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観光公害だこりゃ前編[2018年/大理編/中国の高度成長を旅する#25]

うるさいリムジンバス 大理

 飛行機は予定通り、昼前に所用一時間で大理空港に到着した。二つか三つしかないコンベアのうちのひとつから荷物をピックアップする。回るコンベアの真ん中には外資高級ホテル系の別荘地の看板があった。それをみて私はまたかと思った。というのも景洪の街角に老年度假公寓と記された食事付き高齢者用レジデンスの看板を見ていたからだ。

景洪中心部で見つけた高齢者用レジデンスの看板

 中国の果てにあると言いたくなるこの土地が、富裕層目当ての別荘、食事付きの老人用アパート、高級ホテルといった目的で開発されている。そこには漢民族を中心とした人たちが移住したり、一時滞在したりしていく。
 日本に比べて三、四〇年遅れで経済発展している中国は、高度成長、ハイテク化、高齢化と日本が時間をかけて体験してきた時代をかなり短期間に体験している。しかも、そうした大きな動きに少数民族がいまも多数住んでいる場所が巻き込まれる。ある意味それは明治時代の北海道や戦前の台湾や朝鮮への日本人移住というものもダブってくる。今後、この国はどうなっていくのだろうか。

 空港の外に出ると大理は微妙に空気が薄く、気温も五度以上低かった。大理までは北に四〇〇キロあまり。標高は二一四〇メートルもあるのだ。この空港から大理の観光拠点である大理古城の付近まではリムジンバスが運行している。そのバスをたまたま見つけたので、私は嶋田くんと二人して乗り込んでみた。所要は一時間弱だという。大理古城までのひとときを私は以前も見かけた洱海の風景を楽しもうとしていた。

 ところがだ。乗り込んだとたん、団体旅行の添乗員のようなスーツ姿の若い女性が、通路の一番手前に進行方向背中に向けて立ち、スマホを掲げながら、持ったマイクを口元に添えて何か喋り始めた。
「歓迎光臨! ようこそ大理へいらっしゃいました。私は**です。民族は白族です。この度は大理観光に欠かせないアプリの紹介をさせてください。このプラットフォームを入れさえすればいろんなことができます。皆さんに不快な思いはさせません。ぜひこのプラットフォーム使ってみてください。ここにすべてが入ってます」
 そう言って大理の街の説明はそこそこにプラットフォームの説明をはじめた。それが終わったかと思うと一人一人にアプリの使い方を説明し加入を求めようとする。

「これはクーポンも入っていて便利ですよ」
 外国人が使えないものが多いので、彼女から窓の方に顔を背けるように外を見ると、築一〇年以内という立派なリゾートマンションが林立していることに気がついた。中にはタワーマンション級の二〇階以上のものもあった。外は別荘とかタワマンばかり。バスで大理の中心地へ向かっている道すがらなのに、帰りたくなった。 

 二六年前の大理といえば雲南省の中でも桃源郷に最も近い場所といえるところで、時が止まったようなのんびりとしたところだった。車というよりも耕運機が走り、赤いベストを着た長袖の長ズボンで独特の丸い帽子をかぶった白族の女性たちが農作業していたり、ろうけつ染めをしていたり、洱海で男たちが小さな船で淡水魚をとっていたりした。そうしたのんびりとしたムードにやられるのか。だらだらと何ヶ月も安宿で過ごし、昼はずっとコーヒーショップで過ごし、ときおり古城の外に出て自生している大麻をとりに行っては部屋で吸ったり、というどうしようもないバックパッカーが西洋人だけでなく日本人にもちらほらいた。
 そうしたのんびりな風景とだらだらした旅人のコントラスト。これが大理だったはずだが、今や国内の富裕層や老人たちの移住地になろうとしているのだろうか。もしかすると、以前の桃源郷のような風景は幻だったんじゃないか。私は暗澹とした気持ちで車窓を眺めた。


