2018年08月27日17時48分09秒

チベットに連なる古い町[1992年/麗江・大理編/中国の高度成長を旅する#9]

チベットに連なる古い町 麗江

 飛んでいたのは一時間ほどだろうか。行きは丸二日かけて他の乗客とともに命を預けて山越えを繰り返したのはいったいなんだったんだのか。
 西双版納への旅は世界一周断念のショックを十分払拭した。だけど旅行を断念したという現実が気分を重くさせた。しかし二日かけて半ば命がけで景洪に来てからは全てが眩しく見えた。それに充実感もあった。一箇所に止まって過ごすことで、市場ひとつにとっても毎日の表情が変わる。定点観測の大事さを知った。それまでは移動してどれだけたくさん行けるかということが僕の中では重要だったがそれはそれで否定しないが、定点観測という旅の方法を今回身につけた。
 到着して一泊して、同じタイミングで引き揚げてきた私設ブラックマーケットくん、髭もじゃさん、ベトナムくんとはお別れだ。というのも翌日九月一日からミャンマー国境の瑞麗へ向かったからだ。
 それから一週間経った九月七日の夕方に瑞麗から昆明に戻ってきた。茶花賓館には私設ブラックマーケットくんの書き置きがあって「広州へ向かいます」と書いてあった。一方、髭もじゃ君はまだ滞在していたらしく、ホテルに着いてすぐフロントで再会したのだった。一週間もいると流石に飽きたのか、このときちょうどチェックアウトするところだった。
「ほな大阪で会おか」「そうやな」
 僕らは再会を約束したのだった。
 にしても茶花賓館の白くて清潔で大きなベッドには安らぎを感じた。清潔なシーツと大きな部屋、クーラーがなくても十分快適な昆明の気候、そして服務員のテキパキとした仕事ぶり。この宿は滞在していて、十分快適だ。

 そして僕が次に出かけたのが、麗江という標高約二四〇〇メートルの山の中の町であった。日本人バックパッカーから譲り受けていたガイドブックに麗江は次のように記されていた。

 雄大な自然、そこに暮らす古代羌人の末裔・ナシ族の里――そこが麗江だ。昆明~西北へ600km、雲貴高原の海抜2400mに位置する麗江は、麗江ナシ族自治州の中心となる町だ。町の一角には四方街と呼ばれる旧市街地が売、昔からの家並みと人々の暮らしがある。町に北に広がる平原の奥には、万年雪をいただいた玉龍雪山がそびえている。そして、長江上流の金沙江には麗江の西70kmの地点でV字形に曲がり、やがて大峡谷の虎跳峡に流れ込む、大自然の懐に抱かれるという、それだけでも麗江を訪れる価値は十分にある。『地球の歩き方雲南紀州編'93~'94』

 世界の屋根、チベットにほど近い、雄大でダイナミックな景色。亜熱帯の風景が広がる景洪周辺とはまるで違う、厳しい気候を思わせる雪山という固有名詞。古代羌人の末裔・ナシ族というミステリアスな人々。紹介文にすっかり、行く気にさせられた。
 昆明からはバスで途中、大理というバックパッカーの桃源郷ともいえる場所の玄関口を通り過ぎる。北京や景洪で長逗留し、他のバックパッカーの旅のことや身の上を聞いたり、通い詰めることで顔なじみになっていく食堂やカフェの心地よさに心奪われていた面があったので、大理にもこの後、すぐに向かうつもりではあった。
 昆明のバスターミナルを出発したのは日中だった。車中で一泊して、夜通し走った。景洪行きとは対象的に、基本、山を登っていく。乗ったのは中国製のおんぼろバスだったので当然クーラーはついていなかった。しかし全然暑くはなかった。それどころか寒くてしょうがなくてバスの中ではTシャツの上に長袖の服を着ていたがそれでも歯の根が合わず、ガチガチ震えた。上着を持ってなかったので震えるしかなくて、乗っているうちの実質半分ぐらいしか寝られなかった。


