呼称ではあるが、日本の呼称もNGワードとして登録されているかもしれない。だから念のため、「読めないかも」とぼかして書いたのだ。
 その時点で私は楽観視していた。すぐに会えると思い込んでいた。どうせ中国へ行くのだから、前回同様、お宅にお邪魔して、成功した中国人である李さんの生活を垣間見たい。そんな風に思っていた。

 李さんからはすぐにメールが届くと思っていた。しかしその後、数日にわたってメールが途絶えた。尖閣をテーマにしたライターだと知って、付き合うべきでないと判断したのだろうか。もし私に会えば、親日派としてのレッテルを貼られ、それまでの成功が水の泡となってしまっておかしくない。なぜそう思ったかというと、過去にそういった苛烈な出来事がこの国の歴史では起こっているからだ。
 例えば一九六〇年半ばから一〇年間にわたって続いた文化大革命の時代がそれにあたる。知識人はいわれのないレッテルを貼られ迫害を受けた。地方に追いやられたり、労働改造所に収容されて犬のような生活を強いられたり、または「黒幣分子○○○」と記された紙を画板に貼ったプラカードを首からつるされて大衆の前で糾弾されたり。苦汁をなめ、命を落とした者の数は四〇〇〇万人以上に及ぶ。
 そうした文革時代の黒歴史が頭に思い浮かんだ。すごく迷惑をかけてしまったかも知れないと思い当たり、喜びから一転、どっと落ち込んだ。

 ところがだ。二日後、つまり最初の返事が来て五日後の金曜の夕方、再び、文字化けしたようなヘッダーのメールが届いた。それを見て、喜びと安堵と驚きが混じった感情が湧いた。
「明日会いましょう」と日本語で書いてあったのだ。もちろん嬉しかったが、同時に疑問が頭をもたげた。なぜ今頃になってメールが届いたのだろうかと。私は狐につままれたような気分になった。ただ、このチャンスを逃したら一生会えないかも知れないとも私は思った。またメールが滞るかもしれないからだ。
 しかも次の日である日曜は予定が空いていた。
「もちろんうかがいます」
 そう書いて、携帯電話の番号を記して送った。はやる気持ちと焦る気持ちが同居していた。

