![2018年08月27日17時41分00秒](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9945303/rectangle_large_type_2_2b61fd05a1ef1df50a4bb23543d6bf3e.jpeg?width=1200)
人口一億人の地方へ[1992年/成都編/中国の高度成長を旅する#6]
発展途中の大きな田舎 成都
飛行機が安定飛行に入ると、スチュワーデスから、お菓子の詰め合わせ、雪碧(スプライト)が配られた。
乗りこんだ飛行機、その機体はマクドネルダグラス社のMD82。シートは横に三+二席、縦には三〇席以上というレイアウト。当時、世界的に人気のある機体で、社会主義国にありがちな、旧ソ連製のおんぼろ機体からはほど遠い、新しくてきれいな機体だった。こうした機体を導入できることからも、中国が経済発展していこうとしているんだという気概を感じた。
僕がこれから向かおうとしていた成都は四川省の省都である。四川省は西はチベットに続く山脈を控える山がちな地方。地図だけ見るとこんな山奥に人が住んでいるのかと思えるが、省全体で人口は一億人を越しているという。日本と同じぐらい人口がいるのに一地方でしかすぎないのだ。省都である成都の人口は約四〇〇万人。なのにこれでも中国では中程度の大都市だという。
通路側の席で隣はスーツを着たビジネスマン。あいにく雲が多く、そのため景色はよく見えなかったが、いくつも山を越えていることは辛うじてわかった。北京から成都までは直線で約一五〇〇キロ。列車で約三三時間もかかる距離をこの飛行機はたったの三時間あまりで結んでいる。この飛行機がもし東へ飛べば福岡に着いてしまうのだ。
幸い大きな揺れはなく、飛行機は順調に飛び続けた。離陸してから三時間がたった午後五時半、飛行機は成都の双流空港に無事に到着した。
空港の建物は小さく、ほどなく外に出られた。預け荷物がなかったというのもその理由なのだが、それにしても四〇〇万人がいる空港にしては、大したことがない。ターミナルビルは昨年拡張され、床面積が一万七四〇〇平方メートルと西南地区随一の大きさをほこるというが、僕の地元、大阪国際空港(伊丹)の床面積一二万六〇〇〇平方メートルの十分の一しかない。
ターミナルビルを出たところにある空港の駐車場には市街地域行きの二〇人乗り程度のバスが待ち構えていた。車内に乗り込んで、一・五元というバスの切符を購入すると、まもなく出発した。空港からの道中、舗装された片側一車線の道を行く。高速道路なんてものはなく、車窓からは水田地帯がしばらく続いた。豚や鶏があちこち駆けずり回っていてのどかきわまりない。レンガを積み塀を作っている人、農作業に励む人なとが見える。街の中心に近づくにつれごちゃごちゃし始めた。人間や自転車、自動車が増え、商店やホテルの建物が増え、活気付いてきた。おまけに上海や北京と同様に工事現場が増えた。途中、道路工事をやっていて徐行せねば通れないところもあった。
すると突然、いきなり大きな道路に出た。中央分離帯のある二、三車線のある街の目抜き通りだ。そのまままっすぐ行くと町の中心の毛沢東像のところへぶち当たる。しかしまもなくバスは中国民航の事務所の前に停まった。空港を出発して到着するまでに所要時間は約二〇分だった。
空気がしっとりしていて、人々には活気がある。そんな成都の街を歩き出す。僑園飯店でエッチな本を差し入れてくれたOさんが、成都を訪れていて、彼からめぼしい場所を教えてもらっていた。なのでホテル探しに苦労はしなかった。バスの止まった中国民航の事務所から歩いて一〇分ほどで、目当てのホテルの前に出た。濱江路飯店。建物に入り、早速、値段交渉した。
「有没有多人房?」
「没有」
「有没有三人房?」
「有」
「我要」
