見出し画像

旧満州からやってきた新参者[2018年/西双版納編その1/中国の高度成長を旅する#21]

高速バスで国境地帯へ

 長距離バスターミナルはかつて昆明の中心近くにあった。コンクリートの殺風景な建物で、早朝だというのに中は大混雑。個室ではない仕切りだけのトイレ。溝に向かって用を足すのだけど、ときおり汚物を一掃するための強い水流が押し寄せてきて、汚物が飛び跳ねてくるんじゃないかと、慌てたことを思い出す。

 ところが今回、やってきたバスターミナルは街から地下鉄で南に約一時間かかる郊外に位置していた。スキーのジャンプ台のような、天井の高い馬鹿でかい建物。照明が半分ぐらい落とされて、人はほとんどいなかった。アナウンスは一切ないし、ほかに乗客はいない。椅子という椅子がQRコード付きのマッサージ椅子になっていて、それが百以上並んでいた。トイレも一個ずつ個室になっているきれいな水洗の便器になっていた。


 もしかすると間違えたんじゃないか。そう思って、係員に声をかけようとした。しかし誰もいない。ガイドブックやスマホで探してみてもここ以外、バスターミナルそれに相当する場所はない。それにそもそも前日この場所で切符を買ったのだから間違いない。
 方面別の出口のうち、たまたま開いていたドアから外に出ると、〝昆明―景洪〟と記された背の高いバスが停車しているのが見えた。バスの下部が荷物を入れられるようにハッチが開いていた。時間にまだ余裕はあった。しかしやることがなかったので、運転手に切符を見せて早めに乗り込んだ。縦三列の二段ベッドがずっと連なっている寝台バスだった。一人当たり片道一九八元(三一六八円)。乗ってきたのは私たちの他一人だけ。それでも時間通り、午後一〇時にバスは出発した。

 私が目指していたのは、西双版納(シーサンパンナ)タイ族自治州という、ミャンマーとラオスに面する雲南省南西部にある国境地帯。タイ族、ハニ族のほかにプーラン族、ヤオ族、ラフ族など十以上にわたる少数民族がこの州に住んでいる。

 西双版納という不思議な五感の言葉はもちろん当て字。私が向かおうとしていた景洪(ジンホン)のあたりにはシップソーンパンナー(「一二の開けた地区」という意味のタイ語系の言葉)という一二世紀から続く王国があったからだ。その王朝は主に中国王朝の影響下に置かれつつ、ミャンマーやタイの王朝にも朝貢していた。王国は四五代にわたって存続、一九五六年まで続いた。その後、新中国は王国を解体され、西双版納タイ族自治州となったのだ。
 私が出かけたとき西双版納はここは中国かと思うような桃源郷のような場所だった。巻きスカートを履き、ぴっちりした長袖の上着を着て髪の毛をひっつめた優しいタイ族の女の人たちが住んでいる村や、装飾品をいっぱいつけた帽子や服を身につけた色の黒いハニ族の住む村へ筏の橋に乗って出かけたりしたものだ。そうやって少数民族の村へ出かけたり、安宿にダラダラ沈没し二〇代前半という同世代の若者たちと日々語り合う日々が、世界一周に失敗し逃げるようにやってきた私の心を落ち着かせたし、ようやく次の一歩へと踏み出そうとする気力を取り戻させた。クーラーがなくてやたらと暑かったり、熱帯だけに謎の虫が大量発生したり、衛生上あまり良くなかったりとか、そうしたことはもちろん記憶では覚えているが、全てが私の癒しのために作用していたかのような、そんな都合のいい記憶の改変が行われていて、それも含めての桃源郷という気持ちを持っていたのだ。西双版納を桃源郷として私が捉えた理由は、熱帯の気候のほかにタイ族やハニ族といった少数民族の文化圏だったからだということがこの後、わかってくる。

 前回は朝に出発して、日中だらだらと山の中の舗装路が溶けてしまった悪路をゆっくり走り続けた。車内はまるで人間シェイカーになったんじゃないかというぐらいに揺れた。ところが、今回はまったく違っていた。出発してすぐに高速の入り口に差し掛かって、そこを抜けると、スイスイとほぼ揺れのない状態で停まることなく進んでいった。しかも今回は寝台車。ベッドに横になれる分、日本の高速バスよりも快適だった。

