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村は消えてしまった[2018年/西双版納編その3/中国の高度成長を旅する#23]

コンクリートと民族の誇り 基諾山

 基諾山は景洪からは北西に二六キロあまり。ラオス国境に向かう道すがらにあった。原生林沿いの道を行き一時間もすれば到着する。村の入り口にはコンクリートでできた細長い駐車場があって、バスや乗用車がズラッと双方に五〇台ぐらいは並びそうだ。
 基諾山に住むのは基諾族という一九七九年認定された人口約二万人の民族だ。基諾山のあたりにだけ住んでいる彼らは人口二万人あまりと極端に少ない。女性は白い三角頭巾、胸当てスカート、脚絆という衣装がトレードマークだ。

景洪から基諾山への道のり

 入り口の手前には、木でできたウニのような円筒が幅一〇メートルほどにわたってピラミッド状に並べられていた。それは木と竹で作られていて、その奥には景洪の街中でも見た「社会主義核心価値観」の一二の二文字熟語や、「中国夢」のスローガン、そして習近平氏の雲南の開発の方針なども書かれていた。そうしたことからこの施設が、雲南省の産業として観光開発を進めている一大拠点だということがわかった。

 二階建て藁拭き屋根のガイド待機場と券切符売り場を兼ねた建物があった。そこで有人の切符売り場で二人分の切符を買うと、七五元。何らかのキャンペーンだという。しかし、村なのに半額という意味が資本主義的で違和感を覚えた。
 
 前回出かけたときは、溶けかかったようなアスファルトの道をまったく車通りがない中、アップダウンを繰り返す道を歩いて行ったのだが、バテてしまって基諾山までたどりつけず、基諾山の手前付近にある基諾族の村に立ち寄ったのだった。泥のついた汚いコップで、ちんちん丸出しの幼児が水を飲んでいた。そうした幼児たちを撮っていると大人に咎められた。農作業のため人は少なくて閑散としていたこと、村がとても貧しかったことを覚えている。今回、本来ならばまったく同じ村へ行くべきだが、地図上でどこに当たるのか特定できなかった。そのため、本家の基諾山へ行くことにしたのだ。

 隣の待機場にいた若い女性ガイドに話しかけた。彼女たちは白い頭巾をかぶり、下はミニスカート、上は長袖にベストというカラフルな恰好をしていた。履きやすいローヒール、手を離していてもマイクで音を拾えるようにインカムをしている。前回は村仕事をしていたのかほとんど誰もいなかったが、今回は、化粧っけのある若い女の子たちの歓迎。これはやはり心が浮き立つ。
 だけども本当に人口が二万人しかいないのに、こんな一〇人ほども二〇代前半といった女の子がわっと集まるのだろうか。そもそもこの子たちは漢民族でバイトできているということはないのだろうか。しかも細い子がいたり、ちょっとぽっちゃりした子がいたり。体格にしろ顔つきにしろバラバラだ。「私たちはここから数キロ離れたところに暮らしています」という子がいると思えば、「大学三年生なんです」という子もいて、なんだかよくわからなかった。

 そんな今どきの彼女たちに九三~九四年度版の「地球の歩き方 雲南紀州編」に載っている基諾族の写真を見せた。すると細くて長身の子が目を輝かせて見て、スマホで撮影していた。少なくとも民族というものにすごく関心が強いということだけはわかった。
 入り口には太陽を模した丸い筒にトゲトゲが施されている太陽の門をくぐったところで、ややふくよかな二〇代の女の子が一〇人ほどを束ねて、「さあ、いきますよー」とか声をかけてツアーを開始するのだった。

 急な階段が一〇〇段ぐらい続いただろうか。階段のすぐ脇には原生林が広がっていて、水牛の骨がやたらと置いてある。そこを登り切ると基諾族のカップルの石像があって、さらにその上にはモアイ像のような頭巾をかぶった、顔だけで三メートルぐらいはあるんじゃないかというくらいの巨大なコンクリートの顔があった。階段の途中に、実に青々としていて様々な種類の木々が植わっていて、深呼吸するのにちょうどいい。階段を登りきったところには、洪水を逃れた兄妹らしき男女の像があり、その周りには、やはり水牛の骨がたくさんあった。

