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ゲテモノ料理はあるか [2018年/広州編/中国の高度成長を旅する#27]

再び高速鉄道 昆明~貴陽~桂林~広州

 一九九二年九月。雲南省の昆明から搭乗していた航空機は広州の市街地をかすめるようにして着陸した。ターミナルに移動するとパナソニックのブラウン管式テレビがスタジアムライブのスピーカーのように積み上げてあるのが見えた。それは、情報統制が厳しかったり、禁欲的な自給自足を強いたりといった、毛沢東時代の社会主義政権とは程遠い光景であった。
 それから二六年後、昆明から広州へ飛んだ。市街地から約三〇キロの地点に广州白云国际机场が新設され、そこに着陸したためか、かすめ飛ぶような感じはなかった。ターミナルの建物はすごく広くて新しく、そこここにあるモニターは奥行きが薄い液晶にすべて置き換わっていた。到着ゲートを抜けてもブラウン管テレビが積み上がっているようなことはもちろんなかった――。
 この旅行は一九九二年のルートをなるべく同じ交通手段で忠実に辿るというコンセプト。本来ならば上記のような記述になるはずだった。しかしそうはならなかった。旅行して二六年も経っていたこともあって、昆明~広州間を飛行機で移動したことをそもそも忘れていた。当時の日記を何度も読み返したにも拘わらず「二泊三日かけて寝台列車で移動した」という考えに捕らわれてしまい、鉄道を使ってしまったのだ。とはいえむしろ鉄道に乗ってよかったと思う。昆明から貴州、桂林、そして広州へと地続きの景色を見続けることができたからだ。

 麗江最後の夜(九月一六日)、ユースホステルの共有スペースで、台風に関しての報道を目にした。史上最大級の台風と煽りつつも、詳細を報道しない番組に不安だけを募らせていた。昆明から広州への移動中、台風が直撃して立ち往生することが予想できたからだ。

二等寝台で昆明へ

昆明南駅から広州北駅までは高鉄で


 二日が経った九月一八日、昆明南駅を午前七時五三分に出発した。乗ったのはG2924という高速鉄道。最高時速が三〇〇キロに届かない一世代前の和諧号だった。一つ前の席の背面の足元にはコンセントがあったので、スマホやモバイルバッテリーを充電のためにそこにつないだ。隣には二〇代とおぼしき若い女性二人組がいた。もちろん荷物はキャリーバッグだ。ここで私は旅行メモを記しつつ、ときおり景色を見たり、うたた寝したりしていた。隣の女性たちには、折を見て話しかけようかと思っていた。
 トンネルと山が続く山の中を抜けていく。出発して一時間半、時速は三九キロまで落ちた。そのあたりは霧が濃く、窓の外はほとんど見えなくなった。

「台風なら霧が晴れるはずなのに変だな。これも台風の間接的な影響じゃないのかな。やれやれ、いつになったら着くのだろう、今日、広州で動けなければ、明日の朝から動くとするか」と車窓を見ながらそんなことを考えていた。
 不安は杞憂だった。出発して二時間あまり。午前一〇時一四分には雲南省の隣にある貴州省の省都、貴陽(貴陽北駅)に到着するときには、かなり霧が晴れ、貴陽の市街地の光景を見ることができたのだ。貴州省は中国全土の中で最も貧しい省。省都なのでそこここにビルが建っていたり、高速道路のインターチェンジが整備されていたりした。タワーマンションが建設中だったが、何だかみすぼらしい。成都や昆明のような垢抜けた感じはなく、生活感溢れる古びた団地が散見され、貧しさが感じられた。


 正午過ぎだっただろうか。丸みを帯びた山々が連なる墨絵のような奇景が見えてきた。ここは名勝、桂林がある一帯らしい。私はその山々を見て苦い思い出がふと脳裏に浮かんだ。二六年前の夏、私は桂林に行き損ねたことがあるのだ。

 それは北京発のシベリア鉄道に乗り損ねた翌日のことだ。私は二度飛行機に乗り損ねている。シベリア鉄道に乗り遅れたショックで時間の感覚がめちゃめちゃとなり、朝寝過ごして成都行きの便を乗り過ごした。それでも空港に到着し、振替の便として乗ろうとしたのが桂林行きだった。ところがそれも電光掲示板が壊れていたため、搭乗時刻をすぎてしまい、再び乗り損ねてしまったのだ。
 この墨絵になりそうな風光明媚な景色を二六年越しでやっと見れたということになる。今回、私が飛行機を選ばず、高速鉄道を選んでよかったと一番思ったのは、この桂林的な景色を一目でも見られたことだった。