 格段に道路がよくなった理由を私は察していた。ひとつは二〇〇〇年以後、推進された西部大開発。この政策になって交通インフラをはじめとする開発が行われていることはすでに記した。もうひとつは二〇一五年以後、打ち出された一帯一路構想である。これは、中国からヨーロッパまで繋がる陸路(一帯)と海路(一路)という二つのシルクロード、その途中のエリアを開発しようという政策である。中国は二〇一五年以降、途中にあるエリアのインフラを整備し、貿易を促進するため、開発に乗り出した。私が向かっている西双版納はラオスやミャンマーへ続く中継箇所として道路や鉄道、そして市街地が開発されていたとしてもおかしくはない。

 昆磨高速を走り続けて三時間半。バスが停車した。私はそのときアイマスクをしてウトウトとしていたが、心地よい振動がなくなることで逆に目が覚めた。外に出てみるとほぼ真っ暗だった。バスやトラックが十数台停まっていてその先にだだっ広い、ローテクなコンビニというべき店があった。ドライフルーツやキャンデー、冷やしていないペットボトルジュースなど、賞味期限がおおよそ関係ない、電気がなくても保存が利く、食品しか置いていない。トイレは離れにあってそこはニーハオトイレだった。水洗ではない。しかも周りは虫がギーギーとものすごい音で鳴いている。


 トイレを終えて、バスの前に戻る。バスの背後には、こんもり迫っている山が見える。
 あれっ、ここってもしかして!
 気になった私は、スマホのアプリ「百度地図」を呼び出して、現在地と周りの地形を確認した。すると、私はあることに気がついた。そのときいた場所が墨江だということに。ここ墨江は昆明からは約二五〇キロの距離にある。二六年前、私は木賃宿に泊まり、蚊帳の中で寝たのだ。前回のようにコウモリらしきものはいなかったが、虫やコウモリや夜の闇に飲み込まれてしまうような恐ろしさは今もこの場所に名残があった。にしてもスマホ地図を見る限り、相変わらずのすごい山の中。高速道路を外れればおそらく貧しい暮らしをしているのではないだろうか。

 その後、バスは墨江で何時間も停まったままだった。途中で寝てしまったので良くはわからないが三時間ほどはそこにいたと思う。そしてその次、気がついたときはすっかり明るくなり、窓の外の山々が靄っているのが見えた。沿道には、女子レスリング日本代表の編み込み、またはお洒落な黒人ラッパーのような光景が目に飛び込んできた。色はすべて緑。つまり、雲南省の名産品であるお茶の畑が延々と広がるようになっていたのだ。以前であれば、鬱蒼と生い茂る照葉樹の森ばかりだったのだが、そうした森はかなり開墾され、今は茶畑となっている。こうしたことからも、経済成長ぶりが見て取れた。西部大開発の恩恵は道路だけでなく、農業振興にも影響を及ぼしている。



 景洪の市街地が見えてきたのは、墨江を出てから四時間ほどたった午前九時すぎのことだ。東南アジアの大河、澜沧江(メコン川)を渡る手前の一帯には、瓦が葺かれた高床式住居が密集するタイ族の村や小さな商店が見えてくるはずだった。そして、そこを通り過ぎ、大きな橋を渡ると、景洪市の中心部に辿り着くはずだ。
 ところがだ。到着寸前になっても、青々とした南国植物の街路樹が続く、五階建てほどの立派なリゾートビルのようなものばかりが沿道に立ち並んでいて、澜沧江は一向に見えない。そのかわり、目の前には、都市型リゾートが楽しめる街、まるでホノルルの繁華街のような光景が広がっているのだ。
 タイ族の村は結局目にしないままそこからまもなく、ワイヤーが支柱を前後から支えるアーチ橋に出た。澜沧江だ。沿道には川面が見えるがバイク専用のレーンがあるため川の色まではよくわからない。両方の川岸の緑が青々とした風景は何となく見覚えがある。それは川の向こうにある山々もそうだ。
 川の向こうには、新宿の東京モード学園ビルのような高さ二〇、三〇階建てぐらいの丸っこい奇抜なビルがあちこちに林立しているのが見えた。まったく同じ場所に来たとは思えなかった。
 橋を渡りきると、それはタイ族の家のようなデザインがされている一〇階建てぐらいのビルが並んでいる。道路は片側三車線で沿道にはヤシの並木が続いている。
 小さな町だったのが街、いや都市に変わっている。それらのビルの一階にはスマートフォンのメーカーの支店があったりする。椰子の木や広葉樹などの街路樹が続く道はスクーターやタクシー、トラックなど、交通量はなかなかある。自転車はそんなになくて、むしろスクーターだらけ。まるで東南アジアの街角だ。沿道の集合住宅の窓の外にはクーラーの室外機がついている。
 すっかり近代化された景洪の街並みに私は、本当に同じ場所なのだろうかと半信半疑の気持ちを持った。あまりにも変わりすぎていて、実感が湧かないのだ。