ニアミスしていたかも知れない

 約束の午前一〇時。新宿アルタ前には一〇人ほどがいたが、該当する人物はいなかった。教えられた電話番号に電話しようと、通話専用に使っているガラケーをカバンから取り出したところ、ブルブルと震え始めた。慌てて確認すると、かけてきたのは登録していない番号からだった。
「李さんに違いない」
 確信した私は電話に出る。
「もしもし、西牟田です」
「西牟田さん、おはようございます。李です。今、新宿三丁目にいて少し遅れます。電車が遅れてるんですよ」
 積極的で元気そうな喋り方の男性の声が聞こえてきた。友達と久々に待ち合わせしてやり取りをしているような、友好的な話し方だ。アクセントが微妙に日本人ぽくないが、流暢ではある。このレベルだと日常生活にはまったく問題ない。
「わかりました。お待ちしてます」
 そう言ってすぐに電話を切った。声を聞けば彼と会ったときのことを思い出すかと思ったが、まったくピンとこない。彼がどんな声だったか、全然覚えていないことに私は気がついた。だけど、嬉しいことには変わりなかった。
 一〇分ぐらい立ってから赤いポロシャツにスラックス姿の彼が現れた。背が一七〇センチ前半ぐらいどっぷりとした中年太りのお腹、目は細くまん丸とした鼻とほおがアンパンマンのように三つ並んでいて、表情は穏やかで、自信に満ちている。髪は短いが整髪料で整えられ、腕には数珠が巻かれている。成金というイメージはなく、ビジネス相手として信用ができそうな感じだ。声を聞いたときと同じく、やはり私は彼の顔を覚えていなかった。なのに何故か、再会したんだという確信はあった。会った瞬間、彼に親近感を覚えた。
 彼の方も私を覚えていないようであった。顔を見て思い出したのならば、「久しぶり」とか言って、感情をあらわにするはずだからだ。こんなとき一緒に撮った当時の写真が一枚でもあれば心理的な距離をぐっとつめられたはずだ。だけど私たちはそれができなかった。
 とはいえ、彼の方も私に対して、親近感を持ってくれているようで、彼の態度はすごく親しげだった。これはもともとの彼の人柄なのか。それとも以前会ったときの思い出が表層的には失われていても、奥の奥にある古い記憶が、「旧知の仲」だと脳に認識させるのだろうか。
「その辺の喫茶店にでも行きましょう」
 李さんはそう切り出した。彼の言いっぷりはいかにもこの辺りは自分の庭という感じ。私たちは開いている喫茶店を探し、結局は、歌舞伎町にある、たまたま開店中の喫茶店へと適当に入った。
「禁煙席ですか喫煙席ですか」と店の人はいう。
「私は吸うけどどっちでもいいよ」
「じゃあ喫煙席で」
 そう言ってまだ誰もいない二階の喫煙席に行き、二人ともコーヒー付きのケーキセットを注文した。ウエイトレスが注文をとってから、階段を降りていく。
 すると開口一番、李さんは興奮しながら言った。
「いやー私のことよく見つけましたね。どうやって見つけたの?」
「当時書いた日記にフルネームとご両親の職業と自宅のだいたいの位置が書いてあったんです。それで李さんのフルネームと海淀区という地名を入れて百度で検索したら、会社のサイトがヒットしたんですよ。この会社は、ご両親が住んでいた場所に近いし、ご両親の職業と会社の業務内容にかなり共通性がある。だったら李さんがこの会社の社長をしててもおかしくないなって」
「こうやって探し出してくれて感無量です。これはもう感動のストーリー。小説にすべきだよ。私も本を読むのが大好きで日本では仲間と一緒によく神保町に行くんです。今の仕事リタイアしたら本を書きたいと思ってる。それで西牟田さん、今度、北京に来るんだって?」
「そうです。李さんに会ったときの一九九一年か、翌九二年の中国の旅の行程をそのままたどって本にしようって思っています」
「それはもったいないよ。一冊に終わらせず、地域ごとに分けてやるべきですよ。そうすると人々の思いがしっかり書けるでしょ」
 李さんは上機嫌な様子で持論を話してくれた。機嫌良く話してくれる様子を見るのは私もまんざらでもなかった。
 そのうち話は別の話題へと移った。
「最初メールが来たとき、中国語の文面がすごく上手だから中国語がちゃんとできる人なんだと思ったんです。どうやって書いたの? もしかすると中国語読み書きできるの?」
「残念ながらできません。種明かしをするとGoogle翻訳です」
「えー、今の技術はすごいね。ビックリしたよ」
「李さん本人が着信に気がついたんですか?」
「いや、気がついたのは同僚。『李さん宛に変わったてメールが来てるよ』って言うからね。見せてもらった。文面読んでみたら確かに条件が合ってるからね。もしかしたらと思って返事したんだよ」
「私の名前にピンと来たんですか」
「はっきりとは覚えてないね。ただなんとなくそういうことがあったような気がしたんだよ」
「二七年間の隔たりがあったわけですけど、今までどんな道のりを歩んでこられたんですか?」
「これまでの半生? 関西の大学を卒業して一旦、日本の会社に就職したよ。だけどもう少し学びたいって思って大学院を目指した。そのころは神戸の近くに住んで勉強しながらバイトをしていたね。その時期だよ。大震災が起こったのは。すぐに私はボランティアに登録して活動を始めました。だって困っている人があちこちにいるんだからね」
「それは素晴らしいことをされましたね。私も実はその頃、神戸でボランティアしてたんですよ」
「ホント? すぐ近くにいて気がつかなかったのかもね」
「可能性はありますよね。で、その後は?」
「トータルで今まで十数年日本にいるよ。日本の大手電機メーカーの中国法人で働いたこともあります。にしても地震は怖いね。あんなのが来たらもうどうしようもない」
「ところで名刺に記されている会社。これ私がメールを送った会社と違いますね」
「あ、これはね、友達に一緒にやらないかって言われて名前を貸しているの」
「そうだったんですね。それで日本にはよく来るんですか」
「はい。普段は毎月のように日本へ来て仕事してます」
 かすかな記憶をたどると、二七年前、彼は正直で愛に溢れる面倒見のいい、お兄さんだった、という印象だけが残っている。阪神大震災のときのボランティアの話を聞くと、その印象が間違ってなかったことに気がついた。まさに、彼らしいな、と思った。会わない間も李さんは、同じように人の面倒をみたり、頼られたりしながら、これまで生きてきたのだ。そして現在は風格が加わって 頼りがいのあるスケールの大きな人物になっていた。
 九一年当時、初めての中国で不安の極地にあった私たちは李さんに助けられっぱなしだった。まさに彼の包容力に甘えっぱなしだったのだ。会社の名前を貸していることの意味を正確に理解することはできない。しかし、その友人は、あのときの私同様、李さんに助けられている。そのことは間違いなかった。

