2018年08月27日17時41分44秒

茶花賓館の跡地を歩く[2018年/昆明・石林編その2/中国の高度成長を旅する#20]


石林風景区での邂逅 石林

 やってきた石林風景区の入口は、銀行のような、列を仕切る手すりなどもあって、混雑時はすごく混むんだろうなということが想像できた。驚いたのはその値段だ。入場料は一五〇元で、それにプラスしてカート(電瓶車)代というのが必要らしかったのだ。それが三〇元もする。つまりはここに入るだけで一人当たり二八八〇円、しかもそれが二人分だ。とはいえ中に入らないと衣装屋のおばさんたちに会えないのだ。だから高くても入らなければ始まらない。嶋田くんに三六〇元渡しながら、私は愚痴った。
「いやー値段が高いね。日本のローカル遊園地なら一日遊べるよ」
「雲南省の入場料の高さは問題になってるんですよ。貧しい人々のためにお金を使うということであえてその分を高く設定しているという話ですけど」
 だとすれば地域住民の生活に直結する使い方をすべきだが、それはできているのだろうか。それとも誰かがこっそりと拝借しているということはないのだろうか。
 チケットカウンターの近くには、民族衣装を着たサニ人の女性たちの顔写真が二、三〇人分並んでいるブースがカウンターが道すがらにあった。我々がそこを通りがかると四〇歳ぐらいの全身ピンク色の女性が「ガイドはどうですか」と日本語ではなくて中国語で話しかけてきた。

シルク生地のダブッとした長袖長ズボンで、腕と足の中ほどが花柄模様になっている。頭には赤い円筒状の帽子をかぶっている。真珠のような飾りが帽子の上下をそれぞれ一周分ちりばめられていたり、服の真ん中に青と黒の横線が入っていたりする凝った服装だった。目がパッチリと大きく、ときおりいたずらっぽく笑う癖のあるかわいらしい女性だ。私は人探しをするつもりだったのでガイドは雇う気でいた。だけど可能ならば日本語のガイドかいい。
「日本語を喋るガイドはいないんですか」
「以前はかなりの数の日本語ガイドがいましたよ。九〇年代の前半、外国人の大半が日本人観光客でしたからね。でも今は一人だけ。その彼女、今日はもう帰ってしまいました」
 彼女が言うには、今やガイドのほとんどは中国語専門で、英語のガイドも少数ならいるという。今や国内の観光地は、国内の観光客で充分潤っているのだろう。私はそう察した。
 では、探している人は知っているだろうか。写真を見せた。
「この方、知ってます。中に入ると民族衣装を貸してくれる屋台があるから、そこで聞いてみたらいいと思います」
 ガイドの女性はタクシー運転手と同じく、鍾乳洞で撮った写真に反応した。
 結局、ピンク色の衣装を着たその女性にガイドをお願いすることにした。一五人ほどが乗れる大きな電瓶車に三人一緒に乗り込んだ。石林風景区の入口までは一キロほど。これはかつての私のようにタダで入ろうとする不逞な輩の侵入を防止するためのものだろうか。

 入り口には五分かからずに到着した。そこからは、木々や花々が植えられた整った風景の舗装路を五~一〇分歩き、改札をくぐってやっと入場となった。二〇〇七年に世界遺産になってからというもの、地方政府は石林という観光地にずいぶんとお金をつぎ込んだということが入口までの整ったアプローチによって感じることができた。実際、雲南省において西部大開発が目指す基幹産業の一つとして観光業に力を入れ、その質とレベルを引き揚げようとしているそうだ。
 そうした大人の事情が透けて見えるだけに、居心地の悪さを感じてしまった。それは本来、サニ族の土地であるこの場所を、漢族が主体の政府の人たちが、金に飽かしてガンガンと開発してしまったということがわかるからだ。善かれと思ってやったのかも知れないが、部外者の私からすると、それは余計なお世話じゃないかと思えてしまった。