服務員は若く、親切だった。それに安かったので決めた。トリプル一人分が一五元(三九〇円)と僑園飯店のドミと同じ値段だった。成都では一番の安宿であるが特に安いから決めたというわけではない。民航事務所から近くなので探すのもなく手軽だったからだ。もっと近い、錦江賓館というホテルもあったがそれは宿泊費の桁がひとつ違っていたのでやめた。シベリア鉄道に行かないことにしたので所持金に余裕はあった。しかし最高級のホテルに泊まる気はなかった。不必要な贅沢にお金は遣いたくない。それに安い宿のドミトリーはいろんな国の人との話ができて情報がたくさん入るので好きなのだ。
僕は一五元払って、ホテルにチェックインし、早速、散歩に繰り出した。東へと濱江路を歩くと、車道を挟んですぐに錦江が流れている。川沿いに児童公園や卡拉OK(カラオケ)の店やレストランが並んでいる。
北京に比べ成都は西にある分、日が落ちるのが三〇分遅く、その時間は午後八時ごろであった。なので歩いているうちに日は沈んだ。
成都の街中は街灯が灯っていたがさほど明るくはなかった。人の集まるレストラン街であっても、店のネオンといえば、カラフルな豆電球が紐状にじゃらじゃらぶら下げられているだけで、根本的な光量が弱い。人通りは少なく、一〇メートルに一人ぐらいしかいない。
濱江路を二、三〇分歩くと、北東から南西へと斜めに走る紅星路にぶち当たった。その交差点には露店がたくさん並んでいて、のぞいてみるとそれは本屋だった。置いてあるのは主に漫画でドラゴンボール、ブラックジャック、シティハンター、聖闘士星矢、ドラえもんなど、日本の違法コピー漫画がわんさと置いてあった。ドラゴンボールなどは全二〇巻。一巻の収録している量は日本よりはずっと少ない。絵柄でわかるのだが、ブラックジャックが怪奇秦博士という風に改題されていて、ブラックジャックのチャンピオンコミックスの第一巻が「恐怖コミックス」とカテゴリーされていることを思い出した。
紅星路に入ると商店が夜だというのにたくさん開いていた。食料品店、歌謡曲を流しているカセットテープ屋、食堂、レンタルビデオ店(日本とはビデオの方式が違う。それにしてもビデオを持っている人なんているのだろうか。よく商売が成り立つな)と軒を連ねていた。あたりは大道芸人などがいて賑やかだ。
サンダルや靴下、万能ナイフにストッキングなどが置いてある雑貨の露店で、サンダルを五元、靴下を二元で買い、その後、夕食とした。
店の前に野菜や水槽に入れ泳がせている魚を並べた食堂もあった。そのうちのひとつである、たらいを使い子供を店の前で水浴びさせている店を選んだ。単に子供の姿がかわいかったからだ。野菜炒めと魚を食べたのだった思う。にしても中国は一人で食事をするのは難しい。一皿の量が多くて食べきれなかった。
部屋に帰るとイギリス人からきたという、学校の教師がいた。三人部屋といってもドミトリーなので、彼は僕の後からここにチェックインしてきたのだ。彼が教えているのは中学校、日本でいうところの高校と大学の間の学校だという。
「I like music? Do you like music?」といって、笑顔を見せながら、彼が聞くのに使っているカセットテープの入ったウォークマンを見せてくれた。
「I like music,too.I have music tape」というと、「Really? Can you show me?」と興味を示してきた。
なので僕はそのときたまたま聞いていた、和物ロックの上々颱風のテープを見せて渡した。
彼は嬉しそうに礼を言って、聞いて良いかと許可を求めた。もちろんOKする。
ところがだ。ヘッドフォンを耳に当てて、ウォークマンの再生ボタンを押すと、途端に表情が曇った。
「君はこれが好きなのか。変わってるな。君はこれを何の目的で僕に聞かせたのだ」
聞かれたので貸したのにあんまりだと思って、僕は弁解した。
「素晴らしい音楽だと思ってるんですよ。わかりましたか」