内政干渉は本当なのか 

 中国は九二%の漢民族と八%の少数民族から構成されている。日本での一般的な先入観として、「中国政府は少数民族をいじめている。だからこそデモや暴動といった反発が起こる」のだと。つまり、少数民族の人たちは漢民族の支配のもと自治や宗教の自由は名ばかりで、少数民族に対し、漢民族の文化や言語を強いたり、貧しい状態に置いているというのだ。
 そのことを中国人は問題視しない。それどころか、外国人が問題視するような指摘をすると内政干渉だと抗議する。なぜこんなに考えに隔たりがあるのだろうか。

 そもそも中国大陸は諸民族が陸伝いに住む、多民族地域である。だからこそ漢族以外の民族が王朝を作った時代が珍しくない。モンゴル人の元、満州族の清がそうだ。
 転機となったのは二〇世紀初頭だった。世界中で国民国家が作られた時代、中国でもその流れが押し寄せてきたのだ。一九一一年、辛亥革命が起こり、清朝が倒れた。そして翌一二年、中華民国が建国される。その際、掲げられた民族アイディティティは〝漢民族〟であった。なのに領土は清国時代の範囲(チベット、ウイグル、モンゴルという少数民族が住む〝辺境〟地域)のまま、維持しようとした。そうしたブレが今に至る、中国大陸での民族問題の火種となった。
 建国後、国の言語や文化は漢族のものがスタンダードとなり、主要民族が漢民族となった。形上は中華アイデンティティというぼかした表現が使われたが、チベットやウイグル、モンゴルといったそれぞれ数百万人以上いる民族が国家として独立することを認めず、そのかわり五族協和をかかげた。これは事実上は漢民族の言語や文化を中心とすることを意味していた。
 一九四九年に中華人民共和国が建国されると、漢族中心の国家作りはそのままで〝辺境〟地域は自治区が設定される、これによって民族自決、彼らの文化や言語を認められるかと思いきや、それは最初のうちであった。民族自決は次第に制限され、宗教の自由もなくなっていく。漢民族による同化が進むようになる。
 一九七九年から改革開放政策が進められると、再び潮目は変わる。宗教の自由が認められたり、自治区の経済発展にもてこ入れが入ったりする。民族独自の文化が再発見され、保護されるようになる。そしてさらには、二〇〇〇年以後の西部大開発によって、民族独自の文化の保護に加え、貧困対策、観光地化も進んでいき、貧しさから脱しつつある。
 こうした経緯を見れば、改革開放後はいいこと尽くめのように見えるかも知れない。就職や進学などにおいて漢民族よりも優遇している分、「なぜ少数民族だけ優遇されるのか。なのになぜ反感を持つのか」と漢民族が嫉妬したりすることもあるという。
 かといって少数民族側から、一応に歓迎されるかと思いきや、そううまくはいっていない。少数民族に対しての援助や優遇措置を政府がいくら進めても、チベットやウイグルではデモや暴動はやまないし、それどころか反感は強まっていったのだ。どうしてだろうか。

国境の街と中国之梦 景洪


 ほどなくバスはターミナルに到着した。到着したのは朝九時半ごろ。街の標高は五五二メートルと昆明からは約一四〇〇メートルも降りてきた計算になる。北回帰線を越え、熱帯に属するエリアにやってきただけに、バスを降りると、外の空気は昆明とは一転して湿気を含んだねっとりとしたものであった。
 一〇階建てぐらいのビルに覆われた一角がバスターミナルだった。そこには、数十台バスが並んでいて中にはラオス直通という国際バスもあった。泊まるのはターミナルが宿の裏口と直結した交通飯店にした。本当なら以前泊まった版納賓館に泊まりたかったが、すでに存在しないのだ。
 交通飯店やその周辺では売買春が普通におこなわれているようだ。バスの待合所と宿の受付を兼ねた一階スペースには、『衛生教育、和諧社会』と記されたコンドームの無料配布機があったり、あてがわれたツインの部屋の中には、しっかりとしたベッド二つ、液晶テレビ、エアコン、机のほか、枕元の電話にホテトル嬢呼び出し用のチラシが添えられていたり、「ドアの内側には売春婦を招き入れることは禁止」といった禁止事項が記されていた。こんな南の果てまで来ると、ぱっと羽を伸ばしたくなるのだろうか。南国ムードは男を変えるのだろうか。