 改札を通った後、池のある整った庭園をさらに一〇分ほど歩くと、見覚えのある風景が見えてきた。石灰岩質の大地が風雨や地震によって、表面がギザギザとなってあらわれたカルスト地形だ。もし私が身長二〇〇メートルほどの大巨人として、この岩岩を踏んだとしたら大けがをするに違いない。そう思わせる奇岩なのだ。
 ただ周囲には岩風呂に置かれている人工的な岩が、さも違和感がないように設置されているが、自然の雰囲気にはかなわない。というか白々しい。なんだこれはと私は歩きながら、茫然とした。こんな近代的なまるでテーマパークのような雰囲気になってしまってサニ族の人たちからするといい迷惑なんじゃないか。とそんなことを考えていると〝石林〟と記された奇岩群の入口にさしかかった。
 二六年前に私はここで民族衣装を着て、たまたま一緒に観光した日本人女性Mさんと記念撮影をしたのだった。奇岩の周りには男女の民族衣装を揃えた屋根付きラックのそばにいる、肌の赤黒いおばさんたちがいた。どうやら彼女たちが知っている人たちらしい。ガイドの女性が声をかけると、五人のおばさんと二人のおじさんたちがぐるっと私の周りを囲んで、写真を凝視した。

「ワタシ、コノオバサンシッテルヨ。デンワカケル」
 そういって一人がいきなりスマホを取りだしてかけてしまった。そして一分もしないうちに事情を話し、私たちの訪問を取りつけてしまった。、
「イツイクカ」
 あまりの早さにビックリした。二六年間会っていなかったという事実はなんだったのだろう。私は気持ちの準備がまったくできていなかった。それにせっかくひさびさに石林に来たのだ。しかもガイドまでつけたのだ。なので私は次のように言った。
「ここ見終わったら行きます。午後六時すぎ」と。
 それにしてもおばさんたちのネットワークはすごいものがある。試しに若い子のほうの写真を見せるとこれもすぐに居所が特定されたのだ。
「コノコシッテルヨ。ケッコンシテ、シーサンパンナ、イルヨ」
 当時まだ二〇歳そこそこだった彼女は、ラオスやミャンマーの国境に程近い西双版納に移住したそうなのだ。
 そのように、おばさんたちはは昔取った杵柄なのか、以前と変わらないインコ訛りの日本語でよどみなく早口で答えてくれた。ただ、年をとった分、声のトーンは以前に比べると低めだったが。おばさんの中には、懐かしくなったのか、思い出話をしてくれる人もいた。
「ムカシ、ワタシ、クンミン。ミンナデ、ヤスイヤドデイッショ。マイニチ、ホテル二イッテ、シシュウウッタ。チェンジマネーシタネ」
 おばさんたちはおばさんたちで、日本人がたくさん来た九〇年代のことを人生の一ページとして大事に覚えているらしかった。

 私たちは二人して衣装に身を包み、剣を抜いて記念撮影をした後、ガイドの女性と久々に岩と岩との間を縫うようにして歩いて行った。
 途中、石の階段があっちこっちにあり、運動量はなかなかのもの。これを五回、六回毎日やるのはなかなかキツイだろう。
「これと同じですね」
 水をたたえた狭い峡谷のようなところの奥に、巨大な人が立っているように見える岩のところで彼女は言った。岩自体は世界遺産になっても変わらないようでその点は安心した。


 全景が見渡せる場所に上って俯瞰してみると、石灰岩のトゲトゲしてヒダヒダした様子はまったく変わらない。変わったのは二六歳年齢をへたアラフィフの私の方だ。景色が絶景な分、私は自分の年齢を感じたのだった。
 この後、隣の小石林というエリアのガイドにも誘われたが、それは辞退した。というのも、前回会ったおばさんに会うことをそろそろ優先したかったからだ。ガイドは先ほどの衣装屋のおばさんに教わった電話をかけ改めてアポを取ってくれた。


 見終わって電瓶車で戻ろうとすると、お土産売りのおばさんたちがワーっとやってきた。花柄の刺繍ポーチや首飾り、刺繍がたくさん入った手の込んだリュックなどを中国語でかなりしつこい調子で売り込んできた。嶋田くんは「買う気なんかないよ」って言いつつも断り切れず、結局、リュックを買ってしまった。その額はたったの三〇元。ちなみに先ほどの衣装代も一〇元しかしなかった。二六年前の一〇倍ぐらいの値段なのだろうけど、入場料に比べるとずいぶん安い。なぜこんな差があるのだろうか。

