村のど真ん中に通っていた幹線道路[2018年/西双版納編その4/中国の高度成長を旅する#24]
村は消えてしまった? その3 勐罕(橄榄坝)/巴拉村
四日目は朝から勐罕(モンハン)、つまり橄榄坝(ガンランパ)へ行った。この場所へはメコン川沿いに南東方向に約三〇キロ入ったところにある。バスは景洪中心部を出て、アーチ橋を渡った。そこからずっと澜沧江沿いを約一時間かかった。その道すがらは両側が山となりけっこう険しい。
先ほどまでは新しいビルが並び立つ街があったのに、一転して「地獄の黙示録」の世界。カーツ大佐がジャングルに築いている王国へ行く道すがらのようだ。
二六年前のことを思い出してみる。車がほとんど通らない民族衣装のタイ族の女性が自転車に乗って連れ立って行き交っていたり、市外の黒豚がブヒブヒと歩き回って街路樹のヤシのたもとで丸くなってたり。夜になるとほぼ真っ暗でバンブーハウスという二階建ての高床式の建物のところで名物おじさんの元に集まった日本人バックパッカーたちとタイ族料理に舌鼓を打ちながら、長い夜を過ごしたりもした。またメコン川の対岸とを結ぶ私胸が行き交う様子をみたり、熱帯の果物やナレズシなど地域色の強い食べ物を筆談すらもできないおばさんたちとなんとか値段交渉してに入れたりという楽しみもあった。
勐罕つまり橄榄坝に到着すると、それなりに開発はされていた。道路はちゃんと舗装され車通りもちょこちょこあって、二階建て三階建てと小さいながらも市場がビルになっていて、携帯ショップまである。バンブーハウスは一九九〇年代のうちにおじさんが病気にかかったため、娘が受け継ぎその店も今なくなってしまっていて、のどかな雰囲気は薄れていた。それでも歩いてに三〇分もあれば満足に回れてしまう小さい町なので、私が買って記念撮影をした常に農産物や肉などがコンクリートの上にずらっと置かれた市場の入口や、黒豚が丸まっているヤシの木の並木の位置、そしてメコン川の反対へと続く私船の乗り場などが全て特定できた。
放し飼いの豚はもはやいないし、道は舗装されている。ハエがブンブン飛んでいるような不衛生さもない。
豚の丸まっている場所はバス乗り場や市場の入り口があるメインストリートから数分歩いた、枝分かれした場所にあった。五、六〇代のおじさんたちが写真を見せたところ「この場所だよ。だけどこのプリントずいぶん発色がきれいだね」と言って褒めてくれた。
渡し船乗り場を訪ねる。するとちょうど船が到着したばかりだった。渡し船は自転車だけでなくオートバイなども乗れるようになっていてまるで第二次大戦中のLSTのようだ。流れはすさまじく早くエンジンを切っているとものの数秒で一〇メートルぐらい流されてしまう。
メコン川の対岸に行けば、私がかつて訪れようとして村人であるおじさんに止められたハニ族の村があるはずだったが、対談は相変わらず緑で覆われていて開発された様子がなく、それだけに行ってはいけないような聖域がそこに広がってるような気がして、眺めるだけに留めた。
その後、景洪にタクシーで戻って、さらに別のタクシーで一昨日出かけた高台の幹線道路沿いにある巴拉村へ出かけた。若い運転手はビビっていて、嶋田くんにずっと話しっぱなしだった。巴拉村のすぐ先に勐海入口の検問があるからだ。すると、ビビっているがあまり運転手は村のゲートを通り過ぎてしまった。慌てて、私は「ストップストップ」と後部座席で叫んだ。
タクシーを二人で降りて幹線道路を景洪方面へ歩いて行く。こんなところに歩行者はいないので不自然だ。とそのとき、嶋田くんは私に警告した。
「カメラをしまって下さい。道路の頭上に監視カメラが付いていて、危険です。最悪データをすべて消去させられますよ」
監視カメラはこれまで中国のあちこちで見かけてきた。しかし、こんな田舎に設置されているのは確かに変だ。これから向かう村へ向かう人たちを監視したりしているのだろうか。とすると、昨日私が昨日思いついた、少数民族の村の玉突き移転という説も真実味を帯びてくる。無理矢理移転させられたことに遺恨を持つ人がいるのかもしれない。