 麗江には九月九日の早朝に麗江に到着した。緯度では鹿児島と変わらないのに、正直寒い。日本でいえば一〇月半ばから一一月の気候ぐらいだった。冬になるとここは雪が降るらしい。それもそのはずだ。前述したように標高が二四〇〇メートルもあるからだ。
 バスターミナルのあるところはガイドブックの地図の欄外にあった。熱いシャワーを浴びて早く寝たい、ということで何も考えずバスターミナルに付属しているホテルに入った。実際、ここはすごく安くて三人の相部屋で一泊六元しかしなかった。シャワーさえない簡易旅社をのぞけば一番安い。それで実際、温かいシャワーを浴びて、すぐに横になることができた。同室者はザックだけあったから、外出しているらしかった。
 温かいシャワーを浴びて、備え付けのブラウン管のカラーテレビでニュースを見てから寝た。シャワー室からは標高五五九六メートルを誇る玉龍雪山の中腹が見える。頂上は見えない。万年雪なのかわからないが雪が積もっていた。
 寝て起きた後の昼ごろ、外に出た。坂になっている幅の広い商店街を歩いた。この町は車はそんなにいないので渋滞などはもちろんない。一五分ぐらい歩くと新大街という麗江のメインストリートに出た。ここには新華書店や映画館、百貨店、ホテルなどがあって長さはせいぜい一キロほど。しばらく歩いていると、毛沢東像がある広場に出てきた。辺境だからこそそういうものが必要なのかもしれないが、こんな山中の街にと、驚いた。
 広場のそばにはピーターズカフェという外国人用の安いレストランがあった。ステーキやパンケーキなどが食べられる。外国人用レストランは一〇~二〇元は出さないと満足に食べられない。昼どき、楽しみにして中に入る。すると中にいる客は西洋人ばかりだった。ステーキといってもそれは名ばかりでスライスされた肉を放射状に置いてその周りに生のきゅうりを並べたものだった。味も違っていって中華風。
「味は本物を見たことも食べたこともない人が調理するので、多くを期待してはいけない」とガイドブックに記してあったが、まさにその通り。だけどその偽物っぽさが微笑ましくて、「この料理、惜しい」「努力は認めるけど全然ダメ」などと共通点と相違点を考えながら食べるのが楽しかった。美味いかどうかはともかく、こうした中国の辺境に外国人が普通にやってきているからこそ、こうした宿が成立する――ということを僕は実感せずにはいられなかった。

 新市街の他、麗江には旧市街というもう一つの市街地があった。麗江の街並みは明の時代からのものが今でも継承されているようで、だからか自動車は狭くて通れなかった。石畳の道、二階建ての瓦葺きの屋根が続いている。時間の流れが止まっているというか見失ってしまった。ゆっくり時間が流れる。しかし騒がしくもあるしっとりとした雰囲気を感じた。新市街の手前の道のそばには小川が流れていて野菜を洗ったり洗濯をしたりしているのが見えた。こんな汚い水で、野菜洗うのって大丈夫か、と公害全盛期の大阪で育った僕は反射的にそう思った。だがよく考えてみれば、この水は心配に当たらない。なんせ玉龍雪山から流れ出してきた美しい水なのだ。汚いはずはない。僕はすぐに思い直した。
 旧市街で主に見かけたのはナシ族の人々であった。ナシ族とは四川省南西部や雲南省北西部に住む民族で人口は約二六万人いるという。なぜナシ族と断定できるかというと、彼らの衣装が独特だからだ。女性はたすきの紐を前で交差させていて、背中には柔道の帯のような柔道の帯のような厚い生地の横長の長方形に下に丸い形の布というそういう背中あてのようなものをしていた。しかも全員が子守でも全員すると思えないのに何故同じ背中あてなのだろう。そして青系の色の上着の他に膝ぐらいある前掛けをしていて下は主にスラックスのようなものを履いていた。それらの衣装を揃えてきている人がいれば綿シャツにスラックス背中あてだけをしている人もいた。青系の人民帽を被ってもいた。ちなみに男性は人民帽や洋服、人民服や洋服を着ているが、小顔で髭の人が多く、漢民族にはあまりいなさそうな顔つきをしていたので、間違いないだろう。ナシ族の村らしき女性はやはりここでも民族衣装の方が多い。男性は人民服とか洋服なので服に特徴はない。しかし顔つきが皆似ているような気がする。顔は卵みたいな形をして痩せているしかも小柄一重まぶたの細い目という共通点がある。これで顎ひげを蓄えるとまるで仙人だ。
 旧市街をほっつき歩いていると、途中で広場(四方街)に出た。そこは市場になっていて、売り子は女性ばかりだった。売っているのは主に野菜。その他食堂もあったりした掛け声が飛び交っていた。その周囲にはは竹かごを背負ったりリヤカーを引っ張ったりするナシ族のおばさんをよく見かけた。女性は働き者なのだ。失敗したなと思ったのは、写真撮影だった。あるときリヤカーを引っ張るおばあさん二人を夕方、撮ろうとしてフラッシュを焚いてしまった。見つかってしまって、お婆さん二人はあからさまに怒って唾を吐いた。申し訳ないことをした。
 旧市街にははんこを作ってくれるという店を見つけた。トンパ文字という象形文字で作ってくれるのだという。トンパ文字とはナシ族が使っている象形文字のこと。トンパ文字は文字の数が約一四〇〇。エジプトのヒエログリフや漢字の元になった甲骨文字は知っているけどそれはもはや使われていない文字だ。しかし、トンパ文字は違う。未だに使われているそうなのだ。犬や牛、人や花など、一目でわかるユーモラスな文字だ。文字の一覧を見て気に入った僕は、「西牟田靖」という名前でハンコを作ってもらった。