 一キロほど移動し、また切符売り場に戻ってきた。そこには、ガイドの旦那さんがセダンでやっていた。旦那さんは白い男物の民族衣装を着ている。彼もまたこの石林で生計を立てているようだ。写真のおばさんが住む村は石林の隣にあるらしく、そこまで連れて行ってもらえることになったのだ。車に乗り込むと学校に迎えに行った帰りらしく、子どもが二人乗り込んでいた。
 車はものの一〇分もせず、住宅街にやってきた。そこは以前、石林の見学中かその行き帰りに見た、平屋で石造りの小さな住宅ではなく、二階建てでコンクリート作りだけど、屋根が葺かれた伝統的家屋風の新しい住宅がざーっと不自然に並んでいる。道路はもちろん舗装されていて街路樹が整っている。広場には「文明城市文明市民」などとスローガン的なことが書いてある。車から置いて数分待つ間、一帯には車も人もまったく通らず、生活感がまるでない。なぜだろう。世界遺産ということで石林のそばにあった集落を立ち退きでもさせたのだろうか。※


 そんなことを考えていると、二階建てコンクリート建ての真新しい住宅と住宅の間から、民族衣装姿の一人のお婆さんが三歳ぐらいの幼児を抱っこしてゆっくりこちらへと歩いてきた。以前は水色を基調にした衣装だったが、こんどはより色の濃い青が基調の衣装でその服の腰回りはピンク色のフレア、頭には水色の頭巾を被り、動きやすいように黒いスラックスをはいている。以前会ったと主張する外国人に呼び出されたということで、わざわざ民族衣装を着てくるだろうか。むしろ普段から着ているのではないか。もし着替えるのなら、その幼児も着せてくるのではないか。しかし、その子はトレーナーに長ズボンという格好だった。


 おばさんの顔はもともと顔が赤黒く小柄でかわいらしい方だったが、そのかわいらしさはそのままで年をとられた感じだった。年齢は日本人で言えば七〇歳ぐらいに見える。だがその割には足腰がずいぶんしっかりしている。
 私の記憶に彼女の印象はなかった。わざわざ呼びつけるのも失礼かと思ったが、おばさんはまったく気にしていないようだ。かといって私との再会を特に感激している訳でもなかった。
「ニーハオ、お久しぶりです」と私は声をかけると、「ニーハオ」と静かに返してくれた。
「久しぶりにお目にかかれて嬉しいです」と私は言ったが、李さんのように再会を心から喜んで涙が出たりはしなかった。おばさんはおばさんで、毎日会っていた観光客の一人でしかすぎないので覚えているはずがない。かといってつっけんどんにしないのはサニ族のホスピタリティなのか。それとも観光客慣れしているゆえだろうか。
 ともかく私は言葉が途切れないよう、用件を告げた。
「私は、昔ここに来たことがあるんです。今日はこの写真を渡したくてやってきました」
 そう言って鍾乳洞の中で一緒に撮った写真を見せた。すると、やわらかで静かに頷いて「そうです。これ、私です」と言った。

 このとき私は何かエピソードでも言えば良いのに、呼び出したにも拘わらず、気持ちをほぐすようなことは何も言えなかった。なのでかわりに単刀直入に聞いた。
「これまでどうされてたんですか」と。
「あの鍾乳洞とか石林の周辺で働いてたよ。二六年前は三四歳。でも今は孫の子守りだね」
 おばさんは発音がきれいで流暢な中国語でそう言って満足そうな笑みを見せた。彼女は観光客相手にずっと働きながら、子育てをして、今は孫に愛情を注ぐ日々なのだ。すでに半分、リタイアしこれから幸せな老後を迎えるということらしい。おばさんの表情を見ると、これまでの人生に満足し幸せであると感じていることが伝わってきた。良かった良かった。
 意外だったのはあれだけ日本語がペラペラだったはずのおばさんなのに、衣装屋さんたちのように自分から日本語を話そうとしなかったことだ。もう忘れてしまったんだろうか。そう思って私はインコ訛りの日本語で言ってみた。
「お兄さんチェンジマネー、刺繍安いね」
 するとニッコリと笑みがこぼれた。そして言われた。
「あんたたち、今から夕飯食べていかないか」と。
 この後、私たちは嶋田くんの知人に会うためのアポが入っていたので、後ろ髪が引かれたが、「すいません。時間がないんで今日は帰ります」と言って断った。そして続けた。
「その代わり一緒に写真だけ撮ってもらえませんか」と。するとおばさんは即座に「いいわよ」と抵抗のない様子で答えた。そのときの即答ぶりはいかにも観光客慣れしていて写真を撮られ慣れてるということが非常によく分かった。
 嶋田くんに写真を撮ってもらった後、おばさんに写真を見せると、驚きもせず静かに頷いた。デジカメ自体慣れているらしい。
「この写真を送りたいんですけど、住所を教えてもらえませんか」
 するとおばさんはまた即答した。
「今回のようにまた写真を持って訪ねてきてくださいよ」
 まるでその言葉は用意していたかのように見事だった。以前もやっぱりこうしておばちゃんを訪ねてきた人はいるのだろうか。そんなことを思わせるほどであった。