思い出の欠片

「これを見たら、当時のこと思い出しますかね」
 そう言って私はあるものをとりだした。それは二日かけて探し出した、九一年当時に記したワープロ書きの日記のコピーだった。
「こんな細かく書いてたんですね。さすが作家だ」
 感心しながら彼は読み進めていく。時折、懐かしさからか、目を潤ませているように見えた。
「ここに昭和三〇年代みたいとか書いてますね。確かに中国はすごく変わったからね。日本はずっとそのままだけど」
「ほんと中国の発展ぶりはすごいですよね。ほんと感心してるし、当時を知ってるだけに感慨深いですよ。日本はGDPを抜かれちゃいましたよね」
「いやそれでも日本はまだ経済的に強いよ。アベノミクスのおかげで景気が良い。だからどんどん企業が儲かってるんだよ」
「庶民感覚では景気の良さは感じないけど、企業が儲かっているという話、ホントなんですね。それで九一年の旅の話ですけど、あのとき二人で行ってたんですよ。これが私と一緒に行ったAの写真です」
「うーん。覚えてないな」
「あのとき確か神戸から天津港まで行ったんですよ」
「それはもちろん覚えてる。燕京号だね。乗ったのはいつでしたっけ。夏に乗ったのは覚えてるけどね。九一年? そのころは確か日本語学校を卒業して大学に入っていたころ。ホントはね、国立に入りたかったんですけど気がついたら申し込みの時期が終わってて、慌てて私立に入ったの。両親のように理系ではなくて文系の学部でした」
「あの船に乗ったとき、大学三年でした。初めての中国だったのでビックリしました。船内で意気投合したって書いてありますけど、李さんと何を話したのかはっきり覚えてないんですよ。ただすごく頼りがいのある人だなと。心細くて李さんになんとなくついていくと、ご両親がプラカードをもってましたよね。それで一緒に鉄道に乗って北京まで行った。街灯がオレンジ色ですごく暗かったことや人がすごく多かったことを覚えてますよ。さらに心細くなってたところを、『大丈夫だよ』と励ましてくれて、どんなにほっとしたことか。本当にあのときはありがとうございました」
 すると李さんは途端に苦笑した。
「でもねー、覚えてないんだよ」
「そうなんですか。二七年もたっちゃってますからね。それで、その後、ご自宅に移動して夕食を振る舞ってくれましたよね。ご両親にもあのときのお礼を申し上げたいです」
「父はすでに亡くなっています。母はまだ健在ですが施設で暮らしています」
「そうだったんですね。お母様に宜しくお伝え下さい」
「ええ」
「それであのときの話に戻りますが、翌日、安いホテルに私たちが移動するときもついてきてくれたりしましたよね。僑園飯店に。でも、なぜあのとき、私たちが部屋に荷物を置きに行ったタイミングで、フロントからいなくなったんですか?」
「いやー、それも覚えていないね」
 私は軽く徒労感を覚えた。人の記憶の移ろいやすさというものに。