 階段に登りきったところで、竹や木魚をポンポン鳴らす人が二人いた。インカムの女性たちと違って顔は小作りで若い子たちや少年、おじさんと年齢層はバラバラだが、この楽器を奏でている人たちは同じ系統の顔立ち。同じ民族の人たちなんだろうなと思った。

 ガイドのぽっちゃりした女の子は話した。
「二〇年前までは何もありませんでした。当時は道が悪く大量のコンクリートを入れられなかったんですが、道が良くなって、いろいろ運べるようになってからは、このように開発することができ村が豊かになったんです」
 中国の沿岸部の豊かな人たちの間では、雲南省への観光が流行っている。というのも沿岸部にはない、素朴な少数民族の辺境文化に憧れるらしい。西部大開発の柱のひとつである観光開発という方針と、この村の〝町おこし〟への意欲や元々多様だった民族文化という利点が合致したのだろう。二〇〇六年、基諾山景区という名前でテーマパークとなり、同年六月一日、観光客の受け入れを開始した。そして翌年にはここで開かれている踊りや文化が国家的遺産になった。
 ちなみにこの巨大な女性の顔の石像は、基諾族の神話に登場する阿膜腰北という女神。世界が大洪水に襲われたとき、この女神が太鼓を作って、そこに一組の男女を入れて助けた。その太鼓がここの山に流れつき、基諾族になったというのだ。
 そうした伝説そのものも言い伝えはあったとしても、国家が観光開発を決め、大量のコンクリートを村の中に運び込まなければできなかったのだから、これはこれでいいのだろうか。

 ここからさらに階段を上っていくと、途中、数々の数珠や健康に良いというタバコ、玉虫の羽根で作ったイヤリング、櫛など様々なものが売られている露店があって、もちろんそこはQRコードOKだった。ガイドのお姉ちゃん同様に色とりどりのチョッキに下はジャージという、頭巾をかぶっていないおばさんがいて、タバコを吸いながら店番をしていた。ふいごのような笛を実演してみたり、長さが二〇センチほどもあるムカデの入ったお酒を売っていたり、きのこを売っていたりした。おばさんは妙に生活感があった。

 その一帯には、普通に村の民家があって、日本の田舎の家のように木造だけど、そこそこ構造はしっかりしているという家があった。そうした生活感がところどころにあって、そのおばさん以外、例えば機織りをしているやや色の黒い頭巾のかぶった民族衣装を着たおばさん、階段を上ったところにいた竹を叩く人びとなどは、色が黒く、いかにも村の人びと。彼らはいかにも元々村に住んでいる人という感じでいかにもすれてない。
 彼らは、漢民族が大半の観光客が写真を撮るのも気にせず、黙々と役目を果たしていた。そこから先へ進むと中野サンプラザのステージぐらいある大きな会場が現れた。そのわりに客席は狭く、一〇〇人ほど座れるだろうか。ひな壇状になっていてライブハウスのように丸いテーブルがある。そこでは蒸した芋とトウモロコシそして豚肉が出てきた。ステージの上には和太鼓集団の鼓動が使うような、大きな和太鼓風の太鼓が四つも五つも並べられていた。和太鼓と違うのは打綿の革が茶色かったり、胴回りがトゲトゲとして太陽またはウニみたいにみえたことだ。

 ショーは総勢三〇人ほどだろうか。やはり二〇代中心の男女が一五人ずつほど出てきて、非常に軽快に歌い踊る。民族の言い伝えに従った踊りらしい。女性は白い頭巾じゃなくてベトナムのノンのようなものをかぶって踊っていて糸を紡ぐ格好をしたり、男性は高さ二メートルほどの棒をツンツン突きながら踊っている。男女がペアになっていて恋の鞘当てのようなフォークダンスのような、のどかな踊りだった。だがプロ級だ。一曲三分か五分で終わると、「二万人の基諾族を代表してご挨拶をさせていただきます」一人の男性がマイクを持って司会をする。