改革開放と漢方医 麗江の白沙村

 翌日は朝から郊外の白沙村を訪ねた。小さな村の方がナシ族の文化がさらに残っているような気がしたし、五五九六メートルという玉龍雪山を見ながらの、山のなかのサイクリングは息が切れてきつそうだ。だけど興味が勝ってしまった。僕は宿の近場で自転車を借り、村を目指した。
 麗江から村へは北へ約一五キロの地点にある。玉龍雪山のふもとを貫く平原の道を進んでいく。沿道には小さな集落がポツリポツリと見えるが、草がボーボーに生えていたり、その間いくつか集落があったり、羊の放牧している様子を見たりした。こうしたことこそが山の中のサイクリングの醍醐味なのかも知れない。しかし、僕は楽しめるほどの余裕はなかった。これならバスか何かで行けばよかったと途中から後悔しはじめた。
 一時間以上走って、迷いながらもなんとか到着した。目印は外国人歓迎の商店や家みたいなものを見つけたからだ。店の中には、胸の前でたすき掛けにしている紐が目印の青い民族衣装を着たメガネをかけたおばさんがいた。そのお宅の庭には豚の親子がチョロチョロとしている。時の流れが非常にゆっくりそれこそ止まっているような感じだ。ここでは昔からそういうゆっくりした時の流れなのだろう。村に入ると集まってきた村人に「和先生」と紙を書いてみせた。するとみんな同じ苗字なのでわからないといったことを書いて言われた。
 この村にはドクター・フーという名前で呼ばれる和士秀という漢方医がいるらしいのだ、客好きの先生は、流暢な英語を話し、旅行者に薬草茶を振る舞ってくれるそうなのだ。こうした町の有名人って実際にどうなのだろうか。ガイドブックに堂々と顔写真が載るほどの人物に会ってみたいというミーハーな気持ちも僕にはあった。
 そんなドクター・フーの居所は、一キロあるかないかという一本道しかない狭い村だけにすぐに見つかった。村の三分の二ほど歩いたところで西洋人たちが沿道に群れているのが見えたのだ。
 僕が自転車を押して、先生のいる玉龍雪山本草診所を覗いた。木造の建物は開け放れていて、奥には六畳ぐらいの薄暗い部屋があり、中にはボンカレーのおばさんのような色使いの赤ん坊の絵が書かれた薬の箱など、漢方薬が並んでいた。
 やたらハイテンションな英語でまくし立てる四〇際ぐらいの小顔の男が、西洋人の背後に僕を見つけるや、彼らへの説明を一時中止して、「やあやあようこそ」と近寄ってきた。彼は洋服を着ていて髭がなく、建物の中にいたドクターフー本人のように仙人ひげは生えていない。
「これが私の父がここを訪れた人たちとの撮った写真です。こちらは、紹介された本や雑誌です。アメリカやヨーロッパ、中国のものもあります。ぜひ見て下さい」