 途中で場所を「餃子の王将」に移した。大金持ちならば、高級店をえらぶはずだ。なのに李さんは実に庶民的な選択をした。彼がどの程度の財産を持っているのかはわからない。この選択から憶測できるのは、李さんがお金儲けよりも大事している価値観の持ち主だということだ。
 打ち解けてきたのを感じた私は、李さんに気になっていたことを切り出した。それは中国の言論の自由と、日中関係についてだった。
「毎日メールが来てたのに二日間突然ぱったりとまりましたよね。あれ何でですか?」
「いやいや。ほんとにねメールが来なかったのよ。私が日本に来てるのに知ってるのに何で西牟田さんからのメールが来ないのかなって不思議に思ってました。きたのは二日後の夕方でした」
 私は自分が思い違いしていたことに気がついた。彼は私を警戒したのではなく、なぜだかわからないがメールそのものがストップしていたのだ。もしかすると金盾のせいで遮断されたのかも知れない。だとするとアメリカのサービスであるAmazonが良くなかったのだろうか。しかし中国でもAmazonはサービスを提供中だ。
 すると当局は元々私のことを要注意人物としてリストに入れ、泳がせていたということなのだろうか。それで一旦、遮断して私の素性を洗ったのかもしれない。
 でもだとすれなぜメールは遮断されたままにならず、二日後に届いたのだろうか。金盾は機能しても、最後は人の手によってチェックはされるはずだ。それとも単に当局の人間がテキトーだったというオチなのだろうか。まるで真相がわからない。中国は厳しいのか、それとも適当なのか、ホントつかみどころがない。
 ともかく私は、李さんの話を聞き、彼に迷惑がかからないように立ち回るべきだと肝に銘じた。用心するに越したことはない。
「当局はたぶん私のリンクの内容を見てますよね。私自身、政治的な主張は何もないけど、やっぱり尖閣諸島に二回も行ってるってことで、要注意人物としてマークされてるのかな」
 すると彼は私を諭すように言った。
「日本とアメリカ。日本は戦争中ひどい目に遭っているけどひどいこともしている。アメリカはひどいことをしているのに謝っていない。だけども仲がいいでしょう。日本と中国もそうです。過去の問題はあるけどそれは乗り越えられますよ。そうしたことで争っているのは子供の喧嘩のようなものです」
 彼の言葉を私は噛みしめた。だけども、それを遮るように、自戒を込めて私は言った。
「やっぱりこの出会いは日本と中国の切っても切れない関係を表してると思うんですよ。これからも縁を繋いでいきたいので、やりとりはすごく慎重にやろうと思ってます。メールはやっぱり見られてるんでしょう。それを前提におつき合いさせていただきます。迷惑をかけないようにします」
 そのように私は誠意を込めて言った。すると先ほどとは一転、彼は顔をしかめた。
「そうだね。それは確かに可能性がゼロではない」
 そのように、ゆっくりと小さな声で話した。

 食べ終わって店を出る。先ほどは私が払ったが、今度は彼が払ってくれた。
 店を出ると目の前は歌舞伎町の広場だった。私は提案した。
「一緒に写真撮らないですか」
「いいですよ。じゃあそこのライオンの像のとこで。ライオン像にもたれかかってる人にカメラを渡して、撮ってもらいましょう」
 たまたまその場所にいたネパール人らしき人に、李さんは声をかけ、私のコンパクトカメラを手渡した。
 そしてネパール人男性に写真を二枚撮ってもらった後、お礼を言ってカメラを返してもらった。二人で写真を確認しながら私は言った。
「取り扱いには気をつけます」
「勝手にネットなんか載せないでよ(笑)」
「それはもちろん。私は要注意人物ですから(笑)。じゃあ私はこちらから帰ります」
「……。さよなら。じゃあね」
「来日と時期がかぶらないように調整しましょう。では、今度北京で」
 私と彼は人混みのできている広場をそれぞれ反対方向へと歩いて行った。五メートルほど離れたところで、私は手を振った。すると李さんは微笑んで振り返してくれた。
 名残惜しかった私は一〇メートルほど離れたところで立ち止まり、また手を振った。するとまた気がついてくれ、ニッコリしながら手を振り返してくれた。
 余韻の残る再会だった。会ってよかったと思った。だが一方で、今後も彼と縁をつないでいけるのだろうか。急に途切れたりしないのだろうか。温かい気持ちとともにそういう不安が頭を離れなかった。