 そのショーが終わった後に、歌舞団のメンバー写真が一人一人貼られているコーナーがあってそれを見ていると女性は歌舞団に入って一年から一〇年というキャリア、男性はやはり半年から一〇年ほどだから一人だけキャリアの二〇年という人がいた。キャリア二〇年の男性、張さん。二〇一〇年にテレビ東京に取材を受けていて、民族文化を観光の目玉にすることで若者の雇用を増やし、村を豊かにしようと考えている、ととその番組のウェブサイトでは記されていた。つまりこの踊りは、観光客誘致を狙った民族舞踊集団として結成されたものらしい。これだけ立派に舞えている、ということは彼を中心にして、若い村人たちの流出を防ぎ、村にしっかりとした子様を作りつつも、村人としてのアイデンティティをちゃんと保ち、お金も得たということなのだろう。それが証拠に非常に活発に一生懸命やっていてその若さからくるはつらつとした動きと、踊りの巧さ、そして、そのやる気満々に見える気持ちのこもった踊りに胸を打たれたのだった。

VIPの視察も多いようだ。そのことからもここが重点的に開発されたことがわかる

おばさんたちの耳を見ると大きく穴が開いていたりとかしていかにもこの民族の風習が最近までやっていたかということがわかった。そうしたおばさんの一人に聞いた。幸せですかと。
「以前に比べると豊かになりました今は私孫が四人いるんですよ」と言って穏やかな笑顔を見せた。その笑顔に嘘はなさそうな感じがした。

 気になることもある。伝統文化が育まれてきたのは外部との接触を断ってきたからこそだ。こうして大量の人たちの前で一日に五度とか七度とか、伝統といわれるものを披露することで形骸化していくのではないかということだ。こうした歌や踊りを披露するのは、年に一回お祭りのときとかだけだろう。もちろん彼ら自身が自主的にやればいいのだが、彼らの生活そのものを堂々と覗く見ているような、除き見ていないとしても、彼らが日常生活を犠牲にしているのじゃないかとか。ハレとケがなくなってしまって、逆に村のアイデンティティはどうなるんだろうかとか。そんなことを考えて私はもやもやしてしまった。かといって以前の食うや食わずのひもじい生活に戻れるかと言ったら戻れないのだが。

 また、なにより、この村で気になったのは迷彩服の軍人がたくさんいたことだ。幸せなのは本当なのかもしれない。だが一方で国家の観光開発の意義を唱えることを力によって封じ込めているのではないかという懸念がチラッとしたのだ。
 正直なところ、真相はよくわからない。それに彼らはこうして村を開いた以上はこの方向性でやっていくしかない。貧乏に戻ることはもはや不可能なのだから。
 この村で踊っている人たちの中に、私が二六年前に見たフルチンの幼児たちもいたのだろうか。彼らはその後、立派に成人し、今やこのテーマパークで日々、活躍しているのかもしれない。しかし私にはそれを確かめる術を今回、持っていなかった。


観光地化を果たさなかった村 勐養(曼濃干・曼景法)

 そこから景洪へ戻る途中、勐養へ行った。バスはないというので、駐車場にいる乗用車に嶋田くんが声をかけていく。するとまだ二十歳そこそこの少年が乗せて行ってくれることになった。

 勐養は基諾山から旧道を西へ二〇分ほど行ったところにあった。その道はアスファルトが溶けたような山道で、途中、田んぼなどもあったりして、ぐねぐねした山道で、二六年前に私が歩いて通った道らしかった。当時の村はどこなのか探したが、よくわからなかった。
 そうしているうちに勐養に到着した。私がわざわざここまで立ち寄ったのは別の民族の村に行くためだ。真ん中にオベリスクがあって、その周りに象が二匹という像があるロータリーがあった。そこが町の中心だった。