数十メートル歩くと村のゲートがあった。
「ここならもう出して良いでしょ」「はい」
ゲートをまじまじと見る。それらは鉄ではなく石組みで作ったようだった。巴拉老拨迷行校(バラ、昔、迷子、学校)とあったり、南糯茶叶香万里と記してあって、その奥はコンクリートの急坂が広がっていた。二階建ての石造りの立派な家が並んでいるのが見えるここはお茶で儲けてる村なのだろうか。入り口の銅像からすると少数民族の村だということは間違いないし、名前も一緒なのだが、どういうことなのだろうか。やはりここなのだろうか。
コンクリートで舗装された坂を登って最初に現れた右手の家。その入り口側の家には人の気配があった。声をかけてみると、半袖半ズボンのコーヒー用の肌のアイラインをした、まゆずみがきつい四、五〇代のおばさん、そして赤ん坊を背負った若い女が出てきた。
「すいません。ここは巴拉村ですか」
そう言って二六年前の写真を単刀直入に見せた。それは木造の三角屋根がざっと並ぶ赤土の道が広がったかつての巴拉村だった。怪しまれるかと思ったがおばさんは迷うことなく即答した。
「そうよここよ」
しかし告庄西双景ができたことで、元の村の場所に、景洪のメコン川沿いの村からタイ族の村が移転、それによってこの高台に巴拉のアイニ族の村が移ってきたという説はまだ、崩せない。そこで私は別の写真を見せて話を聞いた。それはコーヒー色の小川にかかる筏橋の写真だった。
「昔、入口が川沿いになかったですか」
するとおばさん、目を見開いて、「そうそうここです」と言って、やや興奮した様子で以下の通り語り始めた。
「二〇〇八年に目の前に新しい道路ができたんです。それまではその筏の橋はありました。二〇〇八年までは毎日のように観光客が来て、刺繍を売ったりして生活してたんです。だけどそんな生活は二〇〇八年に道路ができてからおしまいになったわ。それ以後はお茶を始めたの」と。
開け放たれたお宅は立派なコンクリート製、奥には液晶テレビが見える。
嫁は漢族だという。話からすると、二〇〇八年に村の真ん中に道路が貫通した見返りにお茶という見返りを政府からもらった――ということだろうか。とすると、政府もそれなりに住民に気を使って、開発をしているのだ。
今も道路下にある家はどの民族の家なのかということのほか、その開発の補償や工事の進捗について聞いてみたかった。しかし、話はそれ以上続かなかった。
おばさんは昔取った杵柄なのか。私たちが観光目的で再訪したのだと勘違いしたらしく、一旦家の中にはいると、刺繍カバンをいくつも持ってきて、売りつけてきた。
彼女の頭には、立派なコインが縫い付けられている、帽子があった。また、洋服の上から衣装を着てくれていた。
「このカバンは一〇〇元、こちらは一五〇元でどう?」
「ちなみにこれは非売品なんだけど売るとしたら三〇〇〇元かしらね」
おばさんの心に火をつけた私たちは、やっとの思いで、話をそらし、さらに写真を見せた。
それは私が前回会っている、黄色いカーディガンの女性と顔の長いお兄ちゃんの写真だった。すると「それは小巴拉の人ですね」と言った。この村は巴拉と小巴拉という二つの地区に分かれていて、もう一つの地域の人らしい。村は思いの外大きく、直接の交流はないらしい。
ともかく私は村の場所がまったく同じにも関わらず、風景が一変してしまったことを知ったのだった。
基本は舗装されているも、少し外れると赤土のぬたぬたの登り坂。この赤土は確かに二六年前と同じ土だ。坂の上にバスケットゴールがあることに気がついた嶋田くんは突然、登っていく。
「学校があるはずだからそこに聞けばいいでしょ」
ところがそこには学校はなくて、お茶工場らしき工場があった。誰もいない。そのかわり大きなガチョウが、まるで番犬のように二羽大声を上げながらゆっくり近づいてきた。
誰も出てこないので、慎重に降りる。赤土が昨日か今朝降った雨のせいでぬたぬたなのだ。