※「雲南省石林風景区、原住民のサニ族に立退き強要 「世界遺産保護」か」(大紀元日本2010/06/22)という記事があった。これによると、二〇〇九年三月、石林風景区のある村が石林県政府に移転通知を出された。県政府は石林の一キロ先に村を新たに建設、五〇平米の住居補償もしたという。

茶花賓館はなぜ移転したのか 昆明


 石林から帰ってきた次の日の朝、私たちはフロントの様子をうかがった。すると、そこには昨日、チェックインするときにいた、黒木華似の地味な方の女性だけがいた。
「九二年当時、働いていた服務員はいますか? 彼は日本人の作家です。久々に茶花賓館を訪れました。ぜひ、当時のことを聞いてみたいと話しています」
 嶋田くんがそう切り出すと、その服務員はそっと言った。
「七階にいると思います」
 そう言って部屋番号を教えてくれた。それを聞いて私たちは礼を言い、エレベーターまで引き返した。やっぱり当時を知る服務員はいたのだ。私は嶋田くんとともに心を躍らせながら七階まで上がった。エレベーターを降りると、両側に部屋のドアがある薄暗い廊下を歩いた。
 事務室に当たる案内板がドアに貼られている部屋はない。鍵の閉まっていない部屋をノックした後にしばらく待ってから開けてみたが真っ暗だ。そうやっていくつかノックして様子をうかがっているうちに、ひとつだけ観音開きになった広いドアがあって、そこをノックしたところ中から声がした。
「いますよ」
 やや間を置いて出てきたのは、髪型はソバージュ、白いボディコンのワンピースにハイヒールという攻めのファッションで固めたお洒落な女性だった。トレンディドラマが流行っていたころのダブル浅野のようでイケイケだ。それでいて実務もしっかりこなしそうで、社交的な有能な女社長という雰囲気もある。あれ間違えたのかなと思ったが、念のために聞いてみた。
「九二年に彼はこのホテルに泊まりました。当時、働いていた服務員に話を聞きたいと思っています。あなたは当時、働いていましたか」
 そう言うや否や、彼女はにこやかな表情を一変させて、突然、感極まったような表情になった。
「私、そのとき働いてたんですよ。よく来てくれました」
 彼女もまたあの時代のことをすごく大切に思っているらしい。そうした気持ちが言葉と表情に一気にわっと現れたのだ。
「そうだったんですか。お目にかかれてすごく嬉しいです。場所が変わってますけど、このホテルで間違いないですか」
「そうです。間違いないです」
「なぜ移転したんですか」
「そ、それは……」
 そう言って彼女は一瞬口ごもった。そして、すぐに表情を切り替えるよう明るくして言った。
「もし必要でしたら昔、働いていたスタッフも集めますよ」
 それを聞いて私は胸が高鳴った。午後に改めて時間をいただくことになった。

 ****
 その日、まず出かけたのは龍門という山の中の風光明媚な場所だった。昆明からは南西へ約三〇キロの地点にある。二六年前、私はバスか何かに乗って山の中腹の入口まで行ったにもかかわらず入らずに引き返した。人民料金で入ろうとして、見破られ倍以上する外国人料金を請求された。そのことに勝手に立腹し、引き返したのだ。しかし日記を読み返すまでは、そんなところに出かけたことすら忘れていた。
 龍門へはタクシーでないと行けないようだった。車で一時間ほど移動し、午前中のうちに、山腹にある龍門の切符売り場までやってきた。箱根かどこかの観光バスが集まるような場所で、来てみても、当時の風景はまったく思い出せなかった。切符売り場を見ると、推薦登山ルートがいくつか記されていて、朝から一日かけてガイドをつけて回るのが通常の回り方なのだという。前回、中に入っていないのにわざわざこれ以上進むつもりはない。私は行かないことを決めた。しかしだ。念のため、切符売り場で尋ねてみた。
「今って外国人料金はあるんですか」
 すると、赤く日焼けした精悍な、三〇代とおぼしき男性がやや不機嫌な表情で言った。
「そんなものはないよ昔から」
 昔という時間の尺度は私と彼とでは確実に違っている。そのことがよくわかった。