 暑さが和らいだ夕方、二人連れ立って街を歩いた。宿からすぐのところには二階建てほどの建物の市場があった。中に入ると、建物の中を電動式でないスクーターが走っている。生きた魚を水槽に泳がせ、解体された豚の血がコンクリートの床を赤く染めている。こん棒のような豚足の燻製、最強に臭い果物ドリアン、生きた鳩に野菜……。この市場には規格化されつつも、生々しくて活気に満ちあふれていた。それは市場の外に続いている商店街もそうだった。道端はゴミがたくさん落ちていて汚く、リアカーのついた自転車が走っていたり、商店の前にはドラゴンフルーツやマンゴーなど熱帯の果物を売る屋台が続いている。ここには近代化されたスーパーやデパートにはないリアルな生活感がそこにはあった。


 市場やその周りの商店が広がる一角で切り盛りする人たちは、ここまでの旅で見てきた人たちとは雰囲気がまるで違っている。どちらかというと小柄で色が黒く、半ズボンの男性だったり、あと恰幅のいいおばさんだったりする。生活感溢れる彼らは、洋服こそ着ているが、少数民族の人びとが中心のようだった。
 こうした一角は以前からの市場。建物が新しくなっても引き続き商売をしているということなのだろう。エプロンをした髪を後ろにひっつめた洋服姿のおばさんが果物を売っていて、マンゴー一個買った。彼女の顔はいかにもタイ族の顔だ。その場で買ってその場で皮を剥いてもらって食べた。甘さが体に染み渡って最高に美味だった。

 しかしその一帯を離れると、雰囲気は一変する。椰子の木など南国の街路樹が整備された通りには車通りがそこそこあり、スクーターがたくさん行き交っている。タクシーもあればバスもある。最新式の電化製品を売っている家電量販店やフィットネスジム、台湾式のショッピングモール、スマートフォンのアンテナショップといった、この街の大半を占める近代的で清潔な光景が広がっている。その一角には給油場や酒場、工場の従業員や、住居への入居者を募集する広告がびっしりと貼られた掲示板があって、都市の外からの移住者が多いことが見て取れた。

 そんな街角にいるのは、Tシャツにジーパンなどといったカジュアルな夏服姿の漢民族だ。中国の他の街同様にスマホをいじったり、わーわーとと所構わず大声で通話していたりする。これじゃあどこの街かわからない。市場の一帯を除くと、見事に漢族しかいないのだ。
 そうした傾向の最たるものが、たまたま目の当たりにした小学校の下校風景だ。中国では子供の誘拐が多いため、小学生は親が必ず迎えに来る。ちょうど私が校門前に立ち寄ったとき、そのうち白いシャツに赤い対応した制服姿の子供たちが出てきたようで、親に連れられて家路を急いでいった。その光景を見た嶋田くんは忌々しげに言った。

「この街、漢民族に完全に乗っ取られてますね」
 それには同感だった。下校している人たちは漢民族と思しき人ばっかりだった。街の中心部というのもあるが、街を歩いていると漢民族の割合がかなり多くなっていることを感じたのだ。
 タイ族が歩いたり自転車で行き交ったり。市場へ行けば活発なやりとりが交わされ、昼寝のために昼下がりは人通りが途絶える。夕方になると通りが賑わいはじめて、夜には虫がブンブン飛びまわる。市街はオレンジ色に薄暗く照らされ、少しでも離れると真っ暗になったのだが、そうしたローカルかつ民族的な風景を今やもう見ることができなくなったらしい。

 西双版納州の人口の推移を見ると漢族の増大は明らかだ。はじめて第一次全国人口普査(全国調査)が行われた一九五三年、タイ族が一二万三四二七人で全体の過半数を超えていて漢民族は一四万四七二六人(六・四六%)しかいない。
 それが私が訪れたころである、一九九〇年の第四次全国人口普査になるとタイ族が二七万五三一人で三三・九七%に対して、漢民族は二〇万一四一七人で二五・二九%に迫っている。
 そしてさらに二〇一〇年には漢民族が三四万四三一人で三〇・〇三%、タイ族の人口は三一万六一五一人で二七・八九%と一気に逆転しているのだ。
 ちなみに景洪市は二〇〇〇年当時が四四万三六七二人だったのが、二〇一〇年には五一万九九三五人となっていてすさまじい勢いで人口が増えている。少数民族の方が進学や就職の面で優遇されているという面があったり、あと家族との結婚もあったりするだろうから一概には言えないが、そうした面を考慮するにしても異様に漢民族の人口が増えている。統計調査の結果からするとやはり、漢民族が外の地域からたくさん移住してきたということらしい。