 出発して約六時間半。乗っていた和諧号は予定時刻よりも三分早い午後二時二五分も広州南駅に到着した。隣の女性二人組には結局声をかけなかった。取材メモ作りに没頭していたし、二人で仲良くして、入り込むタイミングがなかった。
 標高一九〇〇メートルという高地の昆明から、ほぼ〇メートルの広州へと来ただけあって、緯度はそう変わらないのに気候がまったく違っていて、景洪についたとき同様、季節はいきなり春から夏になった。

広州南駅の地下鉄駅。手間取って怒鳴られる。

 空港かと思わせるほど広い広州南駅。地下鉄の乗り場を目指して歩いていると、どことなくユーモラスな広東語が聞こえてきた。と同時に前回聞こえなかった北京語もちらほら聞こえてきた。さすが中国第三位のGDPを誇る華南地域最大の都市だけある。ごちゃごちゃと人が多く、それでいて人びとの身なりが良い。駅だからということもあるが、分刻みのせわしなさがあって、数え切れない人びとが同時に動き回っている。
 一九八〇年代後半、円高に見舞われた日本では、低コストで良質な労働力を求め、企業の中国への進出が顕著になってきていた。主な進出先は戦前、日本が実質的に支配していた遼寧省、そして中国南部にあるここ広州を中心とする広東省だった。さらに一九九二年初頭、鄧小平が南巡講話で広東省の珠海と深圳を訪れたこともあって、九〇年代、広東省では対外開放が本格化、日本を含む西側諸国の対中投資ブームが起こった。
 私が訪れた一九九二年の夏、広東は高度経済成長の入口にさしかかっていた。それだけにインフラ整備や外資の導入は北京はもちろん上海よりも早く、その当時すでに資本主義の街という雰囲気がすごくあった。
 その後、広州はさらに発展していたようだ。二〇〇一年、WTOに加盟し中国が「世界の工場」と呼ばれるようになると、日本企業の進出・投資が華南地域を中心にさらに顕著となる。特に広州はトヨタや日産、ホンダといった世界的な自動車メーカーが進出してすらいる。二〇〇八年のリーマンショック以後、世界の景気を牽引した中国へ日本企業はさらに進出、製造だけでなく販売の拠点も目指すようになった。個人個人の経済力が先進国とさほど差がなくなってきたこともあって、「世界の市場」へと変わってきたからだ。小売業も進出するようになってきた。
 そんな広州の発展ぶりは数字を見てもよくわかる。GDPは五一〇・七億元(一九九二)が一九五四七・四四億元(二〇一六)と四〇倍近くにまでなっている。人口は九九四・三〇万人(一九九〇)だったのが、二〇一七年末には約一四五〇万人と約一・五倍に増えている。北京の城中村や北京駅、そして成昆線のパートで、地方の貧困について記したが、広州や上海、北京といった大都会に仕事を求めて農民工が集まってきて、建設労働や工場労働に従事し、成長を下支えしたという側面が見逃せない。今やそうした農民工たちは生まれも育ちも都会なのに、戸籍だけ農村という農民工の第二世代が成人するようになったという。

 話を戻そう。広州南駅のだだっ広い建物を歩いていたとき、広告が変化していることに気がついた。前述の通り、前回はパナソニックの大型ブラウン管テレビである画王が空港に実物展示してあったり、街中にコカコーラの広告があったりとやたらと外資の広告が目立った。しかし、それらはすっかり姿を消し、中国の国内企業の広告に入れ替わっていたことに気がついた。このことからも対外開放し投資を呼び込んでいた時代はとっくに終わり、沿岸地域が高度経済成長をすでにかなり果たしたということが見て取れた。それだけに人びとのプライドが増大しつつあるのかもしれない。
 予約してある安宿、その最寄りである長寿路駅までの切符を券売機で買おうとしたときのことだ。何度入れてもお札が券売機からはじかれ、お札が吐き出されてしまう。券売機は五台以上あっただろうか。私が券売機を独占していたため後ろから罵声が飛び始めた。
 折しもこの日は国恥日。満洲事変が始まったのはちょうど八七年前である一九三一年の九月一八日。私が日本人だから余計に攻撃されているのかと一瞬勘違いした。振り返ると彼らは券売機の方を見て何か言っている。耳を澄ますと「使用微信支付!(WechatPayを使え!)」と言っていることがわかってきた。
 気にせず涼しい顔をしていれば良かったのに、一瞬後ろを振り返り、「なんやうるさいわ」と早口の関西弁を口走って悔しがってしまった。それこそ脊髄反射的に。日中の国際的な地位の逆転してしまったことが頭をかすめたからだ。スマホによる電子決済は日本ではまだ一般的ではない。それに近年、日本の家電メーカーは三洋電機が海爾(ハイアール)、東芝が美的集団や海信集団(ハイセンス)といった中国メーカーに買収されたりする時代となっているのだ。