 次に私たちはそこからそう遠くないところにある雲南民俗文化村に行ってみた。
 以前は雲南の少数民族の建物がいくつか建っていて、その外は屋内のひな壇式のステージが一個あるだけというこじんまりとした施設。もちろん石林なんかよりずっと狭かった。ところが今回、その大きさは五倍か一〇倍ぐらいまで拡張されていて、ユニバーサルスタジオジャパンか東京ディズニーランドかという大きさだった。中に入ってみると、中国全土の少数民族の建物や宗教施設が精巧に展示されていて、実に見どころの多い場所になっていた。
「一〇数年前に拡大しました。今もタイ族の施設は以前のままですよ」
 服務員の一人はそう教えてくれた。
 中に入ると、漢族の見た少数民族のイメージをそのまま再現されているような気がした。各民族の施設にはその民族の若者たちが踊ったり食事を提供したりしてくれる。少数民族そのものを見世物にするということ自体、見てみたいと思うものの抵抗がなくもない。もともとあった民族文化の伝統を換骨奪胎しているようだからだ。
 しかし踊りを見ていると、彼ら少数民族の若者たちはやらされているという感じがしない。それぞれの少数民族の人たちが、自分たちの民族文化を守るためということと、職業としてやっているということ。その二つが両立している気がした。つまり職業と文化保護が両立しているのだ。見ていてプロフェッショナル過ぎて、素朴さがなく、いかにもテーマパーク的。本当の村に入ったらこんなに上手く行ってないだろうと見ていて思ったが、単純にショーとして面白かった。
 それに観客の方も前回のようにステージに乱入するようなことはなく、観客が彼の一挙手一投足に注意を払っていた。演じ手といい、客といい、どちらもずいぶんと洗練されていた。私は中国人そのものが、近代化したという事実を踊りを見ながら感じて、踊りよりもその態度にちょっと感動した。


 ****
 午後四時ごろ、茶花賓館に戻ってきた私たちを待っていたのは四、五〇代の男女一二人だった。私を迎えてくれた女性は私たちが戻ってくるやいなや、奥へ行って、集めてくれたホテルのOBやOG、そして現役組を呼んできた。そして一緒にホテルの前で記念撮影をすることになった。
「なんかえらいことになってるな」
 私は集まってくれた人たちを前に戸惑った。まさに全面協力だ。
「イー、アル、サーン、チエズ」と中国の撮影のときにいうかけ声にあわせて、みなさん、ニッコリしたりすましたりと表情を整えた。