拡張された三塔 大理

 大理古城の南門の前でバスは止まった。四角い城壁の真ん中に紫禁城の入口を小型化したようなものが乗っかっていて、以前は朽ち果てそうな素朴さがあった。しかし城郭には旗竿がいっぱい立っていて、なんだかデパートの屋上の遊技場のようだ。

 城の中のお店は建物の規格が決まっていて取り壊しようがないためか、同じような幅で店が並んでいた。しかし当時と店という店がまったく違う。景観に合わせて木造の建物の中に茶色い看板というマクドナルド、Tシャツ屋、お土産屋、旅行社、テイクアウト方式のケンタッキーフライドチキン。

国内の観光客だらけ。自撮り棒を持ったおばさんやお姉さんがよそ行きの格好で買い物したり、自撮り棒で撮影をしたりしている。外国人のバックパッカーはカフェに若い白人男子がポツンと一人いるぐらいで、かつて桃源郷だった時代の雰囲気はもはやない。白族の衣装を着た女性はいるが化粧が濃く、いかにも観光用に着ている人が多かった。洋服だからと言うのもあるが、古城の中はまるで漢民族に乗っ取られたかのようだ。

マクドナルド


 大理市の人口動態はどうだろうか。
 日本の国税調査に当たる人口普査によると、同二〇〇〇年第五次全国人口普查では五七万六二二四人だったのに対し、二〇一〇年度の第六次では六五万二〇四八人と約七・六万人増えている。(二〇一七年時点で六七万三四〇〇人)。白族は六次調査では約三九・三万人で六〇・四%、漢民族は約二〇・八万人で三一・九%と白族が多数を占める。しかしその人口の変化を見ると、漢民族は二一・七%増えているのに対し、各少数民族は九・五二%の伸びに留まっている。その数字だけ見ても漢民族の激増ぶりがわかる。古城は観光地だから、余計に漢族が多くなる傾向にあるようだ。古城の中は漢族に乗っ取られたということなのだろうか。

 歩いて一五分ほどで今日泊まる予定のユースホステルに着いた。ここも元々の建物を生かした古城の中の建物の一部を使っている。中庭のある、けっこう複雑な形をしていて部屋はドミトリーの二階だった。六人部屋のドミトリーには、一人ぐらい外国人がいるのかと思ったら他三人は全員中国人だった。彼らは私が九〇年代前半に訪ねたときのような、世捨て人という感じではなくて費用は安くするけども健全な雰囲気はあるような感じだった。そのうち一人は、タバコを吸っているギャル男くん。沿岸部の山東省から来たという彼は、ちょっとへなっとしているのに、影があって怒らせると何をしでかすか分からない、そんな雰囲気があった。

 荷物置いてちょっと一休みだけしてすぐに出て外を歩いた。白族の伝統料理レストランに入って食べた。お好み焼きのような卵焼き風のもの、名物のタニシの小鍋、炸乳扇という甘い砂糖ふりかけたミルク味の揚げクレープ。一人分で一〇〇〇円ほどと観光客プライスだ。


 そしてその後、三塔へ向かって歩いて行った。三〇分も歩くとローカルな雰囲気になってきた。様々なきのこ、例えば傘のすごく大きいキノコやトリュフのようなまん丸な黒いものなどの店、菱の実を売っている店、生きためんどりを数十匹檻の中に入れたまま売っている店など。先には大理石の加工する工場兼販売店があった。

 そこから二〇分ほど歩くと、三塔倒影公園と記されている岩表札が見えてきた。塔をただ見るだけだから無料なのだろうと思っていたら、受付で一二一元を請求された。これは以前の五〇〇倍ぐらいの値段じゃないだろうか。塔しか見れないのに高い! と思ったら勘違いだった。唐の時代に建てられた崇聖寺(すうせいじ)が三塔の近くに復元されていたのだ。西部大開発は観光開発にも力を入れている。この寺もその成果と見て良いのだろう。
  唐や宋の時代に独立国として栄えた南紹国~大理国の王室の菩提寺だった。一二五三年、モンゴル帝国(元)が雲南・大理遠征を実施、翌五四年に大理国は降伏、さらには一三八二年、明によって大理国は直接統治下に置かれた。今もある大理古城はこのとき建設されたものだ。

