2018年08月27日17時39分01秒

旅行者たちの梁山泊[1992年/上海編 /中国の高度成長を旅する#4]

旅行者たちの梁山泊  鑑真号の船内

 七月二一日正午。中国船籍のフェリー、鑑真号は神戸を離れ、上海を目指し、航行を開始した。この船の重量は九二八〇トン、旅客定員は五六四人。そのほか乗員名簿も貼られていて、この船の乗務員は中国人ばかりだということがわかった。なのに船内のデザインはいかにも日本国内のフェリーに似ている。しかも不必要に日本語の表示がある。なんだろう、この日本っぽさは。


 カウンターに常駐している二〇代の美人乗務員はその理由を流暢な日本語で言った。
「この船はもともと日本で使われていた船なんですよ」
 元はと言えば沖縄航路で使われていたカーフェリーを譲り受け、一九八五年七月に航路が就航したのだという。
 夏休みが始まったばかりの時期だけあって、船内はほぼ満室のようだった。船内の乗客は日本人のほうがずっと多く、中国人はといえば里帰りする家族か留学生ぐらいだった。僕が二晩を過ごすことになるのは片道二万円の二等和室というカーペット敷きの相部屋。部屋の定員は二六人。里帰り中国人用、日本人の団体旅行客用、貧乏旅行者用(男/女別)などと割り振られていて、僕はもちろん男性貧乏旅行者用の部屋だった。
 部屋の中は、若さと汗臭さでむせかえっているような雰囲気があった。体の幅ぎりぎりのマットレスが人数分敷きつめられていて、枕元には二段の収納ケースがあった。そのほとんどにはバックバックが突っ込んであり、スーツケースは二つしかなかった。
 部屋の中では日常生活では中々、聞けないマニアックな旅の話で盛り上がった。
「これから中国を横断して、その後パキスタンへ抜けるんですけど、国境のクンジュラブ峠ってどうやって越えるんですか」といった質問があったかと思えば、
「インドのカルカッタには物乞いがたくさんいて社会問題になってるの。それで僕、ボランティアでデカン高原へ物乞いを移動させる作業に参加したことがあるんですよ」
「年は二八歳です。大阪の三流大学を卒業して社会人になったんやけど、世界一周がしたくて、辞めてきたんです。シベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ抜ける予定なんですわ」といった自己紹介までなされた。
 北京から火車(鉄道)で四泊かかるウルムチ方面へ行くという人は二六人のうち約半分。そんな旅の猛者ばかりが集った二等船室はさながら、旅の梁山泊と化していた。話は尽きることはなく、皆が皆、大いに意気投合し、お互いの旅の成功を祈ったのだった。

 瀬戸内海を横断するのだと思っていたら、意外なことに、船は大阪湾へ向かった。そこから南へ進路をとり、太平洋に出た。

 垢のせいなのか湯舟の湯が濁って汚れきっていたので、シャワーしか浴びなかった。食事はレストランばかりでなく、カップラーメンで節約したりもした。なお朝食は乗船費に含まれていたので、無料だった。部屋の備え付けのブラウン管テレビは、「ホームアローン」という映画や、「鑑真号物語」というドラマを流していた。第二次大戦中、上海で生まれた日中混血の女性(樹木希林)が、子供たち(今井美樹、緒方直人)に国籍を選ばせるために、中国へ連れて行くとかいう話だった。長かったし音量が小さかったので、途中で見るのをやめてしまった。
 二日目の午前中に鹿児島に寄港した。太平洋を通るので揺れるかと思ったが、思いの外、揺れは少なかった。デッキに出てぼんやりと海を眺めていると、別の部屋には日中友好団体に属していると思しき小学生たちが、花束贈答や合唱の練習をしていた。そのころはまだ反日教育はされておらず、日中関係は良好だった。

 一九九一年の二月にはヨーロッパ、八月には中国シルクロード。それぞれの旅に困難は伴ったが、自分の視野が確実に広がったという手応えがあった。とはいえ大学を辞めて、海外に移住したり、半年や一年掛けて世界を旅行するほどの勇気や発想はなかった。大学を卒業したら普通に就職をして真っ当な人生を歩むつもりだった僕は、夏休みに入る前に、先に就職を決めていた。それに並行して、ロシアやモンゴル、ハンガリーといった各国のビザを取得したり旅行計画を立てたり、バイトして資金をためたりして、世界一周旅行の準備をした。この旅は僕にとって、社会人になる前の最後の大冒険となる予定だった。