 みなさん全員で座談会をするのかと思って構えていたら、どうも違っていた。
「奥の餐厅(レストラン)へどうぞ」
 ソバージュの彼女のほか、付いてきたのは、私たちの他は、彼女と同世代の四〇代と思しき女性二人だけだった。私と嶋田くんは三人の女性とともに四角いテーブルを囲んだ。
 三人とも四〇代前半で、当時からこのホテルに勤務しているという。ただし全員が管理職だ。話はこのホテルの沿革から始まった。話してくれたのは、ソバージュの女性。ちなみに彼女が茶花に就職したのはこの年のこと。配属先はレストランだったという。
「このホテルは一九八六年に営業を開始しました。そのころのお客様は外国人中心でした。というのも当時は外国人が泊まれるホテルが限られていて、茶花に集中したんです。だから昔は外国人が「ホテルへ連れて行って」と行っただけで、ここに連れてきたという噂を聞いたほどです。
 お客さんの主なな国籍はアメリカ、フランス、日本、ドイツ。九二年の夏に国交が正常化して以降は韓国人のお客さんも来られるようになりました。
 国別だと日本人のお客さんがダントツで多かった。なので日本人のお客さんに対応できるようホテルには日本語が話せる人材が揃っていました。常駐していた日本人ガイドのことはよく覚えています。日本の姉妹都市との間で開催された交流イベントで和装(着物)で対応したり、私たちに簡単な日本語を教えてくれたりしていました。日本人との関係はスタッフ、お客さん関係なく良好でした。日本人のお客さんでこのホテルのスタッフと結婚する人がいたり、日本人スタッフの中には石林のサニ族と結婚した人もいたりしました。サニ族と結婚したスタッフは今も仲睦まじく生活しているそうですよ」
 私が泊まった九二年当時、このホテルには少なくとも数人の日本人が常に泊まっていた。妙に居心地が良かったのはクーラーいらずの昆明の気候、そしてこのホテルでは日本語が通じたことだったのだろう。
 にしても気になるのは学校を出たばかりで、むさ苦しいバックパッカーたちを相手するのは大変だったのではないかということだ。それについては少し小柄な別の女性が答えてくれた。
「当時、私は客室を担当していました。男女混合の一〇人部屋で共同のシャワーとトイレでした。一階にはお湯を作る部屋があって、そこでお客さんがお茶を作って飲んだり、ラーメンを作ったりしていましたね。その場所は温かいので、洗濯した服を干すこともできました。同じ階には外国にかけられる長距離電話がありました。
 外国人旅行者のお世話することは全然平気でした。そもそもここ雲南省にはたくさんの民族が暮らしています。だから違っていても当たり前のようにもてなすことができるんです。それが茶花賓館のおもてなしの文化なんですよ」
 彼女の話を聞いて私は思い出した。私は確かこの宿から実家に住む母へ電話したのではなかったか。音を遮るボックスがあって、繋がるのをしばらく待ったはずだ。当時はインターネットもスマートフォンもなかった時代。だから旅行中は情報から遮断されていたし、日本との電話もそれだけに繋がったとき、独特の胸の高鳴りがあったのだ。
 そのほか、各国の人たちのエピソードにはどんなものがあるのだろうか。三人に思いつくままに語ってもらった。
「ラオスやミャンマーの領事館がホテルに入っていたんです。ですのでそれらの国の留学生がホテルにたくさん滞在していました。彼らはあまり現金を持っていなくて。一回につき両替は数十ドル単位と小刻みにしていましたね」
「日本人と韓国人の旅行者がいたら部屋を分けるようにしていました。部屋を一緒にすると言い争いになって問題になるかもしれませんから」
「アメリカ人の団体に「早くやってくれ」と急かされることが多かったですね」
 それにしてもだ。九二年当時ホテルの前にたくさんいたサニ族はどうしたのだろうか。刺繍の入ったカバンを売っていたり、外貨と人民元の両替をしてくれたりしていたが、今回はさっぱりどこにもいないのだ。
「『パパママ、ビューティフル。チェンジマネー』とか言って、ホテルの前にたくさんいましたよね。そのことは私も覚えてます。だけど二〇〇〇年前後にいなくなりました。二〇〇〇年春に我が国がWTOに加入したというのと関係しているんでしょう。そのころでしょうか。外国人専用紙幣がなくなったんです」
 最後に三人に聞いてみた。九〇年代前半の日々はあなたたちにとってどんな日々だったのか。楽しかったりしたのだろうか。
「そうです。私たちは楽しく仕事してました。夜勤もあって長時間働いたりもしてました。今の人じゃ考えられないでしょうけどね。今の若い人は二、三年で辞めてしまいますから。情報が多いのでいい条件のところがあればすぐに流れていくんですよ。私たちが若い頃、ひとつの所で働かされました。当時は不満でしたけど、結果的にはそれが良かった。だってこうやって時間が経っても昔のこと思い出せますからね。なにより収穫だったのは、話す言葉や人種などが違ってもどの国の人も人間には変わりがないということです」
――僕自身は二二歳のとき、この茶花賓館を拠点にして雲南省のあちこちに行ったんです。バスに二日とか乗って大変な思いをしてその後、茶花に戻ってくる。このホテルに戻ってきたときどれだけほっとしたか。その旅行は僕自身を変えました。ここは私にとってもここは青春ですし原点だと言えます。
「その気持ちはよくわかります。私にとっても原点ですから」
 そんな茶花も二〇〇〇年代に入ると転換点を迎えることになる。二〇〇二年に広州でSARSが発生し、中国をはじめとして大流行したことをきっかけに日本人旅行者の数は激減、以後、日本人は戻ってこなかった。〇四年にはイギリス人の投資家がバックパッカーの泊まる大部屋に目をつけて、ホテルの一部の使用権を取得、ユースホステルを開業した。
 そうしたことが影響し、二〇〇六年はミャンマー、二〇〇八年にはラオスの大使館が茶花から出て行ったという。中国国内が豊かになるにつれて、客層は国内中心にシフトしていく。今では国内のお客さんが中心だという。特に建物が新しくなってからは中国人中心になったそうだ。
「移転が決まったとき、ショックを受けられる外国の方がたくさんいました。中には移転を反対する手紙を書いてくださった方もおられました。移転先は別のホテルが営業していましたので、内装を変えて営業を再開することができました。二〇一二年の七月のことです」