 両替兼有人券売カウンターで切符を買うと、カジノのチップのようなプラスチックでできたコイン型の切符を渡された。改札を抜けて、X線検査を経て、地下鉄に乗り込んだ。車内のアナウンスは広東語と北京語。車内からは広東語があちこちで聞こえてくる。とはいえ前回よりは、顔立ちにしろ、言葉にしろ、あまり違いを感じなかった。それだけ中国各地から人びとが流入しているということらしい。

 地下鉄に乗って小一時間、やっと長寿路駅に到着した。改札を抜け、階段を上って地上に出ると入口に積んである土嚢が眼に入った。街路樹が軒並み倒れている、台風の被害が生々しい通りを数百メートル歩くと十字路にぶつかった。向かいの一角にはアジアと西洋がミックスされた騎楼建築。旅のはじめの上海で見かけたコロニアルだけど古びた雰囲気があった。
 そうした建物があるのはもちろん理由がある。清の時代には国内で唯一の対外窓口港として繁栄したし、一八四〇~四二年のアヘン戦争後、同じ珠海デルタの先端にある香港がイギリスに割譲された後、革命運動の主要な舞台となったりもした。中華人民共和国成立後は唯一の対外貿易港として発展、香港がすぐ近くにあることから、外国との取引を通して発展してきたというのだ。
 左へ曲がると文昌北路という古くて落ち着いた雰囲気の通りになった。アンティーク家具を売る店が多いいわば職人街なのだろう。蒸し春巻きを売ってる店や麺の店などこじんまりとした食堂があちこちにあっていかにも美味しそうだ。地図アプリに従って車の通れない路地へ入っていく。指定した住所には看板が無くそのまま翡翠ばかりが売られているアーケードに入った。こんなところには安宿があるはずない。この一帯は中国でも一番の翡翠問屋がある一帯だと言うから中国中から業者が買いにつけに来るのだろう。
 にしても参ったのが、宿が見つからないことだ。翡翠市場をぐるぐる回ってから、指定の住所がある元の路地裏に戻ってきた。そこは車が通れない路地裏。三階建ての家の裏口の白いドアしかなく、看板すら出ていなかったのだ。路地で立ち話している地元の人に聞いてみるが誰も知らない。合計三〇キロはありそうな荷物を背負って小一時間、その付近をグルグル歩いて、見つからない始末だった。どこにあるのだろう。もぐりの宿に引っかかってしまったのだろうか。一九九二年当時に泊まったユースホステルに泊まれるなら泊まりたかった。だがもはや営業していないのだ。

翡翠市場で迷う


SARSと野生動物料理と開発と 広州

「飛ぶものは飛行機以外、泳ぐものは潜水艦以外、四足は机と椅子以外、二本足は親以外なんでも食べる」という言葉があるように、かつて広州はゲテモノ食いで知られていた。一九九二年に訪れたとき、そうした様子を私は目の当たりにしている。

邱永漢の店


 当時、清平農副産品市場の道の両側には数百におよぶ露店が軒を連ねていた。中心には確か十字路があって、野菜を売っていたり、漢方薬を売っていたり、肉を売っていたり、または水産物や野生動物を生きたまま食材として売っていたりした。

水産物・野生動物を売る通りは、まさに〝食べられる動物園状態〟。ブリキ水槽にぎっしり詰め込まれたスッポン、前足がなく骨がむき出しの子鹿、額を怪我し片目が潰れた子猫、サンショウウオ、センザンコウ(ハクビシンかも)、ヘビや猿、犬などが売られていた。地元の人はこうした野生動物(野味というらしい)を精力増進・滋養強壮などの薬効目的で食べるらしかったが、何もそこまでしなくてもと思った。何より人の持っている残忍さに辟易した。と同時に、なんだこれはという好奇心を煽られ、普通ではない精神状態に陥っていたりもした。