その後の人探し

 二七年ぶりの邂逅、その翌日、私は李さんにメールを書いて送った。
「前略 日曜日はおつき合いありがとうございました。私の仕事の内容はかなり多岐にわたっているので、少し驚かせてしまいました。すみません。ぜひ時間を合わせて、北京でお目にかかりたいです。今度はお酒を交えて、会いましょう。日本行きの日程がわかったら教えてもらえますか。それをずらして出発しますので」と。

 李さんにアプローチをかけ始めた七月半ば、本格的な旅の準備に入っていた。李さんの住所や写真を二日かけて探したとき、もちろんほかの資料も探していた。住所やメモ、旅行記、写真をできるだけ多く発掘しようとしたし、連絡をとろうとメールを出したり消息を探したりしていた。
 九一、九二年当時会った現地の方のうち、重要な手がかりが見つかったのは三組だけだった。
 成都~昆明間の鉄道で一緒に過ごした羅怡さんたち三人組。西安から酒泉への火車の硬臥でご一緒した李小勇さんと二人の娘。景洪の版納賓館に滞在中、CITSの受付をしていた周素琴さんである。
 それぞれの捜索状況を記してみよう。
 まず最初に成都の羅怡さんたちだ。彼らに関しては、名前と学校名、だいたいの年齢のほか、彼ら一人一人と一緒に撮ったツーショット写真があった。メモによると彼らは当時、成都市第三二中学の生徒で、当時二〇歳ぐらい。
 学校の同窓会名簿を探るか、ネットにある同窓会サイトを当たるしかなさそうで捜索にはかなり手間がかかりそうだ。もし判明したとして、都合が合わず会えないという不運もありうる。
 そうしたことは避けたい、ということで、私は世界中に住む現地在住日本人と旅行者を結びつけるTravelocoというお見合いサイトの旅行版といったサービスを利用した。そのサイトに登録している成都在住の日本人を対象に、次のような質問文を投稿した。
「人探しをしています。一九九二年八月に成都~昆明間の硬座で二六時間一緒に過ごした中国人を探しています。成都市第三二中の三人組です。どのようにしたら見つけられるでしょうか」
 するとすぐ何人かから返事があった。「SNSの同窓会コミュで探してみては」というものが多かった。
 ひとつだけ「えっ」と思ったのが、「『僕の見た大日本帝国』の著者の西牟田さんですよね。協力させてください」というものであった。つまり私の読者だった。彼の名は嶋田浩之(仮名)。成都市内の大学で観光学を学ぶ大学院生だという。
 読者ならば話が早い。事前取材のほか、現地取材もお願いしてみようということで、お願いしてみたらすんなりと話がまとまった。私は嶋田君に「成都市第三二中へ行って名簿を見せてもらったりして、探してほしい」とお願いした。また同窓会ブログでの書き込みもお願いすることにした。
 西安から酒泉への火車の硬臥でご一緒した李小勇さんと二人の娘は名前と住所、写真があった。彼らとは一緒に撮った写真が残っていたし、住所もあった。というのも九一年当時、私が写真を送ったところ、返事があったのだ。そんな李さんは当時、すでに四〇代。酒泉の精糖会社の主任だったはず。会社のサイトはすぐに見つかったので、会社宛に李さんを探している旨を記して、メールを送信した。もうすでに退職しているはずだが、何かしら返事はあるだろう。
 もうひとり有力なのは、景洪の版納賓館に滞在中、CITSの受付をしていた周素琴さんという当時一八歳の女性である。彼女に関しては、マネーチェンジャーくんが一時付き合っていて、日本に呼び寄せていた時期があったから、彼に聞けばわかるはずだと。なので彼にさっそく電話して聞いてみた。すると、「二年前に北京で会った」というではないか。しかもSkypeの連絡先を知っているという。私が「西牟田が北京に行くから会いたがってるって伝えておいて」と電話口で伝えると、「わかった。返事が来たら連絡するから」とのことだった。
 そのほかで有力なのは、ツーショットや一人だけという形で撮らせてもらった雲南の非漢民族のたち、街中でバシャバシャと撮ったトルファンのウイグル人たちだ。彼らに関しては事前に何もしなかった。そもそも名前も住所もわからないからだ。だがそんなには焦ってはいなかった。雲南の非漢民族やウイグル人たちは現地に留まって生活している気がしたからだ。