茶花賓館の跡地を歩く

 彼女たちははっきり言わなかったが、移転したことを喜んではいなかった。それどころか彼女たち自身、かなりショックを受けていたのだろう。でなければ、移転反対の手紙のことを話したりはしないはずだ。
 では私が泊まったかつての茶花賓館はどうなっているのだろうか。持参していた古い地球の歩き方を片手に探してみた。昆明北駅に近い現在の場所から、旧茶花賓館へ向かうため、私たちは地下鉄二号線の昆明北駅という駅から乗り込むことにした。一〇分ほど歩いただろうか。昆明北駅のそばへとやってきた。外観が見える北駅はひっそりとしているのが遠くから伺えた。どういうことだろう。そう思って近寄ってみるとすでに駅としては営業しておらず、博物館になっていた。


 当時、私はこの駅から軽便鉄道に乗って、ベトナム国境近くの開遠という駅まで行って、一泊して帰ってきたはずだが、その軽便鉄道はとっくに廃止されたらしい。ホテルの移動先はいわば街のずいぶん北に追いやられたのだ。これは何らかの懲罰的な移転なのかもしれない。


 階段を降り、地下鉄二号線に乗った。もちろん改札前にはX線検査機があった。そこから南へ数駅の東風広場駅で降りる。そこから東風東路を一キロほど東へ歩くと、かつて茶花賓館のあったところに出る。昆明北駅近くに茶花賓館が立ち退いたのはもう六年も前のことだ。なのに塀の内側に建物があるようには見えない。おかしいと思って、塀を回り込んですき間から工事現場を見た。すると一面の更地が広がっているではないか。つまり六年間、まともに工事が進んでいなかったのだ。
 事前の情報だと香格里拉酒店がここに建つ計画になっていて、百度地図のストリートビューで確認すると塀には「香格里拉酒店」と記されたポスターが塀一面に貼ってあったり、かつて茶花賓館の表札があった部分の特徴的なピラミッドのような石組みが残っていたりした。
 しかし今は「文明昆明」と記された昆明市のスローガン「創建全国文明城市」「打造世界春城花都」などと記されたものに変わっているし、ピラミッド状の石組みの一帯は地下鉄のホームへつづく出口が新設されていて跡形もなかった。
 塀を見て歩くと、「扬尘治理公示牌」と記された「建設計画のお知らせ」にあたるボードがあった。そこには香格里拉综合发展项目と記されていて、地下部分は駐車場で地上はビジネスビルが建てられることがわかった。建設目的を変えることで建設費用の算段が付いたのか、工事が始まっていた。一面の更地になった現場には、パワーショベルが置かれたり、鉄筋が数百本置かれたりしていて、そばにはヘルメットをかぶった作業員が見えたりした。工事自体は遅々とだが進んでいるらしい。結局、茶花賓館は昆明市の紆余曲折する建設計画に右往左往させられただけだったのだ。

「なんだこりゃ、オレの思い出を返せ」と私は塀に向かって言いたくなった。なぜこんなことが起こったのだろうか。香格里拉酒店の建設計画がなぜスタートしたのか。しかしその後、六年にわたって建設がストップしたのだろうか。これはいったいどういうことなのだろうか。