 人口比率が数十年で逆転してしまう社会に民族間の軋轢はもしかしたらあるのかも知れない。というのも、街を歩いていると、スローガンの看板がものすごく多いことに気づくのだ。
 例えば、次の一二の二文字熟語からなる標語がそうだ。これらの看板はタイ族の女性が踊っていたり男性がタイ族の男性が太鼓を叩いていたりする可愛いイラスト付きで紹介されている。
富强 民主 文明 和谐(国家が目標とすべき価値)
自由 平等 公正 法治(社会面で大事にすべき価値)
爱国 敬业 诚信 友善(一人ひとりが守るべき価値)

「これは社会主義核心価値観というものなんですよ。習近平氏が総書記に就任した第十八党大会以後、党が主張・宣伝している価値観なんです」と嶋田くんは言う。
 こうした押し付けがましいスローガンは前回来たときもあったが、これだけ発展してもそこら中にあるというのは、電動バイクや電子決済など日本にはない物がたくさん生まれハイテク化していても、全てが共産党主導で計画することで社会を作り上げていこう、発展させていこうという方針がやはり絶対的だということが改めてわかった。
 これは中国の特色のある社会主義、つまり小康社会を目指せということだ。愛国や友善などというものは、ドリフのエンディングのようなもの。加藤茶が「風呂入れよ!」「歯磨けよ!」「顔洗えよ!」と言うが、それと同じぐらいに当たり前のことを、お節介な調子で語っている。上から押し付けではあるが言っていることは真っ当という、今の共産党のトレンドがここに記されていた。
 押し付けがましいといえば、街中にある孔雀公園という池がある大きな公園の前に差し掛かったときだ。「中国之梦」と記された高さ二メートルぐらいのオブジェを見つけた。


「なんだこれ」私が不思議がってじっと見てると、嶋田くんが言った。
「中国の夢。これは習近平総書記が掲げている基本方針。談話や演説の中でよく話していますよ」
 それはこういうことらしい。二〇一二年一一月末、第一八党大会が閉幕した直後、総書記に就任したばかりの習近平は以下の談話を発表した。
「私は中華民族の偉大なる復興こそが、近代化以来、中華民族が目指してきた最も偉大な夢だろうと思う。(中略)私は固く信じている。中国共産党の成立から百周年までに、小康社会の全面的な達成という目標を実現することを。新中国の成立から百周年までに、富強・民主・文明・和諧的な社会主義現代化国家を建設するという目標を実現し、中華民族の偉大なる復興という夢を必ず実現できるということを」
 庶民が経済的、精神的にまずまず余裕のある暮らしを送れるようになるということ。アメリカに並ぶ世界一の大国となること。つまり人民の幸せ、国家としての隆盛を盛り込んだスローガンをこのとき、初めて談話として、習近平は口にしたのだ。ちなみにこの中にある「復興」という言葉を見てふと閃いた。私が上海から北京まで乗車した復興号は「中華民族の偉大なる復興」という言葉からとったのだろうということを。
 にしてもだ。この「中国之梦」というスローガン看板、よく見るとその前に「民族団結」と書いてあるではないか。それって裏返せば、いかにもこの街が民族がバラバラで団結していないようにも読めてしまうのだ。