 実際に目にしてはいないが、ほかのバックパッカーから当時おぞましい話を聞いている。それは高級レストランで出されるサルの脳みそ料理のことだ。丸いテーブルがあって真ん中に間に穴が空いている。その穴から、頭蓋骨を切除され、脳がむき出しとなった猿が、頭だけをテーブル下から覗かせる。それを生きたまま、注文した客同士で食べるというものだ。
 果たしてこうした、ゲテモノ食いは、すっかり高度成長した今も行われているのだろうか。

 上海、北京、成都及び雲南省とこれまでTRAVELOCOというマッチングサイトを使って協力者を見つけ、それぞれの場所で通訳と案内をお願いした。広州でお願いしたのは、広州在住二〇年のホーサンと名乗る七〇代の日本人男性だった。彼は一九八〇年以来、北京・天津・西安・上海・廈門にも住んだことがあり、通算すると中国に三〇年。本業はビジネスのコンサルタント。上海でお世話になったやまださんとも仕事を通じて知り合いだという。
「二〇年まえ、わたし自身が沙面(シャーミエン)というあの付近に住んでおり、清平市場は散歩コースでした。しかし、いまはすっかり様相が変わってしまい、変遷を知るには、地元の故老に尋ねることになりそうです。そこで、客家出身の地元の友人に同行を頼みます」
 依頼に対してこのような丁寧な返事がきていた。
 ホーサンさんは続ける。
「友人には食事の際も同席してもらいます。わたしも広州へは、一九八一年にマカオから中山経由で来たのが最初で、まだ中山の名はなく香山県といった時代でした。(中略)一九九五年からずっと広州に住み着いていますが、地元の人間の話題性にはかないません。食事の際も友人には同席してもらったほうが好都合だと思います。かれは食は細く、酒も飲みません。お気兼ね無用です」
 客家の友人は日本語が達者だという。W浅野ならぬWガイド状態。これは心強い。期待できる。

 午後四時半、お二人と落ち合ったのは隣の黄沙駅だった。中国人との会食を重ねてきたからか、恰幅のいい体格のホーサンさんと会社の元同僚だという舛添要一に似た痩せた男性。二人とも七〇代というが実に若い。
「三〇年以上日本企業や学生などの受け入れをしたり、進出する企業の手続きをしたり。これまで私は日中交流の橋渡しをしてきたんです」
 お二人は私が荷物を背負ったまま来たことに驚いていた。
 そこで私は、「実は予約した宿が見つからないんです」と言った。すると隣の長寿路駅までついてきてくれることになった。
 長寿路駅まで来ると私の代わりに電話をしてくれた。先ほどうろうろした翡翠市場の一帯で待ち合わせると覇気のないひ弱そうな二〇代後半といったTシャツ半パンの若者がやってきた。彼の案内のもと、宿までやってくると、先ほど私が「まさかここではないよな」と思って何度もスルーした、看板も何もない、建物の裏口みたいなところにある白いドアの前で立ち止まり、鍵を開けた。これはわからないはずだ。
 そしてそのドアの鍵を開け二階へと案内された。看板ぐらい出せよと思ったがともかく私は荷物を置けたことに安堵した。階段を登りきるとコンクリートそのままの細長三〇畳ほどの部屋にソファーと机二つぐらいしか置いてない殺風景な部屋があり、手前の窓際の部屋に二段ベッドが六つほど並んでいた。宿には同じような半袖半パンのやはり覇気のない二〇代後半風の男がいた。パスポートを提示するように言われそれに従って渡すと、番号と写真が掲載されているページをどちらが撮ったのかは忘れたが、とにかくスマホで撮っていた。
 中国では宿泊施設に対し、宿泊者の身分証明書提出を義務付けている。それについてはそれなりにやっているようだ。だがこんな素人同然の看板すら出ていない思いつきで始めたような宿が外国人が泊まれるようになっているとは中国もつくづく自由ないい加減な国になったのだなあと変な感動があった。(翌日、午前一〇時ごろにチェックアウトするとき、二人はまだ寝ていた)