 なぜこんな理不尽なことが起きるのかというと、中国の土地所有の制度によるところが大きいことがわかる。憲法の第一〇条には次のように記してある。

「都市の土地は、国家の所有に属する。農村及び都市郊外地区の土地は、法律により国家の所有に属すると定められたものを除き、集団の所有に属する。宅地、自留地及び自留山も、集団的所有に属する。 国家は公共の利益の必要のために、法律の規定にもとづき、土地を収用ないし徴用を行い、併せて補償する。いかなる組織又は個人も、土地を不法に占有し、売買し、またはその他の形式により不法に譲り渡してはならない。土地の使用権は、法律の規定により譲り渡すことができる。(以下略)」
 これによると、土地所有権は国家にしかないことがわかる。持てるのは使用権だけだ。つまり国や地方政府がその土地の再開発計画案を作った場合、立ち退き料を支払ったり、引っ越し先を用意したりする義務はあるものの、使用者が居座って開発計画が頓挫することはあり得ない。土地の所有が使用者に認められておらず、それを覆すことができないからだ。
 茶花賓館のケースもそれにあたるのだろう。つまりは昆明市政府がこの一帯を昆明CBD(商務中心区)として再開発を企図したのだ。この地には香格里拉酒店の建設を予定していた。そのかわり老舗ホテルである茶花を昆明北駅の近くというやや不便な場所に追いやったと。

 そもそも中国はなぜこんなにインフラ開発を猛スピードで行えるのか。そのカラクリが橘玲・著『言ってはいけない中国』や加藤弘之/渡邉真理子/大橋英夫・著『21世紀の中国経済篇』に記されていた。以下に要点を記してみたい。[以下はまだ地の文章にしてない]
「経済成長にともなう都市化によって、地方からの人口の流入が続いている。だとしたら、大都市郊外の土地を地方政府が農民から安く徴用し、銀行の融資によって公共交通や住宅・商業施設などのインフラ整備を行えば地価は大きく上昇するはずだ。地方政府はこの土地を売却することで巨額の収入を得ることができ、そこから融資の返済を行う。こうした好循環によって、預金者も、地方政府も、インフラ整備に従事する事業者も、都市の住民も、そしてなにり中国開銀も、(二束三文で土地を取り上げられた農民を除く)全員がパイを分け合うWIN-WINの関係ができあがるのだ」
「中国の地方政府は巨大な不動産開発会社で、農民から収奪した土地を整地し、道路や空港、高速鉄道の駅をつくり、地下鉄網を整備し、マンションや商業施設、公園や公共施設を建設して土地の付加価値を上げようとする。そのためには巨額の建設資金が必要で、不動産の売却益は「自己資金」となって土地開発に投じられることになる。こうした裏マネーの循環によって、中国各地で地価が上昇してきた」(同書より)
 こうして「中国は〝闇の金融システム〟は地方政府の不動産開発事業と結びついて〝人類史上最大〟とも称されるバブルを生み出した」(同書より)とも記している。しかしなぜこんなことが可能なのだろうか。
「中国でインフラ整備が容易なのは土地が国有で立ち退きなどのコストがかからないのがいちばんの理由だが、公共事業を請け負う側からすれば、銀行から低金利で資金調達できるのも大きな魅力だ。国(大手国有銀行)からお金を借り、工事代金は国(地方政府)が払ってくれるのだから、こんなにおいしい商売はない。このようにして、わずか10年で中国の景観は大きく変わった」(同書より)
 このようにして必要かどうかはあまり考えられないまま、無責任な開発が行われていく。その責任は地方政府はかぶらない。そのために。鬼城(ゴーストタウン)が各地にできるそうなのだ。
 しかし、こうしたからくりは本当なのだろうか。無責任でマッチポンプなシステムによっての地価上昇、開発という名目でのえげつない大規模な立ち退きというものは確かにきれいに説明できるのだけど。このほかに似たような事例はあったりするのだろうか。
 一方、この昆明CBD計画がうまく行かず工事が止まったのはなぜだろうか。

 習近平政権になって以降、「虎もハエも同時に叩く」というスローガンの元、徹底した腐敗撲滅計画が実施された。そうしたことが原因となって六年もの間、運営資金がうまく集まらず、開発がストップしていたのだろうか。
 推測できるのはそこまでだ。昆明市内の再開発に関してどんな陰謀が動いているのか私には分からない。ひとつ言えるのは、原因はどうあれ、中国各地の景色が一変してしまったということ、昔の風景はもう記憶の中にしかないということだ。

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