一〇倍の旅行費用

 八月に入ろうとする時点で、李さん以外で連絡が取れた人はいなかった。李小勇さんの会社へはメールやSNSを使って連絡した。しかし二週間待っても一向に返事が来る様子はない。版納賓館の周さんへの連絡を頼んでいたマネーチェンジャーくん。彼に連絡したところ、「Skypeでメールを書いてみたけど周さんからの返事はない」とのことだった。
 一方、成都については、着々と捜索が進んでいた。嶋田君はいくつかのSNSに捜索情報を流したり、通っている大学の先生や学生たちに情報を教えたりしてくれたそうで、未確認情報も集まってきていた。友人によると、「成都市内の銀行の窓口で似た顔の人がいる」とのこと。しかし名前が違っていた。SNSの同窓会系コミュは許可制のところが多く、その条件は「当事者のみ」となっていた。嶋田君が羅怡さんたちの情報を記して、コミュへの入会をお願いし続けた。しかしどこも受け入れてはくれなかった。
 そもそもだ。彼によると、成都市第三二中は一九八三年に财贸职业高级中学と名前が変わっているそうなのだ。嶋田君はその学校に出向いてくれていた。そこで彼は学校関係者に「名簿を見せてほしい」とお願いしたが、「夏休みのため管理人が九月に入らないとこない」と言われたという。

 私自身は八月下旬の出発を目指していた。そのころまでに出発しないと、せっかく決まった書籍の刊行が、ご破算になりそうだという、身も蓋もない事情が私にはあったのだ。いわば取材開始の締め切り時期がそこだったのだ。
 捜索情報を受け、会える場所がなるべく多くなるように、ルーティングするつもりだった。しかし八月に入ったころ、記した通り、捜索は思うようにすすんでいなかった。それでもそろそろ日程を固めないと、出版に間に合わなくなる。
 どのように、たどるかだが、学生のころのように旅を行き当たりばったりで行くつもりはなかった。当時のように知らない世界を見てみたい、という目的で出かけるのではない。作家となった私が本を書くための取材として旅をするつもりだからだ。なるべく同じ交通手段で、なるべく同じホテルに泊まり、当時会った人たちに会うという方法によって、過去の旅と比較しながら、旅を進めていくべきだ。だから日程はもちろん、行くべきところや会うべき人、泊まるべき宿、乗るべき乗り物はあらかじめ決めておき、できる限り予約しておくことが望ましかった。追体験することがこの旅の目的なのだ。
 そこで必要になってくるのが通訳の存在だった。当時、語学不足でわからなかったことを追及したり、当時との変化を知るためには、正確な情報が必要だからだ。そのために、前出のマッチングサイト、Travelocoを使って、中国各地に住む中国語マスターたちの手を借りることにした。とはいえ一人当たり一~二万円はかかる。とすれば、九一年と九二年の旅を両方、網羅するのは経済的に難しい。とすればどちらかをたどってもう一方を捨てるしかない。
 それでどちらかを選ぶかだが、九二年の旅をほぼまるまるたどることにした。九一年に関しては神戸~天津間の航路がすでに廃止となっているし、酒泉の李さんからは連絡がない。一方、九二年は、成都~昆明間の火車で会った三人組はいまだ、嶋田君が捜索してくれているのだ。
 九二年のルートのうち、上海、北京、成都、昆明、広州、香港というそれぞれの都市については、現地在住の日本人と交渉し、それぞれ同行してもらうことで話がついた。そのほか、雲南省の昆明や景洪、大理や麗江は成都に住む嶋田君にお願いすることにした。こうしたマッチングを人づてでなく、ネットを介して、直接行えるのはIT技術のおかけだ。
 そうした恩恵は交通や宿泊に関しても言えた。九〇年代初頭は、切符ひとつ手に入れるのも何日かかるかわからなかったが、今や、旅行サイトを使えば、日本と中国間の航空券はもちろん、中国国内の航空券や鉄道の切符の予約ですら、瞬時で可能なのだ。
 IT技術の進歩以外にも感心したことがある。それは全土の移動が、雲南省の僻地やチベット以外ではぼどこでも高速鉄道で可能だということだっだ。中国にはじめて高速鉄道が導入されたのは二〇〇七年。たかだか一〇年あまりで、全土に張り巡らせるというのは高度成長している国の勢いゆえなのだろうか。
 九〇年代前半にかかっていた所要時間と比較しながら、私は旅程を組んでいった。スピードアップしたこと自体はあまり恩恵はない。一泊かかっていた移動時間が四・五時間になっても日中の移動となるため、意外と時間の短縮にはならないのだ。それよりもむしろ有り難いのは、切符を買うために半日や一日、もみくちゃにされながら並ぶ手間が省けるということだった。
 宿泊については便利さよりも、確実性が有り難かった。というのも当時、泊まったホテルが現存するかどうかや、部屋のタイプを机上で確かめられたのだ。ちなみに結果はというと次の通り。見つけたのは北京の僑園飯店、昆明の茶花賓館、吐魯番の吐魯番賓館だけだった。上海の浦江飯店、景洪の版納賓館、大理の第二招待所、広州のユースホステルはなくなっていた。
 残っている僑園飯店と茶花賓館にしてもドミトリーは廃止されている。それは宿の営業許可が取りやすくなり、小さなゲストハウスが無数にできたため、ミドルクラス以上に顧客に絞ったということなのだろうか。ともかく、昔を知る人はまだ在籍しているはずだ。であればぜひ、再び泊まってマネージャークラスの人に昔の話を聞くとしよう。僑園飯店は一泊六六〇〇円ほどもしたが、取材も兼ねて、お金を使うことにした。
 こうして私は一ヶ月弱の旅の予定を作り上げた。現地の物価は鉄道料金で五倍ほど、ホテルに関しては当時最安で一三〇円ほどだったのが最安で一〇〇〇円ほどと高い。中には僑園飯店のように、数百円だったのが、六六〇〇円ほどと跳ね上がってしまった宿もあった。当時の「地球の歩き方 中国91~92」の表紙には、「中国大陸を一日一五〇〇円以内で自由に旅するガイド」などと書かれていたが、今やその一〇倍はかかりそうだ。