 しばらく歩き、かつて版納賓館があった場所にやってきた。するとそこには金地大酒店という別のホテルが建っていた。それは赤い屋根の一〇階建ほどのタイ族の文化を取り入れたデザインのビル。屋根は赤くエントランスの車寄せの部分が仏教寺院のようだ。フロントには周恩来が水かけ祭りをしている写真や朱鎔基首相が訪れたときの写真もあるる五つ星のホテルがスイートルームはなんと六万八〇〇〇元もして一番安い部屋で一三八〇元もするという。これはとてもじゃないけど泊まれない。
 朱鎔基さんや周恩来が来たとき、このホテルはなかったはず。もしかするとこれが飾られるということは当時一番いいホテルだった版納賓館と何か関係があるのだろうか。そう思ってフロントの漢民族の恰幅の良い若い男性に聞いてみると、洗練された笑顔で答えてくれた。
「ここにはかつて王宮がありました。そこに版納賓館が建てられ、二〇〇八年に金地大飯店と名前を変えました。この建物自体は建て替えしていますが、裏の建物はそのままですよ」
 スタッフに話を聞いて私はなるほどと思った。版納賓館の敷地はなぜこんなに広かったのか不思議に思っていたが、王宮跡地ならば広くて当然だ。ホテルの入口からドミトリーまでは敷地内をけっこう歩いたその先にあった。すぐ裏には澜沧江が流れている、古い木造二階建てだったのだ。
 その建物は今も残っているのだろうか。そのことが気になって、床が大理石になっているすごく涼しげな素晴らしい立派な建物には、目もくれず、私は奥のベッドを急いだ。するとやはりタイ寺院のような屋根のついた廊下が横に長く広がっていて、その奥に建物があった。
 ところが僕のベッドの望江楼という建物はレンガ造りの立派な建物になっていて以前のような木造のボロボロのトリプルルームのようなものはなかった。二階のテラスでバックパッカー同士でジャックフルーツを分け合って食べた、あのときの雰囲気は欠片すら残っていなかった。
 テラスからよく見えたはずの澜沧江も手前が埋め立てて町にでもなったのか、ずいぶん遠くに見える。楽しかったという記憶はぼんやりと覚えているが果たしてここだったのか。二六年も経っているし景色が一変してしまったということもあって、突き止められなかった。
 多人房(ドミトリー)のあった奥の別棟は入口に当時の雰囲気を残していた。私はここに三週間、沈没した。当時の思い出は今回の旅行で更新され、なくなってしまうんだろうか? そんなことが頭に浮かんだ刹那、嶋田くんは言った。
「じゃあ行きましょうか」
 当時写真も撮っておらず、しかも建物自体がすべて変わってしまっているので、これ以上は何も確かめられなかった。私はワンテンポ遅れて、やや後ろ髪を引かれつつもその場を離れた。
 この宿にバックパッカーはいなくなっていた。ゆるゆるとした雰囲気を楽しみダラダラと滞在する若者たちはいない。漢族が押し寄せて騒がしくなった雰囲気に嫌気がさして、いなくなったのか。それとも物価の高さが原因なのか。その代わり物質的にはすごく恵まれるようになっていて、交通の便利も良くなった。誰にでもどこにでも行ける、便利であまり特徴のない、ごく普通の街になってしまっているようだ。かつて桃源郷だった場所はもはや夢の中だけに存在することとなった。私はそのことを改めて思い知った。

旧満州からやってきた新参者 景洪

 その日の夜、嶋田くんの友人の友人という景洪在住の人たちが、私たち二人を歓迎してくれることになっていた。しばらく待って、やってきたのは日本の古いシーマに似た高級セダンだった。[上海汽車というメーカーがローバー75の生産設備を買い取って自主開発した後継車「栄威(Roewe)750」という]。
 濃紺色のセダンはいかにも乗り心地が良さそうだ。向かって右側のドアから出てきたのはノースリーブのジージャンにダメージジーンズを履き、頭を刈り上げた、いかつい男性だった。露出させた両腕は刺青があって特に左腕は龍の刺青で手首のところまで刺青で覆われている。目がぱっちりとした、そこそこ美形な顔は険のない安岡力也が竹内力という感じだ。
「こんにちは。○○さんの紹介で今回はお会いすることになりました。よろしくお願いします。隣にいる私の友人は二六年ぶりに景洪にやってきたんですよ」
「ようこそ。景洪まできましたね。今日はたくさん飲みましょう」
 そう言ってガッチリ握手してきた。革張りのシートは非常に高級だった。車内には黒いタンクトップの女性がいた。
「どうぞよろしくね」
 彼女の顔はばっちりメイクがしてあった。描いてある眉は非常に細く、ややサイボーグっぽい。(胸元にはアゲハ蝶のタトゥーがあった)。こんな車に乗って大丈夫なんだろうか。私は少し恐れをなした。しかも嶋田くんは「初対面」というではないか。
「たぶん、ものすごくお酒飲まされると思いますから、覚悟しといてくださいね」