そしてなんとか舗装のあるところまで降りきると、自家用車が停めてある二階建ての近代的な家がみえた。家の一階には座り込んで暇そうにしている中年男性がいた。彼に写真を見せると「ここなら知ってる。男性ならそこの家」と。
斜め向かいの二階建ての家に入る。すると、そこには写真に写った長い顔の若い男性にそっくりな、痩せた人民服姿の老人が出てきた。顔つきといい耳といいそっくりだった。どうやら彼の父親らしい。
末期の白内障のようでほとんど見えてないようだったが、お茶をもてなしてくれた。汚れて曇っている透明のガラスに入れた、薄くて熱いお茶だった。いかにも衛生的に良くなかったが私は気にせずに口をつけた。
彼は当時、昆明の大学生と言っていたはずだ。筆談で話したのは「海を見たことがあるか」ということ。彼はないと言ったのを覚えている。当時、電気は一応あったが時間制限付き。型の古いブラウン管テレビを大事にしているのか、少し自慢げに見せてくれたのだ。彼と話したのはそれぐらいで大したことは話していない。だが人柄の温かさが二六年たった今もずっと残っていた。そんな彼には、ぜひ幸せになってほしいと、彼のことを思い出すたびに思っていたのだ。
それで、彼の父親に息子の話を聞いてみようとしたのだが、耳が遠いのか、「日本からやってきた」と大声で何度も言って伝えるのがやっとだった。しかもそれも伝わっているのかわからない様子だった。
ただ息子が外出していることは私たちの目的を覚ったのか、教えてくれた。
そこで私はプリントの裏に書き置きをして、置いておくことにした。
「私は二六年前にこの村を訪ねた日本人です。覚えていますか。あのとき『海を見たことはありますか』と聞きましたよね。連絡先を書いておきます。帰宅して気がついたらWeChatか電話で連絡下さい」
連絡先は嶋田くんのメアドと電話番号にして置いた。
もう一人は黄色いカーディガンを直接、肌に身につけていたワイルドなおばさんだった。メロンでも入れているかと思うぐらいに胸が大きく、ブラジャーをつけていないのか、目のやり場に困るほど、カーディガンの胸の部分が揺れていた。彼女はかなりしつこくカバンや帽子を売りつけてきたこと、口の中は噛みタバコで真っ赤だったことを思い出す。写真を村の入口で撮ったり、彼女の息子なのか幼児と手を繋いで撮ったりもした。当時はずいぶん体力に満ちあふれる元気そうな方だったがどうなのだろうか。
彼女の居所を探すために斜め向かいの家にいた頭が禿げた五〇代の男性に写真を見せてみた。年齢的に彼が子どもというわけではなさそうだ。あまり期待せずに聞く。
男性は二階の外階段から降りてきて、上から身を乗り出して、やや面倒くさそうにしつつも一応という感じでやや無愛想な感じで写真を見た。
ところが、写真を見ると表情が見る見る変わった。無愛想な表情が、突然真顔になったのだ。
「これ、僕のママだよ!」
そう言うやいなや彼は言った。
「今から呼んでくるから、ちょっと待ってて下さい」
そう言って二階の奥にある、部屋の中なのに壁がすすだらけの、囲炉裏部屋に手招きされ、簡易椅子を出された。そこはコンクリの家なのに薪で火をくべていて、木造時代の生活習慣を続けているようだった。
「お茶は昔から栽培しているけど、それだけでは儲からないので副業している人もいるんだ」
「家は道路工事があってから山の上に引っ越した。だけど三年前にここに引っ越してきた。政府からの補償は何もないよ」
とのことで、厳しい暮らしぶりが理解できた。さきほどのおばさんと言ってることが全然違う。もしかすると、村の中で付き合いがないのは政府からの補償金が不公平だったからだろうか。少なくともこの家の人たちは不運にも一方的に搾取されただけらしかった。
筏の橋はどうだろうか。写真を見せると、あーという感じで、懐かしそうにした。
「小さいころ、ここでよく泳いだんですよ。あー懐かしい」
感慨深げに彼はそう言うのだった。
話はここで一旦打ち切りとなった。そして一〇分ほどすると、彼は母親を連れてきた。息子は母親がこけないように気を遣っている。