 それ以降、漢民族が大量に流入し中国化が進んでも、崇聖寺は残っていた。清の時代、戦火や地震によって寺が廃れ、二一世紀に入るころまでは、長らく塔だけが残っていた。そんな寺が復元されたのは高度経済後の二〇〇五年のことだ。

 入り口からゴルフカートの巨大版のような電気自動車に乗って行く。そして南紹国や大理国の栄華が偲ばれる寺院が見学できた。中には外国から来た僧侶もいて、まだできて十数年だというのに西双版納の告庄西双景の仏塔とは違って、霊験あらたかな感じがした。

 嶋田くんが三、四メートルはありそうな仏像の前に敷かれた座布団に膝をついて、頭の上で両手を合唱して土下座をするようにして祈った。
「これが中国式のお祈りなんですよ」
 私も真似をして祈ってみた。もちろん娘のこと、旅の無事を祈った。
 金剛力士がいたり、青いチベットっぽい仏様がいたり、独特で面白い頭がつるつるしたお腹が出っ張った布袋さんもいる。阿修羅もいるし、あと願掛けの札もある。そして行けるところでの一番奥には両性具有らしき立派な観音があった。


消えた日本料理/朝パックするギャル男 大理

 日が暮れると昼間見つけていた太白楼(STAR CAFE SINCE1986)へ行った。ここは二階に店名を記した提灯があるお店。このあたりは私が二六年前の八月末に毎日いたところで、バックパッカーだらけだったところだ。
 混んでいる一階を避け二階へ上がると、窓側のテーブルには三〇代だから六〇代といった西洋人の男女が六人ほどいた。男性は髭を蓄えていてヘミングウェイのようで、いかにもバックパック旅行が好きな感じ。聞き耳を立てていると九〇年代の大理がどうだったかということを話していた。当時の思い出を聞こうかと機会をうかがっていたがずっと話し込んでいる。
 メニューを見ると、パンケーキやピザ、白族の料理におかゆ、チョウメン、西洋料理と種類だけでも五〇種類以上はありそうだった。しかしかつてこの店の売りだったカツ丼やすき焼きなどの日本料理がメニューに記されていない。なのでチョウメンとピザを食べた。そこそこ美味しかったが、物足りない。当時、本当にここで日本料理を食べたのだろうか。私の記憶違いだろうか。
 食後、私たちは階段を降りて、若いスタッフに話しかけた。
「私はここに二六年前に来たんですよ。当時を知るスタッフはいますか」
 すると「そこに老板(社長)がいるよ」と言ってくれた。
 オープンテラスよりも手前に座るアラフィフの男性三、四人組。そのうちの一人が老板だった。彼は映画俳優のサモハンキンポーみたいな感じの人だった。「ようこそ、よく来られました」と言ってがっちり握手してきた。
「あなたは九二年に来たんですか? この場所は第二招待所すぐそばにありました。当時うちに日本食を食べに来たんですよね}
 それを聞いて、記憶違いでなかったことに安堵した。
 まずはこの店の沿革を聞くことにした。
 当時、彼はこの店の切り盛りはしておらず、経営するようになったのは九五年からだという。しかし顔は出していたようで、そのころのことを大変よく知っていた。
「大理は一九八四年に外国人に開放されました。この店を祖父が開業したのは一九八六年。当時はお茶を売る店でした。外国からやってくるバックパッカーたちが集うようになったので、料理を出すようになりました」
 当時、大理は外国から来たバックパッカーだらけ。日本人は特に多く、八〇年代後半から九〇年代にかけては他の国の旅行者を圧倒していた。
「なんで日本食を出すようになったかって? 日本の長期滞在者が作る日本料理。これを見よう見まねで作って出してみたのがきっかけです。調味料などで手に入らないものもあったから、あるもので代用したりとか、日本から持ってきてもらったりしたって祖父には聞いてますね」
 私は当時、似てるようでどこかが違う大理の日本料理が大好きだった。それは彼らの創意工夫が感じられたからだ。なるほどこうした裏話があったのかと私は膝を叩いた。
 当時は英語と日本語のメニューがあって日本料理を出していた。味噌汁、寿司、天ぷら、すき焼き、カツ丼、焼き飯、親子丼、すき焼き丼。日本酒に梅酒も出していたという。
 老板の話す通り、私を含め日本人旅行者は当時、確かに多かった。その名残は店内に濃厚に残っている。例えば、コルクボードのようなものに貼り付けられた、油でギトギトになりセピア色に変色した写真に日本人バックパッカーたちが写っていたり、木の柱には雑誌『旅行人』の表紙が貼り付けられ、経年劣化し柱と一体化しようとしていたりするのだ。