 そういってアルバム三、四冊と雑記帳二、三冊を持ってきた。アルバムにはドクター・フーの親子あと孫ふたりや子供の母親も一緒に写っている写真があったり外国人と一緒に写ってる写真とかが大部分だった。その他は上の孫が赤ん坊のときの写真だった。僕が孫の写真に視線を移すと、幼稚園の年長さんぐらいの男の子が、「イッツ・ミー」と来た客に説明していた。
 続けてみせられたのは、ドクター・フーのことが紹介された英語の新聞の切り抜き、飛行機の機内誌の記事、中国の新聞の記事。それはドクター・フーが今までいかに苦労して今の漢方医院を作ったかということが書かれているようだった。
 僕は戸惑った。別に彼の紹介物を見たくてここに来たわけではないのだ。確かに本人と会って写真を撮ってみたいというミーハーな気持ちはあった。だからといって、考えさせる間もなく、わーっと資料は見せられたくはない。
 なんだかなあと思いつつも、記事やアルバムを眺める。すると他の西洋人の応対に忙しい息子に代わって、ドクター・フー本人がお茶を入れてくれた。白い帽子に白衣姿。あごには長いあごひげを蓄えている。まるで白衣を着た仙人のような出で立ちだ。年齢は六〇代後半なのだというがまだまだ元気そうだ。
 先生のいれてくれたお茶は表面を見て少しぎょっとした。というのもに木くずのようなものが無数に浮いていたからだ。なんだこれは。ゴミがたくさん浮いてるぞと思ったら「これはハーブティーです」とドクターは穏やかな調子で言ったのだった。つまりそれこそが薬なのだ。
 実のところ、一口飲むと胃がスッとして温まる感じがした。そのときやや風邪気味だったので僕には良い薬となった。
 なんだいい人じゃないか。僕は考えをやや改めた。事実、英語版と日本語版と分けられている雑記帳には、「ドクター・フーは徳の高い人です、来てよかった」という感謝の心ばかりが多く記されていて、けなす者はごく少数だった。
 ちょうど中にいたイギリス人女性は風邪気味らしく見てもらっていた。体の調子が悪いわけではないので僕は見てもらわない。そのかわりさっきのませてもらったハーブティーの葉っぱを分けてもらった。「いくらですか」と聞いたら「どうぞあなたの好きなように」とドクター・フーが言った。相場がわからないままに五元払った。本当はもっと安いのだろうけど。
 なんだか引っかかる訪問だった。なので、お茶の葉っぱを買ってから外でしばらく様子を見ることにした。すると、決まって自転車で白人観光客が二、三人現れた。その都度、息子がハーブティーを振る舞い、アルバムと雑記帳を見せびらかして、ドクター・フーの苦労話を披露したり、ときにはご本人が、息子よりは控えめにだが、苦労話を披露したりしていた。そして孫は孫でカメラを向けるとポーズをとるし、赤ん坊の自分の写真を指さして「これは僕だよ」とまた紹介していた。
 そうした様子を見て、思い込みなのかも知れないが、複雑な気分になった。彼もまた改革開放によって、人生が変わっちゃった一人なのかもしれない――そう思えたのだ。

桃源郷という名の末路 大理

2018年の城門

 ドクター・フーが住む白沙村を訪れた数日後、バスで大理へ移動した。大理の玄関口である下関までは下道をバスで二〇〇キロあまり。朝に出ると午後の早いうちに着く。僕が買った切符は午前七時発。こういうとき、バスターミナルの横のホテルという立地は便利だ。とはいえバスに乗ったらそのまま直行するわけではない。近くの別の町のバスターミナルへボロボロの連絡用バスで向かう。そのバスには「連絡用」と言うことを示す英語の表示はない。あるのは漢字のみだ。とはいえ西洋人の旅行者はたくさんいる。こののままだと彼らは読めない。そこで彼らは漢字が読めそうな僕に、「これは大理へ行くのか?」と英語で聞いてくるのだった。しかも何人かから聞かれた。
 麗江から大理までは標高四〇〇メートルは下り、予定通り、昼過ぎに到着した。標高は約二〇〇〇メートル。昆明よりは一〇〇メートル高い。昆明が春城と呼ばれ、その快適さで評判なのだ。大理の気候は快適に決まっていた。
 到着すこし前、トイレ休憩だったのか、大理少し前の洱源というところあたりで、バスが停車した。そのときバスには、ペー族らしき、カラフルな民族衣装をまとった女性たちが駆け寄ってきて。窓に張り付いた。窓の外からなにやら叫んだり。乗り込んで売ろうとしたり。実に商魂たくましかった。
 ペー族とは人口一五九万人を有する、その大多数が大理周辺に住む民族のことだ。唐の時代、ペー族とイ族(サニ族を含む)が七三八年、南詔国をつくった。唐王朝の支持を受け、南詔国は雲南全域を統治するようになる。その後、九〇二年に南詔国は消滅する。そしてペー族系の段氏が、大理国を建国し、一三九〇年まで統治を続けた。
 中国に取り込まれず、六〇〇年以上もの間、独立した国が存在しただけあってペー族の文化は衣食住とどれをとってもかなり豊かだ。
 例えば女性の衣装がそうだ。頭には髪飾り。髪飾りは非常に大きくて、つけた状態で前から見ると帽子にしか見えない。しかし実際には花など色とりどりの、幅一〇センチほどはありそうな、太い帯のようなものを頭に巻きつけている。右側でとめるようになっている袖なしの赤いベスト(年を取った女性は青を着ている場合が多い)。その赤いベストのようなものの下には長袖の白いシャツで下はスラックスという姿。男性はナシ族同様に人民服だったり洋服だったりするが。
 食に関してはきのこなどご当地特産の食材を使ったペー族料理があるようだ。建物に関してもそうだ。大理の町の中心部は城壁と二つの城郭からなる城門がいまもしっかりと残っている。城壁の外には、濃い群青の瓦がふかれた白い石壁の立派な建物が並んでいる。その白い壁は、町の名前と同じ大理石で作られているという。これまでのような、高床式の住宅であったり木造の建物よりもずっと頑丈に作られているようなのだ。
 午後の早い時間に到着する。大理の城門の外に下ろされると、僕は他の西洋人たちと一緒に場内へと歩いて行くことにした。
 大阪城と二条城の間というか、天安門を三分の一ほどにスケールダウンした、城郭をくぐると車が通れないぐらい道の狭い、城内へと入っていく。そこには二階建ての建物が並んでいて、食堂や商店などがぎっしりと並んでいた。道が狭いだけあって、車は通っておらず、それだけでも往年の雰囲気があり、タイムスリップ感が味わえた。
 城内を五分ほど歩くと英語の看板が見えてきた。それをみた同行のスイス人女性は、「ここが第二招待所よ」と英語で言った。その第二招待所、僕はよくわかっていなかったが、バックパッカーのたまり場らしい。今は改名して紅山茶賓館というらしい。
 彼らと離れて、わざわざ別のところを探して歩くのも大変そうだ。外国人が宿泊できる宿が制限されているのだ。そんなことをしても無駄骨に終わるかもしれない。であれば宿の周りのお店で食事、旅行の手配と何かと便利なその宿で十分だ。
 宿のドミトリーにさっそく荷物を置いて、宿の前にあるカフェにさっそく出かけてみた。そのカフェとは、マリーズ・カフェ、チベッタン・カフェ、ハッピー・レストラン、ラッキー・カフェが代表格。宿の前の通りはそうしたカフェが点在していた。
 このとき確か、チェックインもせずに昼ご飯を食べるだけのつもりでチベッタン・カフェに入った。四人がけのテーブルが四つほど置いてある狭い店内の奥にダライ・ラマ一四世の写真が飾ってあった。メニューにはバター茶、ツァンパ(麦こがし)などというチベット料理のほか、ステーキなどの西洋料理、そして、すき焼きやカツ丼などの日本料理。一品は五元から一〇元と中国人向けの食堂よりはやや高い。
 店内には、ずっと英米のロックが流れていた。これはバックパッカーが置いていったものだろうか。普通にビートルズが流れていたが、成都~昆明間で乗り合わせた学生たちはビートルズを知らなかったのだ。とすると旅行者たちが置いていったミュージックテープをBGMとして再利用しているのだろう。
 そこまで同行していたスイス人夫婦と別れてテーブルに着いた。というのも、景洪で会った学生と再会したからだ。(彼のことを再会くんと呼ぶ)。