 そのそばにオート三輪のおじさんがいた。二つの村をひとまとめて行ってもらえることになった。そこから、平地の一本道を走ってもらった。沿道は何らかの畑になっていた。

畑を抜けて

高速道路をくぐる

 曼濃干(マンノンガン)という旱タイ族の村。街の中心から車で後六分の距離があった。当時のガイドブックには「土壁独特の瓦屋茅葺きと益城の家が並んでいて軒先に機織り機がある。黒地に赤青黄色緑などの色の細かい模様の入った五〇センチの布を折っていて、こんな布地をつなぎ合わせると腰巻上のスカートになる機織りの音の響く素朴な村だ」などと書かれていた。私はこの村で民族衣装の着たおばさんたちが商店に五、六人集まって立ち話している様子を写真を撮ったり、豚の買われてる家をうろついたりしただけだった。

 当時は田んぼだったような気がするが、この道は間違いなく通っている。やたらと雑草が多いその道を越えると村に入った。村の道路はぼろぼろのコンクリート舗装だったはず。豚を飼っている家や鶏を飼ってる家、ニンテンドーDSなのか、ポケットゲームを五人ほどの少年が顔を寄せ合って遊んでいたりする。電気が通じていて、家が木造ではなかったが、村の中は閑散としていた。ここでもお茶を作ったりしているのか。コンクリートの庭が塀もなく、丸見え。

 たまたまそのコンクリートの庭に家族でいた人たちに、当時の写真を見せる。するとまだ二〇代前半という若い父親が男の子の赤ん坊を抱いていた。その親らしき四〇代の両親がやってきて「あーこれはここの村だよ」と教えてくれた。

「一本向こうの通り。今も衣装は着てますよ」
 レンガで作ったボロボロの当時のままの家が、ところどころ壊されていて、新しいものに一新されそうになっていた。豚を飼ってる家もあった。立派な家は車があったりしたが、それは一部だった。おばあさんの一人に黒い帽子をかぶった、青地の民族衣装を着た人がいて、伝統が息づいていた。先ほど見た基諾族の村のように伝統をお金に変えたりはしていなかった。その分、村にいるだけで何だかいていいのかという胸騒ぎがした。写真があってその場所を探しているという名目がなければ来てはいけない気がした。

 実際カメラをこっそり向けて、そのおばあさんを撮ったら非常に憤慨なさった。機織りしている様子をにこやかに写真を撮らせてくれた基諾族のおばあさんとは対照的だった。村の観光地化はまったくここには進んでいなくて、村の出口のところに一軒民宿を兼ねた釣り堀みたいなものがあるだけで、それ以外は何もなかった。

こんな村でも電子決済が出来るのだ


 もう一つの村にも寄ってみた。それは花腰タイ族という人たちの村だ。黒がベースの赤かオレンジのラインがワンポイントの帽子、上半身に入った長いスカートをはいた人たちで当時は機織りしている様子をこっそり見ただけで帰ってきたような気がした。
 ここも非常に静かで行ってはならない雰囲気があった。曼景法(マンジンフォン)という花腰タイ族の村。ガイドブックには「刺繍の優れた技術を持っている。村に入ると日陰で熱心に刺繍をする女性の姿がある。一軒にお邪魔してお茶をご馳走になっていると、刺繍の衣装を手におばさんたちが商売にやってきた。刺繍の技術は見事で、母から娘へ受け継がれてきた伝統を感じる」などと記されていた。
 彼らの衣装は「年配の女性は、刺繍の美しいスカートにお腹が少し見えるぐらいの丈の短い上着頭には銀の鎖をグルグルと巻きつける、という伝統的な衣装。若い民族は漢民族と同じシャツ、ブラウスにズボン姿がほとんど」と記されていた。
 オート三輪ですぐ先にあるのに、先ほどの旱タイ族の村とはだいぶ違う。村の入り口に、照明が全然ついてない商店があること。そこでは飲み物が基本、常温で売られていること。そんな田舎のよろず屋。電話を一回一元でかけさせてくれる。そんなサービスがあることからしても、かなり遅れてる感じがした。もちろんそうした店でも電子決済ができる。
 村も先ほどの村と違って、レンガの塀で覆われていて閉鎖的。かつ誰も歩いていない。まったく取り付く島がなかった。ここもやはり観光地化はされていない。つまり、この二つの村は基諾族とは違って観光地化をしなかった、またはできなかったということらしい。
 しかし、観光地化されなかったことで幸せでないと言い切れるものだろうか。それはまた別の次元の話だ。