「わかったけど君は変わってるよ」と言って、あからさまに嫌そうな顔で僕を見た。
そんなやり取りがあって部屋の雰囲気が暗くなった。さらに彼は続けた。
「君はこのグループの手先か?」
「No!」
とそこで話は途切れた。その上僕を蔑むような目で見始めた。確かに聞き手を選ぶ音楽ではあるがあんまりだ。もう寝よう。
昆明行きの硬券を求めて 成都
翌朝、起きて、窓から外を見ると、空は曇っていた。今にも雨が降りだしそうな天気だったので傘を持って、出かけた。しかし、その日、結局、雨は降らなかった。次の朝も、次の次の朝も同じような天気だった。その都度、傘を用意したが、やはり降らなかった。
「蜀犬は陽に吠える」と言ったいい伝えがあるらしいが、まんざら嘘ではないのかもしれない。朝が快晴だったら犬もびっくりして吠えてもおかしくはない。それぐらい曇ってばっかりなのだ。
昆明への列車を手配してもらうため、僕は中国民航事務所の隣にあるCITSへ出向いた。前日、成都の街に着いたときCITSを覗いたのだが、夕方なのでもう閉まっていた。だから翌日の朝に出直したのだ。現在、成都の中国民航には中国西南航空と四川航空に分割され名称も変わっていた。
中に入り、さっそくそこにいた女性服務員に手配を依頼。すると申し訳なさそうに「コンピューターが壊れて二、三日は何もできません」と英語で弁解した。
中国民航でさえコンピューターを導入していないところが多いのに本当にコンピューターなどあるのだろうか。導入したのは最近だろうからコンピューターがない状態でやりくりするのは慣れているはず。であれば何でもコンピューター任せじゃなくて人の力で自力でなんとかやってみたらどうかと彼女の弁解に疑問を持った。しかしらちがあかない様子は他の客たちが呆れた顔で服務員たちを見ていることでわかった。
仕方がないので成都駅へ行った。北京駅のように立派な駅舎ではなかった。何の変哲もない殺風景な駅ビル。近代的で空港ビルのようだ。駅前はやはり混雑している。駅舎内に入り、外国人用切符売り場をさがした。中をぐるっと一周してみたが、売り場はなかった。あるのは人民用の売り場だけだった。混雑していたので躊躇してしまい、切符を買うのは断念した。こんなところで並んだらまた押し競饅頭の末に疲れ果てて、ムダに一日を費やすだけだ。
一旦、切符の取得は諦めて僕は観光することにした。バスに乗って出かけたのは武侯祠という三国志ゆかりの場所だった。ここは三国時代の武将、諸葛孔明や劉備を祭った廟。中はちょっとした庭園になっていて、武官や文官の塑像約三〇体や劉備の古墳らしい塚があった。塑像はみんな閤魔大王のような顔に見えた。孔明、劉備、関羽の像の前で、たまたまいた現地人に声をかける。
「请拍张照?」とあってるのかどうかわからない声調がむちゃくちゃな中国語でお願いすると、OKしてくれる人がいて、撮ってもらえたのだった。意外と中国語は通じるのだと自信を深めた。
次に行ったのは成都の町の北にある動物園だった。ここにもバスで行くが、けっこう遠い。とはいえ車の絶対的な通行量が少ないので三〇分はかからなかったと思う。僕は旅行中必ず、一回は動物園に足を運ぶ。動物を見ていると気持ちが安らぐし、扱われ方でその国の経済状態を察することができるからだ。もちろん僕の目当てはパンダ(熊猫)だった。成都のある四川省はパンダのふるさと。なのでこの成都の動物園にはパンダがたくさん飼われているというのだ。僕は上野動物園のようにガラスに覆われ空調の効いた立派なパンダ舎があるのだと想像していた。ところがだ。入園し、見に行くと五~六匹いるパンダの様子は予想していたものとは違っていた。寝ているのは仕方ないとして、床はコンクリートで鉄の檻という、いかにも前近代的なところで飼われていたのだ。それだけパンダがありふれているのか。それとも単に中国が貧しいからなのか。よくわからなかった。