「母は年をとって、足が悪いんですよ」
以前はアマゾネス軍団のゴッドマザーまたは村のラスボスとでも言いたくなるワイルドさを持っていた彼女だったが、いまやすっかりおばあさんになっていた。杖こそついていなかったが、足取りは確かにゆっくりだ。それでも変わらないと思ったのは、ずいぶん胸が大きいこと、噛みタバコで口の中を真っ赤にしていることだ。
おばさんはたくさんの観光客と会っているからか僕のことを覚えているはずはない。それでも写真を指さして、きれいな北京語の発音で「これは私だよ」と言った。
「あれからずいぶんかわったよ。当時は四五歳だったけど、今は七一歳になって、ずいぶん年をとったよ。村もずいぶん変わった」
そういうやいなや入口のおばさん同様に、商売人モードへとスイッチが入った。
私との撮影に応じたかと思ったら、すぐに引っ込んで、かばんを二つ持ってきて、「こちらは一〇〇元でこれは一五〇元」とかばんを売りつけてきたのだ。
私は持っているので買わない。
「私、記念に買いますよ」そう言って嶋田くんは一〇〇元のカバンを買ったのだった。私は当時、このおばさんから玉虫がついた帽子かカバンを買ったはずなのだ。
おばさんは頼んでいないのに衣装をすべて上から着込んでくれた。着込むと自信が溢れてきたのか、誇り高げな、以前のようなアマゾネスっぽい表情になった。そして男物の上着を僕に着せてくれた。彼女にとって観光地だったころが、果たして良い思い出なのかどうかはわからない。しかし村を訪れる観光客を見ると、つい売らずにはいられない。商売人としてのスイッチが入ってしまうのだ。
再びツーショットで写真を撮ると、その後、「ご飯食べていくか」とサニ族のおばさん同様のことを言ってくれたのだった。しかし明日、飛行機で大理へ行くので辞退した。するとパッションフルーツと梨を持たせてくれた。
おばさんも一緒に家を出て、道路まで戻っていく。すると道路際で五、人のおばさんたちが六フルーツを売ってることに気がついた。ここは行きにも見ているはずだ。とすると私がここ数日散々、いろんな説を考え、会いたいと思っていたおばさんとは、一昨日の時点で車窓越しに見ていたのだろう。
果物を売っているうちのひとりである中年おばさんに話を聞いた。それは道路下にある古びた木造の住居のことだった。ここもまた巴拉村なのか。それとも澜沧江からタイ族が移住してきたのだろうか。
すると「ここも村よ」と即答した。つまり道路に分断されはしたが、ここも巴拉村だったということだ。メコン川のほとりにあったタイ族の村が再開発のため、立ち退きさせられ、ここに移ってきたという仮説はこれで完全に消えた。と同時にこれで話が繋がったと思った。
「じゃあこの橋はどこにあるんでしょうか」
そういって私は泥の小川を渡る筏の橋、その写真を見せた。するとおばさんは言った。
「これ以前使ってた橋ね。懐かしい」
そういって、道路端から五メートルほど下に降りていった。着いていくと泥が流れているようなコーヒー色の小川があり、その向こう岸には小さな道があった。
「あれが二六年前の道路ね。ほら今、車が通ったでしょ」
私が再会したおばさんと息子は、幹線道路が通るということで移転させられた。その上に補償額は彼らの元に行き渡らなかった、ということらしい。それは政府が、彼らアイニ族を下に見て立ち退かせるだけで何も払わなかったのか、それとも政府からもらった補償額が行き渡らなかったのか。
後者の場合、搾取した者が漢族なのか、もしくは村の人なのかはわからない。はっきりしていることは、おばさんたち一家は一方的に割を食ってしまったということ、そして村の幹線道路沿いの人たちと暮らしぶりがずいぶん違うということだ。
その中年おばさんに聞いた。それは経済発展がもたらした幸せについてだった。
「経済的に豊かになって良かった」と。その表情にやはり嘘はなさそうだった。
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