 また先代のオーナーであるおじいさんがいたころ、つまり九〇年代前半までの古い蔵書店内に置かれていた。旅行記など日本語のものが多く日本人がいかにこの町に来たのか、そして読み捨てて行ったのかっていうことが一目瞭然だった。
「彼らには日本語を教えてもらったり、逆に我々が中国語を教えたりしていました。日本人が多かったから、何人か店員さんがバックパッカーと結婚しましたね」
 日本人の多さと交流の深さについては、老板とテーブルを囲んでいた他の人も話した。
「当時、大理は本当に日本人が多かった。中には白族と結婚した日本人もいましたね」
 そう話すのは九〇年代前半ごろ、この界隈で働いていた五〇代の男性だ。彼はTシャツを着たちょっとパンクっぽい恰好をしていた。
「結局は、政治なんて関係ないですよ。人との人との交流がすべてです。私は当時日本語を勉強して話してました」
 同様に老板と飲んでいた痩せ形アラフィフ男性がそう話す。彼はネパールTシャツを着ている。
 不思議なのは、日本料理がなぜ消え、日本人バックパッカーがいなくなったのかだ。
「反日感情が強くなって日本料理が出せなくなった。作ろうと思えば今も作れますけどね」
 ネパールTシャツの男性は言う。
「当時は日本語が話せましたけど今はほとんど話せない。やっぱり忘れちゃうんですね」と。
 日本語を話すだけで、マズい状況がかつてあったということだろうか。確かに二〇〇五年ごろ、中国では反日暴動がよく起こった。それが大理にも一時飛び火したのだろうか。
 ではなぜ外国人が減り、国内旅行者ばかりになったのだろうか。それについては、現在、ニュージーランドに住んでて一時帰国中のモト冬樹に似た男性が話してくれた。
「今、バックパッカーがいないのは、物価が上がったのが決定的です」
 この四人ともが外国人がたくさん来ていた時代のことをすごく懐かしがってくれた。だらだらとした無理な青春を過ごしている外国人に対し、彼らはなかなか触れることのできない外国というものを、バックパッカーと交流することで知ったのだろう。もしかすると、彼らの方が実はいい思い出だったりするんじゃないだろうか。
 太白楼の関係者であるアラフィフの人たち。私の著書と作家さんの著書そしてオーナーのおじいさんが書いた本を交換しあった。そして並んで記念撮影をした。ここでもやはり北京の僑園飯店や昆明の茶花賓館のスタッフと同様、九〇年代前半の特別な時代を過ごしたという人種や国籍を超えた連帯感があった。

 四人と一緒に記念撮影をする私を見て嶋田くんは感心するように言った。
「今とずいぶん違いますね。中国人、外国人ともに安宿で会ったとしても旅行者同士で交流しないですよ。今やバーチャルで交流できますからね」
 同じ部屋で外国人と不完全な意思疎通をするよりは、スマホを使ってのピンポイントな交流をしたほうがいいというのだ。