 
 さっそくカツ丼を頼んだのだと思う。しかしでき映えは微妙で、味付けの醤油が濃すぎたし、味噌が味噌でなくて豆板醤だったりとところどころ違っていたのだ。だがこの中途半端さが面白く感じられた。同席していた旅行者、再会くんは言った。
「カフェとか旅行者間でいろいろあるんだって。近くにマリーズ・カフェってあるでしょ。あそこはともともジムズ・カフェだったんだけど店名変わったらしいよ」
 ジムさんは客としてきた、イギリス人女性バックパッカーに手を出したため、マリーさんと離婚。浮気したジムさんをマリーさんが追い出して店の名前も変えてしまったのだ。そういったホテルやカフェの店員とバックパッカーとの恋愛の話はいくつかあって、店員の何人は結婚して欧米へ移住してしまったらしい。

 夕方になってようやくカフェを抜け出し、第二招待所へ向かった。すると、ホテルの入口正面にたくさんのペー族女性がいるではないか。民族衣装姿の彼女たちは総勢六名。花や金魚柄の幾何学模様のポシェットやシルバーの腕輪、毛沢東バッジなどのお土産を手に声をかけてきた。彼女たちは下は一五、六歳から四〇過ぎの中年女性までの六人で構成されていた。
「毎日固まって、客引きをしているんですよ。ときには門の前だけじゃなくて、ホテルの中に入ってきてまで物を売ろうとする。彼女たち、ウルトラ六姉妹と呼ばれてる」と再会くんは解説してくれた。
「最初、一人で来てたまたま儲かった。その噂を聞きつけて次々と増えてきたんだって」
 ペー族と少しぐらいは話したかった僕は、昆明のサニ族のように、日本語が通じるものだと思って気安く言った。
「これいくら?」「不明白」
 と中国語で返事がきた。意外なことに彼女たちは六人とも日本語を話さない。
「彼女たち、英語も話さないよ。それで陰では「小日本」と言って日本人のことをバカにしたりしてるの」
「サニ族のように友好的ではないんや。あくまで商売で来てるんやな。わかりました」
 可愛げのないウルトラ六姉妹の並びには、麦わら帽をかぶって座っている男がいた。靴磨きらしい。「二元?」と中国語で言いながら指を二本立てた。ちょうどこのとき、履いていたスニーカーが二ヶ月近く使いっぱなしだった。履き続け、洗いもしていなかったのだ。二元だという安さもあって、じゃあ任せてみるかと思った。
 僕は彼の目を見て頷き、そして台に足を乗せた。
 靴墨を靴につけ磨き始める。磨くと同時にかかとの減り具合を僕に指摘してくる。そしてちょっとだからといってすぐかかとの減った部分を直してくれた。タイヤの切れ端をハサミやヤスリで加工してボンドでくっつける。そして釘を打ち付けた。それが終わると次は靴の破れを手押し車式のミシンで直してくれた。たった二元なのにずいぶんサービスしてくれるなあと思っていたらどっこい一二元だった。ちょっとやられたと感じた。