 船で二泊した後の朝、デッキに上がると、長江の泥を含んだ茶色い水面が現れる。河口の幅は三〇キロ以上もあるらしく、だからいつ、河口に入ったのかわからなかった。長江の象徴である茶色の濁流は両側の岸が見えない状態から続いていたが、そのときすでに長江へ入っていたのだ。
 午後一時、岸が見えてきて、古くて汚れた工場群が現れた。ジャンク船などもあったと思う。天津新港は戦後闇市風の世界という印象だったが、上海は戦前、アジア一の魔都と呼ばれただけあって、他の中国の街同様にその発展振りはポンコツ風でみすぼらしいが、スケールは大きいし、建物も立派。北京よりもずっと現代的。天津新港が戦後まもなくの世界ならば、上海は昭和四〇年代の日本のような発展振りで、中国のほかの街よりもずっと新しい。
 そのうち船は黄浦江をさかのぼり始めた。すると水の色が黄色くなくなった。向かって右側には建物やら造船所などがごちゃごちゃと並んでいるが、左側の浦東というエリアは全然発展していない。それどころか、なぜか不自然な廃墟のような静けさすら感じたのだった。午後二時、船は上海港に着岸した。去年の中国は、サマータイム制度を実施していたが、今年はやってないそうだ。不可解ながらも、時計を一時間遅らせた。
 まもなく入国係官が船に乗り込んできて、パスポートチェックを行い始めた。二〇分ほどしてようやく下船が開始された。団体旅行客に続いて、タラップを降りると、何かの宣伝なのか、若い女性が一人一人に扇子を配っていた。建物の中に入ってX線検査をした。そのとき僕は、ちぎって持ってきていたガイドブックの会話集部分をなくしてしまった。

桶が便所の路地  上海

 一九九二年の上海は暑かった。気温は三五℃を越えていて、湿度が高かった。国際旅客ターミナルから川添に浦江飯店まで歩いて行く。同じ部屋で梁山泊を組織していた旅行者たちはとっくにいなくなっていた。外国人が泊まれる安宿というのは限られていてターミナルからほど近い浦江飯店は早い者勝ちだったからだ。ターミナルから浦江飯店までの一キロほどの道のりをバックパックを背負った貧乏な若者たちがよーいドンで競争を繰り広げるのは週に一度の恒例行事だったのだ。
 黄浦江の近くを歩いて浦江飯店まで行く向かう道すがら、住宅が密集する路地が眼に入った。一階にブロックを積み上げ二階は木造というかなり老朽化した庶民的な住宅ばかり。二階の窓からは垂直に洗濯の物干し竿が突き出ていて洗濯物がひらひらと風に舞っている。ものの本によると、こうした住宅街のことを弄堂と呼ぶらしい。これらの住宅街にはトイレはなく、馬桶と呼ばれるブリキの桶のようなもので用を足し、糞捨て場にまとめて捨てるのだという。そうした建物の様子が興味深く、眺めながら歩いていたら出遅れてしまった。
 さすが大都市だけあって車は結構走っていて、ワーゲンなどのドイツ車、上海というブランドの国産、少ないが日本車も走っていた。それよりも自転車の数の方が多かったはず。
 浦江飯店は相変わらず立派だった。煉瓦造りの、歴史的建造物という感じ。出遅れてしまったため、カウンターでは「没有」と言われた。とは言え愛想がないからとかめんどくさいから言っているようではなかった。鑑真号は到着する日は日本人をはじめとしたバックパッカーが押し寄せるため常に満員になるそうなのだ。そのことをうっかり忘れていた。仕方がないので僕は先へ急ぐことにした。というのも北京からウランバートルを経由してモスクワまで行くという週一回しかないシベリア鉄道の切符がまだ手に入っていなかったのだ。ソ連に強いと定評のある旅行会社に出発する数ヶ月前に手配をお願いしたのに取れなかったので、見切り発車でダメ元で出発したのだった。
 僕は昨年、野宿した外灘を目指した。橋を渡り、数百メートル歩く。外灘にある和平飯店という大きなホテル、その北楼の隣にCITS(中国国際旅行社)の建物があるらしいのだ。個々に行けば、シベリア鉄道の切符が買える可能性があると思えた。
 ところがだ。立ち寄って、手配をお願いしたら「上海ではわからないので北京で聞いてください」とにべもなかった。だが仕方ないと僕は覚った。その後三年か四年後にはオンラインで繋がって切符は手に入ったのかもしれないが当時はそういったもので結ばれていなかったのだ。インターネットはもちろん携帯電話すらなかったのだ。
 上海の街の中は相変わらず人と自転車で溢れかえっていた。昨年と違うのはとにかく工事が目についたことだ。とにかくあちこちが掘り返され埃っぽかった。黄浦江に面して広がる外灘の周りは特にひどく、立て看板によると地下鉄の工事中だということだった。外灘とは黄浦江を挟んで反対側の浦東地区へわたる渡し船が何箇所かあった。浦東地区は、船から見たのと同様、外灘から見ると何もない空き地で、こんなところに誰が行くんだろうと思えた。