ビザが出ない?

 交通や宿泊の予約をあらかた済ませてから、都内の港区にあるビザセンターへビザをとりに行ったのは、八月も一〇日をすぎてからのことだ。今回わざわざビザをとりに行ったのは、一五日では収まりそうにないという理由があったからだ。
 二〇〇三年九月一日以降、一五日以内はビザなしでの渡航が認められるようになったことから、中国渡航は今後簡略化されていく流れにあるのだと私は思っていた。ところがだ。中国ビザ取得の要件を確認したところ、その考えが間違っていることに気がついた。ビザが取れるのは観光だと基本一ヶ月まで。出入国に必要な飛行機または船のチケットまたは予約証明書、パスポート、必要事項を記した申請書のほかに、すべての国内移動とホテルの予約証明書が必要だというのだ。
 だがそこは本音と建て前がまったく違う国であるこの国のことだ。実際の運用はまったく違っていて、九〇年代の前半同様、出入国の移動に関しての予約証明とパスポート、申請書があればビザが下りるのだろうと、申請前、そう予想していた。
 実際のところ、一ヶ月すべての旅程を決めて、予約まで完了させるのは不可能だ。私の場合、雲南省(西双版納や大理・麗江エリア)については、バスでの移動が多いので、予約のしようがないのだ。
 であれば、すべての予約という要項はどうせ形だけのモノだろう。私はそう判断し、行きの船と帰りの飛行機、そして出発直後と帰国直前の数日間だけの宿泊と長距離交通の予約済みの資料だけを持って行って申請しに行くことにした。
 ガラス張りのカウンターでまず最初に指摘されたのは帰りの航空券の予約表の不備。というのもtrip.comというサイトで予約すると、名前とパスポート番号がセキュリティ対策のためか、自動的に一部伏せ字の状態でプリントアウトされるのだ。それに気がつかず提出してしまった。
「これだと申請できませんよ。名前もパスポート番号も完全ではありません。それにこれ途中の宿泊や移動の予約がないですね」
「一ヶ月も移動していると途中でトラブルに巻き込まれるかも知れない。そうすると取り直す可能性もある。だからすべて予約をとるということは普通はあり得ないですよ」
「いえ、これ全部予約とってきてください。そうでないと受付できません」
 三〇歳ぐらいのぽっちゃりとした愛嬌のない中国人女性がやや疲れた調子で事務的に返答した。その厳しさに唖然とした。以前なら申請さえすれば、ドラッグ中毒の日本人ですら三ヶ月のビザが確実に取れたが、今やとれても基本は一カ月。二週間以内だとビザが要らないとはいえ、昔に比べると中国への入国が厳しくなったのかもしれない。とはいえビザの取得を諦めるにはまだ早い。言われたとおりに申請し直せばいいだけのことだ。そう思い直し、私はもう一度、トライすることにした。