 二人を一階に待たせていたのでパスポートを見せて荷物をおいてカメラだけ持って外に出た。そしてまた地下鉄に乗って先ほどの隣駅まで行った。黄沙。駅から歩いて行くと横浜か神戸の中華街のような賑々しい雰囲気があった。共産党政府お膝元の北京にはない行くだけでなんとなくウキウキしてくる日本の中華街のような明るさがある通りだ。しばらく歩くと左手に「食在広州食は広州にあり」と建物の二階付近に中国語と日本語で併記されている広州酒家というレストランがあった。
「これは日本で有名な邱永漢氏のレストランですよ」
 その店はいかにも美味しそうだった。だがまだ何も取材していないのに食べるわけにはいかない。なので写真だけ撮って賑々しい通りを歩いて行く。
 するとそのうち清平市場に差し掛かった。この一帯はなんとなく見覚えがあった。私はすかさず九二年当時の写真を取り出して通りと比較してみた。
 周りのやや古びた商店街の建物は何も変わらない。なのに店自体はまったく違うものに入れ替わっていた。前回同様にケージはあった。しかしそこには小型犬や猫が入れられていた。そのほか、ペットフードなどが売られていたり、金魚が泳ぐ水槽もあったりした。ブリキの水槽にスッポンがすし詰めになっていたり片目のつぶれた子猫が売買されているということは一切ない。無論、猿もいない。数えるほどのペットショップがそこにはあった。
 そこにいる動物たちの顔つきは違っていた。たとえば小型犬などは、確かに檻に入れられて不安そうな顔つきはしている。しかし以前の食材として売られていた動物たちのように、感情にあえて蓋をして、自分の命に無関心になっている雰囲気がまるでない。それに以前のような〝食べる動物園〟と言いたくなるほどの種類を揃えている訳でもない。
 野生動物市場はペットショップ市場に変わっていた。当時と店主は同じのまま、商売替えをしたのだろうか。
「いやそれはないです。仕事内容がまったく違いますから。ここで食材を売ってた人たちがどこに行ったかですが、それはちょっとわからないです」とホーサンさんの友人である外さんはいう。
 ペットショップ市場はすぐに途切れ、漢方の素材ばかりが売られるようになった。そしてこの通りは延々続いた。実は当時も漢方の素材は結構お店としてあったので、野生動物市場だけが何らかのきっかけで衰退し、漢方薬市場だけが残ったということのようだ。

 漢方の店が続く通りの途中にひょうたんや布袋さん、急須などを売るちょっと異色な店があった。その店主は七十歳ぐらいで、やせ形のメガネ。その姿は、中国で有名な俳優、朱旭に似ていて、ややユーモラスな感じがした。
「二〇〇〇年代のはじめに変わりました。ちょうどSARSが流行したころですね。だけど野生動物が売られなくなった一番の原因は時代の流れ。そうしたゲテモノ食いが許されなくなってきたからじゃないでしょうか」
 場所については、次のように教えてくれた。


「卸売市場に行けばそうした生き物を今も食材として売ってるかもしれません」
 私は朱旭似の店主に礼を言って商店街歩きを続けた。百メートルほど歩いても漢方薬しか売っていない。野生動物を売る露店は一軒もなかった。
 漢方薬を売る店ばかりの光景を前にして外さんは振り返った。
「野生動物市場はもはやなくなってしまいました。だけどもともと地元の人間が野生動物を好んで食べていたわけではありません。猿脳料理はそもそも聞いたことがないですね」(外さん)
 彼によると、この一帯に市場ができたのは改革開放以降のこと。それまでは野生動物市場はなかったそうなのだ。とすると私が勝手に決めつけていた〝ゲテモノ食い=広州の伝統〟という考えは、錯覚だったのかもしれない。

 先ほどのひょうたん屋さんのアドバイスに沿って私たち三人は卸売市場へ行った。そこは野菜や果物、肉などを扱っていて黄沙から北へ九キロ足らずのところにあるらしい。タクシーに乗って目指すが、コンテナを積んだトラックで道路が埋まる、すさまじい渋滞のためタクシーは全然進まない。多いところで六車線はあろうかという広州と深圳を結ぶ大動脈ともいえる幹線道路なのにだ。
 幹線道路の両側に卸売市場がある。その一帯に到着するまでに一時間かかってしまった。車を停めたところは入口に江南果物市場というネオン看板があって、野生動物とは関係がなかった。しかし、車が混みすぎるのでここからは歩いて探すことにした。新宿の淀橋市場のようなコンクリートに覆われた、立派な卸売市場。市場の中は夜だからか落ち着いていた。築地市場にあるターレーはなく、軽トラックやバイクがあちこちに走っている。油断していると引かれてしまいそうだ。何人かその場に残っていた商人に聞いてみる。「野生動物市場はどこか」と。