北京行き特快で出会った人たち  

このころの中国はクレジットカードでキャッシングするということは考えられず、お金を手に入れるなら両替するしかなかった。しかもその場所は限られていて、中国銀行か高級ホテルへいくしかなかった。手に入るお札は人民用のそれとは別の、外国人専用紙幣というものであった。
 まずは北京行きの鉄道切符を手に入れて、すぐに北京へ行かねばならない。北京でモスクワ行きの切符をなるべく早く入手しなければ、世界一周計画が水の泡になってしまう。正直、僕は焦っていた。
 歩いて上海駅へ向かいつつ、両替できそうな所を探した。幸い、この旅は一〇リットルほどのデイパックで移動していたから、歩くこと自体は全然苦ではなかった。そうしてずっと歩き続けて、上海駅まであと一五分ぐらいのところで、一軒、両替してくれそうな場所を見つけた。
 それは外装を建設中のホテルだった。ダメ元で中にはいる。すでに営業しているようで、フロントには、制服を着た若い男女の受付が一人ずつ待機していた。
「可以换钱吗?(両替できますか)」
 カタコトの中国語で尋ねる。すると、すぐに中国語で答えてきた。瞬間的に僕は理解せず、メモ帳を出して、「ここに書いて」と筆談をお願いした。その行為が予想外だったらしく、「えっ」という表情を一瞬見せた後、「不能换钱(両替出来ません)」と書き記してくれた。
 こうした僕とフロントとのやりとりが面白かったのか。暇を持て余していた他のスタッフがぞろぞろと僕の周りに集まってきた。スタッフは全員二〇代の若い男女だった。中国語の通じない外国人旅行者を珍しそうにしているが、ニコニコしている。顔立ちからすると、言葉が通じないはずがないのに、なぜこの人は中国語が話せないのかといったむき出しの好奇心が感じられた。こうなったらプロの仕事ではない。彼らは地方から出てきた田舎の若者という素の姿に戻っているようだった。彼らは改革開放によって、上海に出てきたホテルのオープニングスタッフなのだろう。
「什么地点的换钱?(どこで両替出来ますか)」と僕が尋ねる。すると二人は上海駅そばの五つ星ホテル、龍門賓館を教えてくれた。
 その後、龍門賓館まで歩いて行った。綿パンにTシャツというラフな恰好だったので中に入るのを拒否されるんじゃないかと過剰なほどに警戒していたが、背に腹は代えられず、堂々としたふりをして、中に入っていった。そしてフロントで再び尋ねた。「可以换钱吗?(両替できますか)」と。するとフロントの女性は「可以(できます)」と即答した。
龍門賓館で 外国人用紙幣へと両替を終えて、なんとなく 地下階に降りたところ、翌日以降の 切符を扱う券売場の前にさしかかった。その場には七〇前後の おばさんとその息子らしき二人組がいて立ち往生していた。どうしたのだろうと思って見ていたら、「今日北京に行きたいのだけど どうしたらいいのか」などと 言っていることが分かった。 僕は筆談で「駅に行けばいいんだと思います」と答えてその場を去った。
 上海駅の切符売り場へ行く。すぐに買えるか心配だった。昨年の旅行で鉄道の切符を買うときは、割りこまれて突き飛ばされたり、後ろから押されたりして半日たったりということが当たり前だった。友人のAは正直に並んだため、ウルムチで切符を買うために三、四日並び続けたというのだ。北京にはなるべく早く行かねばならない。何か方法はあるのか。
 上海は人口約一三〇〇万人を数える中国全土を代表する大都市だけに、駅は大きく、窓口も細分化されていた。当日用の寝台専用の切符売り場というものがあったのだ。それはたぶん外国人専用の窓口だったのだと思う。
 列に長い時間かけてならばずにすんなりと番が来た。ガラスの向こうにいる女性服務員に対し僕は満面の笑顔を作りながら「北京、臥舗、今天」と記したメモ書きを渡した。先ほど入国時にもらったばかりの扇子でパタパタと扇いであげた。
 そうした〝ゴマすり〟が功を奏したのか、服務員は「有」と返事をした。
 僕は安堵した。しかし、よく聞くと、うーんと唸ってしまった。目当ての硬臥(二等寝台)はなく軟臥(一等寝台)しかなかったからだ。だが背に腹は代えられない。優先順位を考えると、高いからといって拒否する選択肢はない。僕は、気持ちを切り替えて言った。「我明白了。我要(わかりました。必要です)」と僕はカタコトで即答した。切符は約四五〇元(一万一七〇〇円)と結構な出費だったが、多めに両替していたので払うことが出来た。