 帰宅すると私は、まだ予約できていない部分の予約をすべて終わらせた。バスだけでしか移動できない雲南省の南部の箇所は、昆明にある予約変更可能のホテルを一〇日分予約し体裁を整えた。また、香港~東京の航空券は予約確認書が暗号化されない会社で予約し直した。それらの予約確認書をふくめ、すべての行程の交通や宿泊の予約確認書をプリントアウトした。
 そして断られた翌週、私はビザセンターへ出直した。
 対応してくれたのは、まだ大学生じゃないかという、好奇心旺盛そうな若い女性職員で、もちろん中国人だ。私に対して、ガラス越しに親しみのこもった笑顔で対応してくれる。
「どうぞよろしくお願いいたします」
 二〇ページ以上にわたる予約確認書の束とパスポート、顔写真、記入済みの申請書をガラス中央下部のテーブルのくぼみ越しに、私は緊張しながら渡した。すると彼女は、笑顔をたたえたまま受け取ると、まずは私のパスポートの確認をはじめた。気になったのは、彼女がやたら何度も私のパスポートをめくって確認していることだ。
「ブラジルのビザがありますが、どういう目的ですか?」
「観光です」
 これは今回の旅の目的の真意が何か、確かめるつもりで、私にかまをかけているのかも知れない。笑顔で質問する彼女に私は警戒を解かずに答えた。すると彼女はさらに質問をしてきた。
「イグアスの滝は行かれたんですか?」
「いいえ。リオのカーニバルを見て、ブラジリアの近くに住んでる知人を訪ねたり、サンパウロで日系人に話を聞いたりしただけです」
 話を聞いたりしたという言葉を発して、マズいかもと内心思った。しかしそこはスルーされた。
「たくさん旅をされているんですね」と言って、彼女はまた笑顔を見せた。単に彼女自身が外国に興味があるだけのようだ。そのことが伺えて、緊張が解けた。
 その後は、ビザの申請書の記述内容の確認と、宿泊・移動の確認をしていく。青いマーカーで日付と地名、名前を逐次確認していくのだ。これについてはすべて持って来ていたのであまり心配はしていなかった。それでついでに聞いてみた。
「今回は予約をすべてしたんですが、みんなされてるんですか」
「もちろんそうですよ」
 当然という感じで笑顔で言われた。
 そんな会話の後、申請は受理された。
「何かあったらお電話致します」というので「ない方が良いですね」と答えた。
 すると満面の笑みを浮かべながら、「大丈夫です。心配なされないで下さい」と言われた。ともかく私は中国のビザ申請の厳しさを感じ取った。外貨を落としてくれる外国人ならば、基本は誰でも歓迎だった九〇年代初頭とは、中国の態度はもはや違っていた。これこそが経済成長で得た国の自信というものだろうか。
 ビザセンターのある八階から下に降りると、空はどんより暗く、雷鳴が聞こえてきた。すぐに土砂降りとなったので、すぐに帰宅するのを諦めて建物の中で雨宿りをした。私の旅はこの天気のようにひどいものになるのだろうか。それとも待っていれば雨は止むのだろうか。

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