三塔とペー族の子供たち  大理


 翌九月一三日はホテルで自転車を借りて湖の方へ行ってみた。街から適当に湖方向へこいで行くと田んぼとペー族の集落。ペー族の女性が民族衣装のまま農作業をしている。ちょうど稲刈りの時期らしく、刈られた稲があぜ道に積み重ねられていた。気候でいえば一期作だろう。ここは二期作はできないとみた。同じ雲南省でも気候が全然違う。村落にはあい変わらず石造りの背の高い塀が連なっていた。
 子供たちが何やら遊んでいる。街を出てからは舗装されていない。でこぼこした道が続いた。
 湖が見えてきた。湖に注ぐ小川か運河が道を阻む。両脇の人ひとり分ぐらいしか通れない道しか進めない。だがその道がまた混雑していた。リヤカーで稲を運ぶおじさんが通るからだ。道が広がっているところまで引き返さなければならなかった。
 そうして何度か立ち止まり引き返しつつ進んでいると突然子供たちの攻撃を受けた。何かと思って攻撃してきた方向つまり左側を向くと何やら五人ぐらいが稲刈りで出たわらを投げてきたのだった。中にはバッタを何匹か投げてくるガキもいた。別に悪意を持ってやってるわけではなかった。その顔は外国人を珍しがっているというような感じで面白半分にちょっかいをかけてきているという感じだった。なので僕も面白がって応戦した。こっちが気がするぐらい攻撃が強くなってきたので逃げる。くっついたバッタがTシャツにうんちをしてシミがつくというのも困った。
 そのときペー族の大人があらわれた。どうやら子供たちの親らしい。これでようやく子供たちの攻撃はおさまった。その攻撃を受けた地点からは自転車で行けるような道はなく徒歩で自転車を押していくしかなかった。そしてやっと湖畔に着いた。すると別の子供たちに服をを引っ張られる。何かと思ってついていったら露天の茶店だった。湖畔には情緒などありはしない。そのとき自転車を引っ張られたんじゃなくてそこに自転車を置いて歩いて茶店まで行ったのだった。そして自転車に自転車のところに戻ってみたら草がどっさり乗せられているのに気がついたのだった。
 続いて三塔を見に行った。これは大理のシンボル的な存在で正式名称を崇聖寺三塔という。九世紀にできたとされているが正式な時期はわかっていない。真ん中が高く、素材は大理石ではなくレンガ。そこに白い泥を塗っているらしい。
 どこから見えるかわからないので自転車で一旦、町に戻り、そこから公路(麗江と下関を結ぶ)へ出たら見えた。塔は見えたが、今度はどうやった近づけるか、わからず右往左往した。
 公路の山側には大理石を加工する工場が見えた。それで山の麓を迷っているうちにふと目の前に三塔が見下ろせた。塔のある敷地内に入るのに別にお金は要らなかった。無料なのだ。
 敷地に入ると大理石の塔のミニチュアを売っていたり写真屋がいたりした。撮ってもらって後日プリントを送ってくれるらしい。日本でも対応してくれるのだろうか。と思ったが面倒くさくてわざわざ撮ってもらうことはなかった。
 塔そのものはみすぼらしい。三つとも傾いているし、窓のようなところから草が生えている。入れるのかなと思い三つとも一回転して入り口を探したけれど真ん中の一番大きい塔だけコンクリートで入口を塞いだあとがあって、そこからは昔は入れたのかもしれない。塔に登って大理の街を見下ろせるかなと期待していただけに残念だった。三つの塔を全て映るように写真を撮るには近すぎるので少し離れたところにある池の向こう側から、池に三塔が写ってなかなかのもの。だけど地元の子供たちがその池で泳いでいて、鏡映しで撮ることはできなかった。

