まえがき [中国の高度成長を旅する#1]
まえがき
そのころ、中国は騒々しく、汚かった。
街には土埃が舞い、排気ガスまみれ。ゴミが落ち、そこらじゅうで工事が行われていた。行き交うのはクルマよりも自転車。さらに多いのが垢抜けない服装をした人ばかりの通行人たちだった。
男たちは辺り構わずタバコを吸い、上半身裸で歩いている。うら若き女性がタンを吐いたり、手鼻をかんだりしている。食堂に入れば、ご飯に石が入っていたり、油でお腹を壊したりする。電車に乗るために駅の切符売り場へ行くと、殺人的にごった返していて、何時間もの間、ビーチフラッグの奪い合いに似た、切符の争奪戦を強いられた――。
右記の描写は、一九九一年と九二年、当時大学生だった私が一ヶ月~二ヶ月あまりかけて、中国各地を旅したときのイメージの断片を書き出したもの。この旅で、私は発展している沿海部の都市やずっと西にある新疆ウイグル自治区、東南アジアにほど近い貧しい雲南省までを見て回り、その結果、私は自分なりの中国観を抱くにいたった。それは〝騒々しくて汚い、開発の遅れた、どこまで行っても人がいるとてつもなく大きな国〟というものであった。
私が中国に出かけた一九九一年と九二年は中国にとって節目の年であった。一度目である九一年の末には社会主義連合の盟主、ソビエト連邦が解体した。二度目である一九九二年は中国という国が、その後の高度経済成長が決定づけられたのだ。
特に、後者は中国にとって現在の繁栄につながる重要な年であった。その年の一月、鄧小平氏が広東省などを訪問、改革開放路線の推進を呼びかけた(南巡講話)。当時、党書記であった江沢民は鄧氏の講話を受け、一〇月に開催された第十四回全国代表大会で、社会主義市場経済という経済改革方針を打ち出した。そうした歴史の転換点ともいえる年に私はたまたま、中国にいたのだ。
二回の旅の後の二〇〇〇年代前半までに、私は四、五回、中国を訪れた。香港を起点に深圳や珠海を日帰りで訪れたり(九三年、九七年)、旅の途中に寄り道して上海に一泊したり(九五年)。厳寒期に一カ月ほど、かつて満州と呼ばれた中国東北部を取材して回ったりした(二〇〇二年)。
その間に外国人専用紙幣が廃止されたり、鉄道の切符がコンピュータ化されたりという変化を目の当たりにした。日本国内では、コンビニや居酒屋の店員に中国人がやたらと増えたり、着ている服はもちろん、電化製品の大半がMADE IN CHINAになったりした。
このように二〇〇〇年代前半までの時期、中国の急速な発展ぶりについてはなんとなく認識することができた。それでもなお、私の中国観は大きく揺らぐことはなかった。それは日本と中国の経済格差があまりに開いていたからだ。
考えを改める転機となったのは二〇〇八年の北京オリンピック開催だった。そのころから都市と都市の間が高速鉄道で結ばれるようになったり、GDPが日本を抜いて世界第二位となったりという、これまでには考えられなかったエポックメイキングな出来事が起こり始めた。
そうした傾向はずっと続いていて、二〇一五年ごろには、炊飯器などの電化製品やコスメ、家庭用の常備薬などを訪日中国人が大量に買いまくるという爆買い現象がテレビでしきりに報じられるようになった。その手の報道に登場する訪日中国人の姿をテレビで見た私は驚いた。身なりが見違えるように洗練され、服装だけでは日本人と区別が付かなくなっていたのだ。
そのような、中国が経済的な意味で日本に追いつき、追い越していくようなことを伝える報道に触れるたび、私は思った。騒々しくて汚い、開発の遅れた、とてつもなく人が多く大きな国という私の中国観はとっくに時代遅れなんじゃないか。約十四億もの人の国民が総じて幸せになってきている今の中国は私が知っている九〇年代前半と比べたらまさに理想郷。もはやユートピアと呼んでも差し支えないんじゃないか、と。
それは単なる思いつきであった。急激に発展し続ける中国についての印象を言い表すのに、理想郷という意味を持つ、”ユートピア”という言葉が相応しいかもと思ったのだ。
だがこの言葉、まったく違う意味も含んでいる。広辞苑第七版によると、「トマス=モアの造語で、どこにもない良い場所のこと。想像上の理想的な社会。理想郷。無何有郷(むかうのさと)」とある。ここでいう、トマス・モアとは一五~一六世紀に活動したイギリスの思想家で、ユートピアとは彼が記した同名の空想的社会小説のタイトルのことだ。その作品では、ユートピアという架空の国の政治制度の詳細が延々と描かれている。
「市民たちは六時間働くこと。空いた時間は、精的に自由な教養や教養に充てなければならない」といった説教めいた理想的生活が掲げられる一方、私有財産が禁止されていたり、2年間の農作業従事が義務づけられていたりする。市民が許可なく他の州に行くのは禁止、市会または選挙の場以外で政治の協議すると死刑。市長は専制の嫌疑で斥けられない限りは終身制である。
列挙してみると、理想郷という言葉とはほど遠い世界。ユートピアというよりも、真逆の世界を意味するディストピアそのもの。スターリン時代のソ連か、ポルポト時代のカンボジア、北朝鮮、そして毛沢東時代の中国といった、恐怖的な支配によって国を統治する社会主義国家を彷彿とさせる。こうした体制下の国では言論の自由が制限されていたり、移動に制限がかかっていたりといったことが普通に行われていたのだ。
翻って現在の中国はどうなのだろうか。
経済的な発展を謳歌しているとはいっても、現在の中国の基本的な国家のシステムは変わっていない。共産党の一党独裁は建国当時から不動だし、言論の自由は認められていないのだ。それどころか近頃ではインターネットを使った検閲システムが張り巡らされ、NGワードに引っかかるとウェブサイトが遮断されたり、メールが届かなかったりとするという。
そうした情報だけを聞くと怖く感じるし、今もディストピアなのではないかと思えてしまう。とはいえ、身なりの良い訪日中国人の集団をテレビで見ていると、いかにも経済発展を謳歌しているという風に見えてディストピアという言葉からはほど遠い。ではいったい中国はユートピアなのだろうか、それともディストピアなのだろうか。答えの出ない問いが頭の中でグルグルしているうちに、ふと私は思った。考えるだけじゃなくて、久々に現地を訪れてみよう。出かけてみた上で考えればいいと。
ソ連が解体してから二七年、中国が社会主義市場経済路線を突き進み始めてから二六年。彼の国の風景はどう変わったのだろうか。当時、私が会った人たちは幸せになったのだろうか。
今回は一九九一年か九二年、どちらのルートに寄せて旅をするのか、悩んだ。考えた挙げ句、私は一九九二年に寄せつつも、九一年の旅ゆかりの地も訪れて、景色の変わり様を確認したり、かつて会った人に再会したりして、[中国=ユートピア]という仮説の真偽を確かめていくことにした。
世界で最も人口が多い国なのだ。たった三回の旅について描いただけでは、本質を理解できるとはとうてい思えない。それでも同じ場所を訪れたり、当時会った人たちを探したりするといったことを繰り返すことで、何か見えてくるものがあるのではないだろうか。
中国という巨大な国家がどのようにして変わったのか。そのヒントを本書に見いだしていただければ、著者としてこれほど嬉しいことはない。
能書きを並べるのはこのぐらいにして、そろそろ本編に進むことにしよう。
時代は一九九一年の夏にさかのぼる。