 景洪に戻ると、巴拉村がどこにあるか、所在地の確定調査を行った。私たちは二人で新華社書店に行ったり、CITS(中国国際旅行社)を探して観光コースに入っていた巴拉村のことを聞こうとした。しかし観光ガイドを見ても南糯村のことしか書いていない。また図書館はなぜか閉鎖されていた。CITSは版納賓館はとっくになくなっているし現在あるはずの二つもなぜかなくなっていた。ホテルの人やそのCITSがあったはずの場所、観光コースを張り出しているホテルの人などいろんな人に聞いてみた。
「ハニ族の巴拉村がどこにあるか知ってますか」と聞くがまったく通じない。
「おかしいですね。あの村が見つかるのは何か不都合なことでもあるんでしょうか」と嶋田くんは首をかしげた。
 仕方がないので、諦めて一旦帰った。そして嶋田くんはスマホである発見をした。
「昨日出かけた巴拉という村の前には道路が走ってましたが、その反対側には小さな川が流れてますね。そして村と道路の間には地名からするとタイ族の村らしきものがありますね。どういうことでしょう」
「そういえば成都から昆明まで向かうとき、ハニ族の棚田がどうたらこうたらって言ってたよね。僕の知っているあの村にそんなものはなかったよ」
「厳密に言うとですね。棚田のある方がハニ族で、西双版納の人たちはアイニ族っていうらしいですよ。だから通じなかったのかな」
「昨日、勐海からの帰りに出かけた勐巴拉は違うよね」
「あそこは、国际旅游度假区。つまり富裕層のための別荘地みたいなところでしょうか」
 実際、勐巴拉国际旅游度假区で検索すると、ゴルフ場と湖が複雑な地形に沿って張り巡らされている俯瞰図が出てきた。図には、点々と楕円形の形をした点々がたくさんある。これは緑の中のタワー形の別荘らしい。いくつか、ページを見ていると土地の値段と間取りが出てきた。一平方メートルあたり一万四〇〇〇元。
「素晴らしい、美しい場所。広大なこの土地は人の心の中にある桃源郷。タイ族の文化や普洱茶の原産地。湖のほとりにあり、熱帯である景洪をよりも気温が五度低く、冬は暖かく夏は涼しい」などと宣伝文句が書いてある。
「勐巴拉に村はないっぽいね。でももう一つの村も違うっぽいし。もしかしたら元々の巴拉村を立ち退かせてリゾート地にしたのかな。とすればみんな黙ってても不思議ではないよね。いったい村人はどこにいったんだろ」
「ほんとですね。不思議です」

村は消えてしまった? その2 景洪(告庄西双景)

景洪中心部、澜沧江(メコン川)を挟んだところに告庄西双景(かつてのタイ族の村)があった

 この日、これ以上の調査はできなかった。なので、夕食を食べに行くことにした。その場所は彼が昨日出かけてすごかったという、澜沧江の反対側の夜市でとることにした。
「すごいってどういうこと。反対側はタイ族の村があったと思うけど」
「そうなんですか。何か見たこともないような高さ数十メートルのすっごい大きな仏塔があったり、数百の屋台が並ぶ屋台街があったりお土産があったり、あとその周りにタワーマンションが立ちまくってたりすごいですよ」
 それを聞いて私は訳がわからなくなった。ハニ族(アイニ族)の村を探しているのに、澜沧江沿いにあったはずのタイ族の村までなくなったのだろうか。これが日本だったら、ダムの建設計画など、特別な計画がなければ、村そのものを立ち退きさせることなんて考えられない。まして、少数民族の村なのだ。住むところすら奪うことなんて、本当にできてしまうのだろうか。
 しかし、昆明の茶花賓館のように、あり得ないと思っていたホテルそのものを移転させたケースすらあるのだ。タイ族にしろ、ハニ族(アイニ族)にしろ、立場の弱い農村なのだ。役所が「経済発展のための開発」という計画案を大義名分として掲げれば、村そのものを移転させることだって可能かも知れない。