 日本人バックパッカーの男ばかりが夜、ハッピーレストランに集まることが恒例となった。
 ある日、四、五人ですき焼きを食べたのだが、味噌汁のように辛すぎず普通に美味しかった。白菜など野菜たっぷりで肉もいい。ただ二、三人分では足らなかった。だから誰だったか忘れたが追加注文をした。
「大理ビール(一・七元)、一本、それとあとカツ丼一つ」
 すると三〇歳すぎでリーダー格のミイラさんが言ったのだと思う。
「おお、いいねえ。もっと飲もうぜ」と。彼はずいぶん痩せていて、日焼けもしていない。
「じゃ、僕も一本、ビール」と僕が言った。そして続けた。
「ところでミイラさん、この日本食、味違いますよね。どうやって作ってるんですか」
「冷奴は豆腐だね。醤油はキッコーマン製のものをどこかから仕入れているみたい。だけど味噌汁は味噌じゃなくて豆板醤だね」
「そうなんですか。ところでミイラさん、毎年来てるんですか」
「中国の大理には毎年三ヶ月ほど観光ビザギリギリの期間滞在してる。大麻を吸いたいからね。ものは現地で手に入れるよ。大理の隅々まで見て回りましたからどこに大麻が生えてるか大体目星は把握してる。警察の横の草むらにいいのが生えてるからとりに行けばいいよ」
 ミイラさんは一九七九年ぐらいから海外に出ているらしい。ちなみに彼は蔵前仁一さんの『ゴーゴー・インド』でも紹介されていて、ゴアでヘロイン中毒に苦しむホテルの日本人となっていた。ちなみにその本によると彼は日本ではボストンバッグひとつで暮らしているとのことだった。
「解放のカシュガルは遠かったよ。ウルムチからバスで三泊四日はかかったね。未解放だからね、僕が検問で見つかったらアウト。運転手には悪いけど見つかったら一緒に捕まってもらうことになるよね」と彼は淡々と語ったのだった。
 ミイラさんの話が終わったところで、キタロウさんが切り出した。
「西牟田くんだっけ? きみが持ってきたカセット、かけていい? 上々颱風だって。何これ、面白いね。最高だよ」
 そういって僕がたまたま持っていたカセットを、取り上げて再生してしまったのがキタロウさんだった。彼は髪が腰ぐらいまであって髭が伸び放題。NHKの番組シリーズであるシルクロードのテーマ音楽を担当したミャージシャンの喜多郎に似ているので、僕が勝手にキタロウさんと呼んでいたのだ。
 そんな彼だが、アマゾンを筏下りをしたことがある。そのとき転覆して荷物をすべて失くしたらしい。そしてパスポートを発行して再出発するも、また筏が転覆、またパスポートをなくしてしまったらしい。彼はちなみに五年かけて世界一周をしてるという。
「日本には帰ってるんですか」
「いや、行きっぱなしだからもう五年帰ってないよ」
「えー」
 そこには再会くんもいた。彼は一年かけてアジアを回っている最中でちょうど半年目なのだという。僕と会ったのは景洪で、それ以来、二週間ぶりの再会だった。
 そんな人たちばかりなので、あと有給をフルに使って麗江まで来たという大手電機メーカーのサラリーマンは、堅実だけど話がすごく薄っぺらく聞こえてしまった。もちろんこういう人の方がその後は生活は安定しているのだけど。
「みんなでビールを酌み交わして食べただけど今日会った人たちのうち一年後も僕が彼を覚えているのはほとんどいないだろうな」とミイラさんは言った。だが、彼のことはこうして詳細に描いてしまった。