 ドミトリー同室のギャル男くんは朝になって帰ってきたようだ。私が目を覚ましたとき、彼は下段のベッドに座っていて、男なのに顔にはパックがしてあった。
 起き上がって、嶋田くんを伴って話をした。「昨日はなぜ帰ってこなかったの」と聞くと、
「昨日は出会い系サイトで知り合った女とセックスしたんですよ」と平然と言った。彼はヤリチンのギャル男だったのだ。
 なぜ出会い系サイトでやれるかというと、登録している者同士、誰が近くにいるかの一覧で出るという。相手を選んで連絡を取り合って、実際に会い、合意したというわけだ。中国の出会い系サイトは日本と違って、プライパシーが筒抜けなのだ。その分、犯罪に利用される可能性があるが、気にしないらしい。
 嶋田くんが話す通り、中国を旅行するバックパッカーは外国人よりも中国人、リアルな出会いよりもまずはバーチャルな出会い、旅よりも性欲――というものが優先されるのだろうか。旅行に求めるものの違いに私は混乱した。
 では、いったいこの宿に泊まっているのはどんな層なのか。ユースホステルの四〇代とおぼしき女性オーナーに話を聞いてみた。
「オープンした一〇年前は、日本人がたくさん泊まってました。中には一カ月月沈没してる人がいるほどでしたけど、今はほとんどいないですね。お客さんは国内の人たちが中心です」
 いなくなったのは日本人だけではなく西洋人のバックパッカーもらしい。

人で埋めつくされた観光船 大理

 琵琶湖の三分の一ほどの大きさで、霞ヶ浦よりは大きい洱海。それを琵琶湖のミシガンか、箱根の芦ノ湖の遊覧船か、いやそれよりもかなり大きなスケールのいっぺんに数千人は運べるような五階建ての船で、湖を午後までの数時間、回ってみた。
 出航したのは午前一〇時前だった。乗っているのは漢民族のそこそこお金を持っている人たちだった。スマートフォンでの自撮りに飽き足らず日本製のキャノンやニコンといったメーカーの一眼デジカメに一〇万以上の立派なレンズをつけてとっているシニアが何人もいる。

 湖の風景自体は非常に風光明媚で美しいのだが、船内はとにかく人が多く屋内に入ろうとすればチャージがかかり、外のデッキは標高二〇〇〇メートル以上だけに紫外線たっぷりの日差しが降りかかり、一気に汗が出てきて不快極まりない。しかも船は乗客で満載の状態なので座る場所も満足に見つけられない。なのでときおり、立ったり座ったりした。

 午前一一時ごろ、小普陀という祠のようなものがある小さな島に到着した。二六年前もこの島には来ているはず。徒歩数分で一周小さな島で、いるだけで心が洗われるような静けさと風光明媚さ、心洗われるような雰囲気があった。

 ところが今回は状況が全然違っていた。ひととおり乗客が上陸すると、島はたちまち渋谷のスクランブル交差点のように混み合った。
 我々を待っていたのは、島の対岸に住んでいる漁民の奥さんらしき人たち。柑橘類やスイカ、鳥の姿焼き、魚の丸焼き、エビ、タニシなどたくさんの食べ物を串刺しにして売っていた。ここが稼ぎどきなのだろう。大挙してやってきた乗客に対し、「一串○○元だよ」などと声を張り上げる。素朴な顔をした村人たちが、短い時間の間に売ろうとするのだ。が上陸時間はたったの一〇分と時間がなさすぎる。ほとんどのものは売れ残ったまま、作った料理は山盛り状態のまま。船に二〇〇〇人あまりの人たちが戻った。

 小さな島から戻った後、デッキで五〇代の日本人に会った。彼は広州在住の元バックパッカー。普段は現地の会社で働き、暇を見つけては中国各地をバックパッカーとして旅しているという。
「天安門事件の起こった八九年にカシュガルまで行きました。ウルムチからバスで三泊四日。やっとの思いでたどりつきました。ところが、到着すると漢字が理解できなさそうな青い目の女性がいて筆談が通じなさそうなんです。とんでもないところに来たって思い、乗ってきたバスでそのままウルムチまで折り返しました」
 火車(列車)の切符を買うのに何日も並んでやっとの思いをして移動する――という私以上に過酷な経験を彼はしていた。
「北京の僑園飯店、懐かしいですね。私も泊まりましたよ。あの当時会った人たちの手紙とか地球の歩き方とか全部取ってます。でも当時、全然写真を撮ってないんですよね」
 その話を聞いて私は自分が写真を撮っておいて良かったと思った。自分が記憶していても、相手の写真がなければ、会いに行ったとしても説得力にかけるからだ。
「私もあなたのように、当時会った人たちを訪ねてシルクロードの旅行をしたいです」
 私は彼の旅行を応援したいと思った私は「ぜひ実現してくださいよ」と言った。
 そのときはまさか、ウルムチやトルファンといったシルクロードのエリアが、セキュリティがガチガチの、ある意味『マッドマックス』のような、またはオーウェルの『1984』のようなディストピアのような場所になっているということを全然わかっていなかった。