 一五分ぐらいして着いたのは、三階建て木造のタイ伝統的住宅を模したレストランだった。ここは二六年前に私がやってきたタイ族のレストラン街と同じところだろう。
 当時は街灯が一切なくてレストランの奥は村になっていて、懐中電灯がなかったら絶対に行けないような場所だった。しかしその場所は開発されていて、もちろん道路は舗装されているし街の一角という場所にあった。周りには乗用車が路駐してあって、中心街から来る人が多いことがわかる。
 集まったのは一〇人。顔つきも骨格もどう見ても漢民族。二〇代後半から四〇歳ぐらいの人たちで、うち三組がカップルだった。運転してきてくれたカップルこそいかつかった。ほかの人たちは服装もTシャツにジーンズというごく普通の格好の人たちばかりだった。
 円形のテーブルにはわらびのような山菜、パイナップルの中に入っているご飯、揚げバナナ、お好み焼き風の食べ物、魚を焼いたもの、ちまき、辛いラーメン、鍋、豚の皮を揚げたものといった料理がどーんと所狭しに置かれた。飲み物は小瓶のTuborg BEERが置かれた。

 乾杯と言って一回、杯を合わせたのだろうか。その後はとにかく食べて飲んで、食べて飲んでを繰り返した。私はここで嶋田くんに紹介されて、「景洪には二六年ぶりに来ました」と話した。ところが話がつながらない。忖度せず明け透けに質問してくる漢民族の割に、無反応。これはどういうことなのだろう。

 それは彼らの自己紹介によってわかった。
 彼らは全員が全員中国の東北部つまり旧満州出身。一〇年前、吉林省からチャンスを求めてやって来た中古車業者とその家族の集まりだったのだ。ロシア沿海州や北朝鮮に程近い亜寒帯から、熱帯のタイ族文化どっぷりのこの町まで一気に南下してしまったことになる。つまり、「二六年前なんて知らないよ」ということだったのだ。
 同じ中国人でも全然違うのは酒の飲み方だ。一概に南部の中国人はアルコール許容度があまり高くないのか、下戸の人が多いと聞く。一方、中国東北部はまったく逆で、とにかく飲んで飲んで飲んで飲みまくる。
 嶋田くんが「今日は飲まされるから覚悟しといてくださいよ」と言ったのが、だんだんとわかってきた。ビール瓶を向けられると、グラスに入ったビールが残っていたら飲み干して注がれたものをさらに一気に飲む――というのが礼儀なのだ。少なくとも一人分ずつは飲んだので一〇倍以上。二回以上飲まされた人もいた。幸いコップが小さかったし、しかもビールなので、さほどそんなに悪酔いはしなかった。
 体にどんどん水分が溜まってくる。飲み干して、次がれてまた飲み干してというこのペースは、ほとんど罰ゲームの世界だ。私は酔っ払って正体を失わないように、とにかく料理を食べまくった。料理そのものは非常に美味しくて、二六年前のことを思い出した。嶋田くんは鍛えているしこうした集いには慣れているので、全然平気なようだ。まあ私も、このアゲアゲなハイテンションな雰囲気というのは嫌いではなかった。とにかく気のいい人たちで飲まされるのは大変だったが、楽しい時間を一時間ほど過ごした。竹内力さんは車で来ているのに平然と飲み続けた。
 驚いたのはこの場にいる誰もが車に乗ってきていて、「おい二次会に行くぞ」と竹内力さんの号令に従って、みんな酔ったまま、誰も代行に頼まず、運転して、二次会の場所へ行ったということ。これについて嶋田くんも仰天していてこういった。
「中国も最近はさすがに飲酒運転の取り締まりがすごく厳しいんです。だけどこの人たちにはまったく関係がないんですね」と。
 さらに一〇分ほど行ったところはクラブだった。
 到着すると、我々三人が降りる。すると竹内力さんは我々がどこにいるのか全く確認せず、勢いよく車をバックする。するとちょうど真後ろにいたサイボーグ彼女さんに車のリア部分がぶつかってしまった。
「アイヤ」
 思わず彼女は悲鳴をあげる。サイボーグではなく生身の人間なのだ。
 どうやら竹内力さんはもう酔っ払っているらしい。これはやばい。だけども彼はそのまま車庫入れを続けようとした。我々二人とサイボーグ彼女さんが道の反対側まで遠いて車庫入れするのを見ていた。一回、彼は車を前に出してまた後ろに入れようとした。車をおさめる場所よりも向かって右側にいる、客待ちか何かをして談笑しているバイクタクシーかなにかのおばさん、彼女がいる方向にけっこうなスピードでバックして突っ込もうとした。おばさんたちパニクって逃げて難を逃れた。