ポンポン船で向かった大理の琵琶湖 洱海

 週一回だけのバザールに出かけたあくる日(九月一五日)、洱海の遊覧船に乗るツアーに参加した(二八元)。この湖の南北の長さは約四二・六キロ、東西の幅は最大約八キロ、平均深度は一一メートル、最大震度は約二〇メートル。湖岸の形が耳に似ていることから今の名前に落ち着いたのだという。
 ホテル前でワゴン車に乗って湖の船着場まで行った。そこからは船。耕運機のエンジンを使ったモーターボートだった。参加者は六人から一〇人ぐらい乗る船には親子三人が暮らしているみたいだった。夫婦と六歳~八歳ぐらいの男の子が船の中には一応生活できるように鍋などが揃っていた。
 その日は朝から雨が降ったり止んだりホテル前を出発するときに降ってなかったのに船に乗って湖の沖合まで出ると降り出した。湖だというのに波が荒かった。船の高さぐらいは波があって船は上下した。そんなものだからここは独特の反省の群れだとか対岸で雨を引っ張っている継続の女性とか色々見所はあるのだけどもうねりのせいでそれどころじゃなかった。雨や風が強くなってきて船の甲板から客室へ逃げ込んだ。これじゃ景色を楽しむ所じゃない。寺のある島へ行った。そこにはほんと寺しかなくて小さいけど立派だった。二階建てかな。おみくじを試した。寺には誰もいなかったと思う。ちなみに一緒に乗っている人は英語と中国語を喋るシンガポールのカップルだった。
 乗ってる途中ごちそう船で振る舞ってもらった。白いメダカのような小魚だった。そこからは対岸での自由時間。大理の北東にある控色という町。ここは未開放らしいのだけどなぜか行くことができた。着くと偶然バザールにぶち当たった。前日の月曜バザールと売っているものはさして変わらない湖が側だったからだろう魚介類はこっちの方が多かった。さすがにウルトラ六姉妹はここにはいなかった。ポン引らしい人は誰もいない。外国人は僕らのツアー以外はいない。バザールは村の中にも食い込んでいるというか今回は村がバザールの主な会場だった。石造りの家の前に並ぶ露店。ペー族の衣装やタライのドジョウ、散髪や子豚や鶏などが売られていた船着場はまるで家畜売り場のようだった。澄んだ空気というか雰囲気が感じられた。バザールを一通り見てからバザールの通りから脇道へ逸れるすると急に閑散とした。とうもろこしを干している家があった。かばんを持った子供にちょくちょく会い始めたので小学校が近いのかと思って彼らの歩いてくる方向の方へ行ってみたとするとやっぱりそこは学校だった。下校者にはペー族続の衣装の女の子もいるが、ほとんどは洋服。子供たち一〇人ぐらいに囲まれて服を引っ張られたりしてしまった。学校前の池が思い出される。
 その日のうちに夜行バスで昆明へ向かうつもりだったか船に酔ってしまってそれどころでなくなった。控色から大理へ戻ってきて大理石加工工場見てるうちに出発時間が一〇分後に迫ってしまった。船酔いしてフラフラだったので出発前に払い戻しをするため見学を半分で打ち切って切符売り場へ行った。切符売り場横の乗り場にはバスが止まっていて乗車が始まっていた。切符を売ってもらった係の女性が入り口前で切符の検査をしていた。それで彼女に払い戻しできるか聞いてみたけど、素っ気なくダメと言われた。中国人女性にありがちな身も蓋もない冷たい態度に
イラッとして、悪びれずチケットをクシャクシャにした。

 それで翌一六日早朝、バスに乗って、真っ暗なうちにバスで出発した。下関発なのでワゴン車で下関まで行ってそこから乗った。日の出はバスの中で迎えた下関は大きな街ビルも立っているちなみに二人は違うバスだった下関から昆明は四回目にして初めてまともな景色を見た。今までは夜に通過していたから見えなかったが今回は民家があちこちに見えたり山が見えたりして楽しい。旅をしているということを実感させられた時間があるならやっぱり昼の列車とかバスに乗った方がいいなとこのとき思った。
 昆明ではまた茶花賓館に泊まり、そこをベースに今度はベトナム国境を目指したが、当時はまだ未解放だったため、途中の開遠という町まで行ってから、引き返したのだった。そのとき使ったのは昆明北駅という日本と同じ狭軌線路の列車が走る駅だった。車両は通路を挟んで二席×二席というレイアウトで、山を縫って走る旅はのどかで楽しかった。 
 その小旅行から昆明へ帰ってきた僕は、雲南の旅をそろそろ切り上げようと思うようになった。就職先も決まっていたのだ。だからそろそろ大学に戻って授業に出て人並みに卒業しよう。旅の途中で見かけた、何年も日本に帰らず、旅行しようという、それほどのことは僕にはできない。
そんな勇気はない。

 九月二〇日の朝五時、僕は空港の切符売り場へ行った。空港バスに乗る朝五時前にその前に乗ってみると三〇、四〇人がすでに集まっていた。もっと遅い飛行機で出発したらいいのにと思いつつバスで空港へ行った。チェックインするとき荷物を預けねばならなかった、そのとき僕はリュックの他にサニ族かばんを二つ、肩からたすき掛けしていて、それをさらに白いビニール袋に入れて預けて、まとめていた。朝から飛行機が頻発するので空港はごった返していた。出口付近に人が殺到しそのままの状態が続きやきもきさせられた飛行時間は二時間ほどだった。列車で行ったら三泊四日もしくは二泊三日かかるらしいから、なんだかワープしているようだ。広州の空港は列車駅に近く飛行機は駅前のたくさんの地方出身者の盲流の人ごみの動きがはっきり捉えるぐらいの所をかすめ飛んだ。もし落ちたらどうするのだ。

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