 南詔風情島というもう一つの寄港地は小一時間立ち寄った。そこそこの広さがあって島の上には小乗仏教にいるような仏像が立っていた。観音らしい願掛け様の御札が売られていたり、その観音に対して昨日同様に座布団が置かれていて、そこの前で祈ることができたりした。ポタラ宮のような建物があったり、記念撮影用の窓枠のようなものが湖の前に不自然に置いてあって、それを使って凝ったポースで記念撮影をする人たちがたくさんいた。

 みんななぜかそこの前では両手を広げたり頬杖をついたりして撮っている。その島は小一時間いた。その島を出ると二〇分ほどで大理古城の北側にある船着き場に到着した。到着したのは午後一時ごろだった。

 しかしとにかく、観光客が受け入れ側の人数をはるかに超える数の人たちが来ていて、本来の風光明媚な明媚な桃源郷的な雰囲気というのが台無しになっていた。
 午後一時に船は洱海桃源码头という洱海北部の港に到着し、クルーズは終了となった。

 湖ツアーを終えた後、ごちゃごちゃとたくさん止まって客待ちをしている乗合のワゴン車のうちの一つに乗って三〇分かけて南下、大理古城に戻ってきた。
 その後は一路、麗江行きの大型バスへ乗ることになっていた。大理古城の中は乗用車の乗り入れが禁止されているので、一部の道路のみ走っている電動カートに宿のそばから乗ってバス乗り場まで行くことになった。
 カートまで案内してくれたのは宿で働く二〇代の若い女性だった。彼女は洋服を着ていて、自分から名乗り出なければ、彼女が白族だということはわからなかった。その彼女が、電動カートの運転手に言ったのは、「この韓国人二人は麗江行きのバスに乗りたいそうなのでそこまで送って」という言葉であった。

 私はその言葉に愕然とした。
 日本風の料理が食べられて、半年間ずっと滞在でき、町のそこら中に大麻が生えていた。不健全で貧しくてどうしようもなくて、だけども居心地の良かった大理の町が、すっかり観光地化された漢民族だらけの街に変わった上に、日本人という素性を隠さないとどこからから攻撃されるかもしれないという、そんな街になってしまったことに。
 一九九四年、時の江沢民政権は、国の体制を維持安定させるため、大規模な愛国主義キャンペーンを開始した。そのときキャンペーンのやり玉に揚げられたのが「日本の中国侵略」であった。抗日戦争を指導し中国民族を存亡の淵から救った中国共産党こそが中国を治めることができると強調したのだ。 その後、二〇〇五年、二〇一〇年と各地で反日デモが盛り上がった。しかしこれは一党独裁で直接、政権批判ができない中国で、「愛国無罪」を叫ぶことでデモを成立させている。つまりは不満の隠れ蓑として「反日」が利用されているというのだ。
 景洪や大理などといった、雲南の観光地で反日の話を聞くというのはどういうことなのだろうか。経済力が上がったため日本人を軽んじているのだろうか。それとも、中国各地からこれら観光地にチャンスを求めてやってきた人びとが、自分たちの安定しない境遇を反日感情によって紛らわせているのだろうか。大理がここまで反日的になったのは、それだけ恵まれない、日本のことを直接は知らない地方出身者が、それだけ大理に住みついた証なのかも知れない。


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