 五~六人に聞いてみるも「野生動物は今は扱っていない」と口を揃える。そのうちの一人はこう言った。「あるのは冷凍のみ。今日の営業はもう終わってるよ」と。時計を見るともう午後八時になっていた。
 その後、元の黄沙まで戻り、食事をとる。できればゲテモノに近いものをと思ったが、そうした料理屋自体が見つからない。ホーサンさん、外さん自身もアテになるような店といえば鳥の丸焼きを名物にしている店ぐらいという。外さんが連れて行ってくれたのは、立派な広東料理の店だった。そこで私たちは瓶の啤酒(ビール)を飲んだ。外さんは言う。
「ここで私は結婚式をしました。七五年です。その少し前の文化大革命では、妹が五年間、地方に送られて大変な思いをしましたが、なんとかこちらに戻って来れました。あの時代は大変でした。大変といえば二〇〇〇年代初頭のSARSもそう。あのときは街から歩いている人がいなくなりましたから」
 SARSが華南地域を混乱させていたことは私も知っていた。しかし当時まだあったここ広州の野生動物市場が原因だという説があったことを私は知らなかった。帰国後に見つけた新聞記事には次のようなものがあった。

■中国・広州の野生動物市場ガラガラ、新型肺炎〝直撃〟(読売新聞WEB版)
 食用の野生動物を扱う中国伝統の「野味市場」が新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)の影響で、かつてない打撃を受けている。「中国南部で食用に珍重されるハクビシンが原因」などとする説が出て以来、中国当局が一切の野生動物の流通・販売をストップしているためだ。「収入はゼロ。市場に店を出す家賃も払えない」。広東省の省都・広州市郊外にある野味市場。売り物の動物も無くなり、閑散とする市場で、大型ヘビを扱うという女性経営者は嘆いた。(中略)SARS拡大阻止に躍起の広東省は国家保護級の野生動物を食べると1万元(約14万円)の罰金という罰則強化の方針を打ち出した。中国調理師協会は、野生動物を材料に使うことを禁止する通知を出した。 市場の関係者によると、売り物の動物は今月初旬に一斉に回収された。広州市郊外にこうした動物専用の「隔離施設」が作られているという。 (中国広東省広州市で、関泰晴)(2003/6/20/00:07 読売新聞)

 この記事にあるようにSARSがゲテモノ市場に壊滅的な打撃を与えたのだ。ただ一方で、ひょうたん屋の主人が言っていたことも一理あるようだ。
 もう一つの原因については、ネットでやりとりした広州在住の日本人留学生が指摘してくれた。
「広東人も動物愛護意識が高まり『何でも食べる』と思われていることを嬉しく思っていません。日本人にとってゲテモノと感じるものは、現在は多くの広東人にとってもゲテモノだったりします。また一部にそのような料理があったとしても、多くの広東人にとって一般的ではないと思います」
 また、私が調べてみたところ、現在、中国には野生動物保護法というものがあり、その第三〇条には次のように記されていることがわかった。
「国によって保護された野生動物とその製品で製造された食品、または保護されていない野生動物とその製品で製造された食品を製造または運営することは禁じられている」と。
 こうしたことを総合して、私が思ったこと。それは伝統だと思い込んでいたことが、実は全然そうではないということだった。
 九〇年代初頭、どこでもタバコを吸っていた中国人のマナーのなさに私はあきれかえり、「この国の国民は未来永劫、タバコを吸い続けるんだろうな」と当時、確信した。ところが今回タバコが街から消えていた。中国人の〝悪食〟も同様だ。広州の野生動物市場は高度経済成長とともに姿を消してしまった。結局のところ、経済成長による人びとの意識の変化、これがやはり大きかったのだろう。SARSはきっかけにしか過ぎなかった。
 ホーサンさんからは、帰国後、次のような指摘があった。
「(広州の)中薬材市場、一九七九年に広州市によって認可された「全国八大中薬材市場」 の一つで、一九九六年には国家認定の「一七大中薬材市場」になっていたというから、当時から「ゲテモノ市場」と並存していたのでした。それがサーズ発生以降の「ゲテモノ市場」の撤退で地域一帯を独占し拡張、二〇〇六年の清平企業集団による開発投資でさらに現存の専業ビルを建設し、いまの一五〇〇店舗もあろうかという大規模中薬材市場に変わったというのが実情のようです」

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