 手に入れた切符は上海を出発するのが午後七時三八分で北京に到着するのが翌朝の一二時五六分という車次二二番の特別快速(特快)だった。
 出発までに時間があったので駅から一ブロック離れたところにみつけたラーメン屋でラーメンを食べた。出てきたラーメンは、えもいえぬほどの不衛生さだった。食べている横でコックが茶をずずーっとすすり鼻くそをほじくっている。テーブルや床には食べかすが散乱していて余計にまずい感じがした。お茶が飲み放題だったのは良かったけども、中国に来た当日にこの汚さは耐えられなかった。それでも、僕は食べ終わり、駅へ戻った。行ったのは一等車両専用の待合室。中には上等なソファーがいくつも置いてあって、ラーメン屋の不潔さとは打って変わって、リッチな感じだった。
 午後七時三八分に列車は予定通り出発した。乗った列車は特快という一番早い列車だけあって中国の列車の割には早かった。これは言わば中国の新幹線みたいなものだろうか。もちろん電化されていて時速は一二〇キロも出た。途中駅は五つしか止まらないこともあって景色は早く流れた。
 軟臥は二段ベッドが向かい合わせに並ぶコンパートメントで、廊下を遮るドアがあったり、なんとクーラーが効いていたりした。これはすごい。さすが値段だけのことはある。それに硬臥と違って身を預けるマットは柔らかく、シーツは清潔だ。
 同じコンパートメントには台湾から来たという若い女性の音楽家二人がいた。台湾も北京語が通じるようで、筆談で意思の疎通が出来た。彼らは胡弓の演奏家なのだという。
 台湾は中華民国なので共産党である大陸の中国とは敵対しているはずだ。それでも一九八〇年代後半から大陸に渡って旅行ができることになったのだと言う。片っ端から車内設備を指さして中国語で何と言うか聞いてみた。そして僕は復唱して中国語を学んだ。
 その後、軟臥車両の廊下を歩いてみた。一等寝台だけに、金持ち中国人のほかに、外国人もちらほら乗っていた。目を見張ったのは、車両の半分ほどのコンパートメントをしめる黒人の団体だった。彼らは西アフリカのトーゴやベナンという聞き慣れない小国から来た人たちだった。何か仕事なのか使節団なのかはわからないが、僕はこれだけの黒人の団体をはじめて見て、そのことにビックリしてしまった。
 またいくつか向こうのコンパートメントには、先ほど駅の切符売り場で会ったおばちゃんと息子がいることに気がついた。見つけるやいなや僕は「你们好(こんにちは)」と声をかけた。
 二人も同じ言葉を返した。僕は間髪入れずに、「你们可以乗車。好!」と書いてみせた。するとニッコリ微笑んだ。
 その後、二人は僕のいるコンパートメントまでやってきた。筆談で話をしたところ、二人は「日本を旅してきたばかり」なのだという。切符を買うのにすら困っている人が日本にまで行けるのだろうか。半信半疑で僕は首をかしげた。するとおばさんは僕に日本名が記された中国のパスポートを取り出して見せてくれた。
 これをみて僕はピンとした。一昨日、鑑真号の船内で見たドラマの主人公と同じような目に彼女は遭ったということにようやく合点がいった。彼女は残留孤児らしかった。
 これまでどんなことがあり、どんな苦労があって、残留孤児として認められたのだろうか。そんなことを聞きたくなったが、歴史を何も知らず、言葉が出来ない僕が質問するのは、失礼なような気がして、躊躇した。
 結局、僕の言葉の問題と知識のなさ故に彼女のたどってきた半生について聞き出すことは出来ず、そのうち同室の台湾人の女性たちとおばさんは話し始めた。台湾人女性はそのうち、胡弓をケースからとりだして、演奏をし始めた。
 僕は二人の演奏に聴き惚れつつも、おばさんのたどってきた激動の半生や、祖国日本についてどう思っているのかなどが気になっていた。そのうち演奏は終わり、おばさんたちは自分たちのコンパートメントへと戻っていった。
 北京には予定通り翌日の一二時五六分に到着した。さて北京では切符を買うことができるのだろうか。そのことで僕は頭がいっぱいだった。

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