 スマホで呼んだ白タクに乗って、澜沧江の対岸へ向かった。約五キロ、車で一五分の距離だ。アーチ橋を渡って行ったのだが、ライトアップされた小ぶりのエンパイアステートビルのような建物が二つ並んで見えた。西双版納に到着するとき、澜沧江にかかった橋を渡る前の市街はまるでハワイのホノルルみたいなリゾート街で、ビルが林立し、立派だった。とすれば、それらのビルがライトアップされ、夜景はかなり明るく、そしてきれいなはずだ。そのわりにはずいぶん暗い。どういうことだろうか。
 橋を渡ったところにあるロータリーの付近に一昨日の朝以来二日ぶりにやってきた。オレンジ色のライトが光ってはいるが、車どおりは案外少ない。タワーマンションかリゾートホテルなのか立派なホテルは輪郭がわかる程度に照明はついているが窓の照明はそのほとんどが消えていて省エネに徹している感じがした。ビルよりも多かったのは、二階建ての黒い瓦屋根の統一された新しいタイかミャンマーかという通り。ここもオレンジ色の街灯に照らされて続いていて、コンビニとか商店とかの店はそこそこ営業しているが、活気は今ひとつ。これはどういうことなのだろうか。


「タクシー」は大金塔という大きな仏塔のあたりで停まった。高さは五〇メートル以上あるだろうか。これまた実に大きい。これまたバンコクか、カンボジアのプノンペンか。それともミャンマーのヤンゴンか。東南アジアの仏教国の首都にある最も大きな仏塔ほどの建物がそびえていて、これはさすがにライトアップがされていた。コンクリートの固まりという感じでまったくありがたさを感じない。かといって上海の浦東地区のようなギラギラとレーザーショーをはじめてしまう派手さもない。
 仏塔を超して階段を降りると、澜沧江の手前に夜市があった。幅は七〇メートル四方ほどで、ビーチパラソルのような傘が覆い尽くしている。こうしたところの賑わいは、歩いているだけで楽しくなるし、食べてみたくなる。一昨日歩いた景洪の宿の目の前の公設市場にしろ、昨日歩いた勐混の市場がそうだ。生活感が溢れているし、おばちゃんたちとのやりとりを楽しんだり、ぎょっとするような物が売られていたりするのが楽しいのだ。
 私たちは雨が降り出す中、ときおり雨宿りをしながら、夜市を歩いた。ブレスレット、ブラウス、パンダのぬいぐるみ、そしてなぜかジャンベばかり売っている店がある。ジャンベとはハンコの取っ手のような形をした西アフリカ由来の打楽器で、高さは膝ぐらいもある。なぜそんなものがここにあるのだろう。そうした非食べ物以外のコーナーを抜けると、バーベキューの店ばかりになった。エビ、ヒラメ、椎茸、肉などが二、三〇センチという長い竹串に固定されて並べられている。どの店もそうだ。ちょっと一口という手軽さはない。単価も高そうだ。ココナッツジュースやミッキーマウス形のペロペロ飴を売ってはいるが、なぜ西双版納の夜市でこんなものをというとってつけた感じがどうもぬぐえない。しかも売り子は二、三〇代という感じで、漢民族が多い気がした。彼らは熱心に売ったりはしない。あくまで、区画を割り当てられたからそこでやっているという感じなのだ。


 少し歩いてみたが、かつて私が立ち寄ったタイ族の村はどこにもなくなっていた。木造高床式の家はなく、お地蔵さんのような小さな仏様もきれいさっぱりおられなくなっている。あるのは巨大な仏塔と屋台街、そして新しく作られた街並みだけなのだ。
 降っていた雨は急に激しくなった。屋台に触手が伸びなかったってこともあって、私たちは仏塔横のタイ料理屋に入った。そこは古くからある木がそのまま残してあるようだった。もしかするとこれは村の名残なんじゃないか。タイ料理屋にしたのは、その目の前の店に入れば、店員が知っているんじゃないかと思ったからだ。私たちは雨が降っているが、わざわざ外のテラス席にした。というのも目の前の木が気になったからだ。