 クラブといってもキャバレーではない。DJのほうだ。一段高くなったステージのところにターンテーブルを二つ置いてレコードをスクラッチするDJ。EDMと称していいのだろうか。そうしたダンスミュージックを延々とかけている。ときどき電光掲示板が右から左へ流れるのだがそれには「无黒除悪」「天生玩楽自有主張」という犯罪抑止なんちゃらかんちゃらという漢字だけのスローガンがときおり折流れる。完全に自由ではなくこうした退廃的な文化に類するものも許されはしてもやはり共産党のお墨付きがいるというのだ。すべてがこのように共産党の掌の中なのだ。
 そうしたことは除けば、もう完全にハメを外した世界だった。中にはソファーが四角く取り囲むようになっていて、まるで枡席のようだ。そうしたものが五〇~一〇〇ぐらいはあるだろうか。非常に広い空間だった。基本的に真っ暗で、そこに紫色や青などのレーザー光線がぱっぱっぱっと光っては消えて、また違う線が光って、といういかにもこの手の会場の照明だった。もちろん音は爆音だ。


 ソファーとソファーの間の通路際にはお立ち台があって、DJの後ろはひな壇になっていて、ハイヒールにタンクトップ女性用のバミューダパンツ、しかも髪の毛は刈り上げスタイルというレズビアンの男性役のような女性たちが踊り狂っている。客の入りは六部入りだろうか。縦縞のシャツにベストにスラックスというキャバレーの店員のような男性たちがいる。VIP会員と赤字で記された赤いたすきをして回ってくる。


 ビールはもちろんシャンパンとかいろんなお酒がどんどんどんどんやっとやってきた。テーブルの真ん中にはエッフェル塔のようなものがあってそこに冷えた果物がたくさん置かれている。流れている音楽は昔のハウス音楽もあってボーカルも入っている。
 踊っている子たちはバミューダパンツの子以外にほとんどシュミーズみたいな格好の女性とか長い花花柄のワンピースを着てる女性などバラバラ。そんなに自己主張の強い踊りではなかった。画面には、漢字のスローガンの他にレーザービームの幾何学模様がたくさんあったりする。天井が非常に高くトンボのような羽の生えたキンキラキンのマネキンが天井からたくさん吊るされていて、なかなかシュールなデザインだった。クラブのお立ち台、ミャンマー国境の景洪はバブル期の日本の様相だ。

 この場ではそれこそフルーツセットとかそういったものがじゃんじゃん出てきた。お酒もスピリッツ系で段違いにきつくなった。それでも竹内力さんはガンガンとお酒を注いでくる。
 さすがに私ももうトータルで三〇杯近くも飲んで朦朧としてきた。もう途中からはトイレに行って時間をつぶすようになった。すると途中で嶋田くんがやってきて私をを叱った。
「西牟田さん何してるんですか」
「明日朝八時にバスに乗ってミャンマー国境に行くのに酔いつぶれて取材できなかったら、どうしようもないよ。だからちょっと酔いをさましてるんだよ」
「豪に入れば郷に従うですよ。どんどん飲まないとだめですよ。私はこれまで一度も潰れたことなんかないですよ」
 彼は体育会系的なマッチョな感じで私を鼓舞するのだ。
 それで戻るとやっぱり竹内力さんが色々次いできた。
 トイレの回数も多くなったのだが、その都度彼はどこに行くのかと聞くようになってきた。そしてやはり、飲まされ続けた。
 すると、三〇分もしないうちに嶋田くんが言った。
「彼らやっぱりやばい。このままだと潰されます。帰りましょう」
 私は苦笑いしながらややホッとして言った。
「わかった。じゃあ出口じゃない方向に一回迂回して、そこから分からないようにして帰ろう」
 そう言ってなんとか脱出して、すぐにタクシーに飛び乗って宿に帰ったのだった。まさに這々の体だった。
 ほぼ撃沈状態で宿に戻ると、私たちは代わりばんこになってトイレで吐いた。私は胃液を逆流させながら、ある様子を思い返した。それは漢民族のほうが多くなり、少数民族が文字通り少なくなってしまった景洪の街の様子だった。桃源郷はやはりなくなってしまったのだ。

いいなと思ったら応援しよう!