 おこわと香菜とスープと豚肉の細切り炒めを注文する。店員は二〇歳ぐらいの女の子で、先ほどから客がほとんど入ってないのをいいことに、同じぐらいの年の男性店員と大声で私語を交わしたり、なぜか鬼ごっこのように外のテラスの周りを走り回ったりしていたうちの一人だ。


 日本だといかにもツイッターでいたずらを発信し、店をつぶしてしまうような子たちの様に見えた。
「えっ、そこの木はいつからあるかって。知らないし、そんなの興味ないわ」
 そういってヘラヘラを笑いながら、注文だけをとって、それを伝えるとすぐにまた私たちの周りで男の子とじゃれはじめた。私はこの店にしたことを後悔した――。

 この場所は告庄西双景という場所で、公式サイトによると、観光旅行とリゾートの中心地、そして西双版納のゲートウェイとして開発が進められたらしい。総投資額は約四〇億元。設計が開始されたのは二〇〇八年のことだ。二〇万平方メートルの観光ショッピング複合施設、一八万平方メートルのエンターテイメント複合施設、一五万平方メートルの都市複合施設から構成され、タイのゴールデントライアングル地帯と純粋なスタイルをイメージして作られた最先端の複合施設らしい。最初に分譲されたのは二〇一二年の一〇月で、そのときの一平方メートルあたりの最低価格は四五八〇元だったという。

 成都の万達系のホテル、昆明の香格里洛ホテル、勐海の勐巴拉、そしてここ告庄西双景。これまで私はあっけにとられるほどの大規模な開発を見てきた。こうした風景を見れば見るほど、橘玲さんのいう〝地方政府の錬金術としての開発〟が実感として理解できるようになった。
 タイ族の村を移転させ、分譲マンションや観光やリゾートの中心地、ビジネス拠点という名目で売り出せば、土地の値段は確実に高騰する。その時点で、西双版納の役人たちは上がった土地の値段で、相当儲かったはずだ。もちろんここだけではなく、街の中の再開発もしているのだ。投資という名目で、土地の値段を上げて儲けた上に、仕事を求めて建設関係者をはじめとして、たくさんの人びとが移住してきたことで、税金もたくさんとれる。やればやるほどみんなが喜ぶのだ。どんどんと開発を進めるに限る。
 西双版納州政府のウェブサイトを見るとどれだけ開発ができたのかということが、グラフ付きで詳しく載っていて、遅れていたこの地方の開発が進んできたということの成果を誇っていた。
 確かに多くの人を幸せにするという意味でこの開発は間違っていないのかもしれない。しかし、ふるさとの大事さというものは経済では測れない。それに土地を奪われた人たちが立ち退いた分のそれ相応の利益を得ているとも思えない。結局は、ここにいたタイ族の人びとに犠牲を押しつけて多くの人が幸せになったと錯覚させているだけではないか――。
 それにしてもだ。ここに住んでいたタイ族の人たちは一体どこに行ったのだろうか。
 もしかすると、もといた村を追い出された澜沧江沿いのタイ族たちは、嶋田くんが見つけた検問周辺にあるタイ族の村らしき、一角に移住し、それで元いたハニ族(アイニ族)は勐巴拉の奥かそれとも、幹線道路ぞいの高台に移転したのではないだろうか。

 そうしたことを考えつつ、私たちは仏塔からアーチ橋の方向へと歩いて行った。途中で見かけたのは、タワーマンションのような高層リゾートホテル、巨大スーパー、コンドミニアム、シネマコンプレックス。どこもほとんど人は入っておらず、照明はほとんどオレンジ色の街灯のみで、窓はほとんど照明は付いていない。ホテルのフロントはやってこそいるが、人の出入りはまったくなく、中には節電しているのか、かなり暗く、閑散としていて、このまま鬼城となってしまうのだろうか。そんなことを想像させ、いるだけで気味が悪かった。
 歩いて橋を渡ろうとしているとその手前に車一台分ぐらいしか通れない散髪屋街があった。散髪なのに夜空いていて女性たちが入口から手招きしていた。しかも周りは安宿ばかり。これはこのショッピングモールを作るために労働者たちが泊まった宿なのだろう。
「一回一〇〇元でどう?」
 建設がひととおり終わった後も売春街だけ残ったということらしい。


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