成都について翌々日、列車の切符売り場へ行った。そこはCITSの女性服務員に教えてもらった場所だった。平屋か二階建て。やや大きめのパチンコ屋ぐらいの建物だったはずだ。到着したのは開店一時間前の午前七時。これだけ早ければ、スムーズに切符が買えるかも知れない。そう思って出かけたのだ。ところがだ。売り場に着くとすでに売り場は人だかりがしていて、売り場に入りきらないぐらいに人がいた。人民たちは意外なことに辛抱強く列に並んでいるのは、まだ開店前だからなのか。そんなことを思いながら長蛇の列の最後尾に並んだ。
電子ゲームのテトリスをプレイして待ち続け、八時半の開店時間となった。蒸し暑い成都で、クーラーのない建物の中、しかも人いきれがすごい状態の中で、待ち続けるのだ。しかも、照明はついておらず薄暗い。幸いにしてそんな押し合いへし合いという感じではなかったように思えたが、密着して並んでいると朦朧とする。列はいっこうに進まない。それは昼前になっても変わらない。こんなんじゃ明日朝発の夜行列車の切符なんてとれないのではないか。できれば硬臥がいいが、それは無理な相談なんじゃないか。始発駅のはずなのに、いったいどうやったら手に入るのか。もしかするともう売り切れたんじゃないか。
そんな風に不安に思い、不快さに苛まれていたとき、売り場の窓口から出口の方向へ人混みを押し抜けで外へ出ようとするおじさんが人混みの奥に見えた。彼はなぜか手に入れたばかりの硬券を頭上に掲げて何か言っている。
「*****」
もちろん切符はなかなか取れないということはわかっていた。とうとう昨年ウルムチでダフ屋から切符を買ったという経験もあった。
そうしたことからそのおじさんが持っている硬券を僕はここぞとばかりに買うことにした。
「我要!我要!」
そう言うとおじさんは硬券を見せてくれた。明日、午前七時四九分発の快客(急行)、席は硬座で四一元(一一一八円)と定価だった。
やはりベッドじゃないのか。でもこれ以上並んでもいつとれるかわからないしな。筆談で買おうとして邪険にされて相手にされないかもしれないし。それに明日出発って急すぎる。定価ってのも変じゃないか。
そのように一瞬逡巡した。しかし、やはり買うことにした。あてもなく並び続ける辛さはもはやご免だった。定価であることを一瞬疑ったが、たぶん、要らなくなっただけだろうと、いいように解釈して、疑うことをやめたのだ。
その夜、陳麻婆豆腐店へ出かけた。麻婆豆腐は陳麻という婆さんが考案したので、そう呼ぶのだ。ここは元祖の店である。中に入ると、何やら工事をしていたが、店は営業していた。数十種のメニューは、ほとんどが豆腐だったので、僕はメニュー全部が麻婆豆腐だと思った。注文は御飯と豆腐料理四品にした。しばらくして、麻婆豆腐ではない料理ばかり出てきた。食べてみると、山椒がきいて独特の辛さがあった。
ニセ切符での旅 成都~昆明
僕が読んで興味を持った宮脇俊三とは中央公論社で中公新書を創刊したり、『中央公論』の編集長を歴任した元編集者。七八年にフリーになってからは数々の鉄道紀行に関する本を著している。僕が読んだ『中国火車紀行』は一九九一年に刊行された本。昨年、中国を旅した後だったか、手に取ってみたのだ。その書籍には次のように記されていた。
「成昆線は成都と昆明を結ぶ一一〇〇キロの山岳路線で、「世界の屋根」と言われる崑崙山脈やヒマラヤ山脈の東縁に敷設されている。沿線は山険しく谷深く、天険の地である。標高二三〇〇メートルの高みに上ったかと思えば九八〇メートルまで下り、また一九〇〇メートルまで上るというように起伏も激しい。四二七のトンネルと六五三の鉄橋があり、ループ線やS字カープの連続する区間もある。一九七〇年の開通だが、大変な難工事だったという」
その後、書籍で宮脇さんは、鉄道がすれ違う瞬間に興奮したり、餐車(食堂車)で泡ばかりの温かいビールを飲んだり、段々畑の底の水田で泥だらけになって働く農夫の姿を認めたり、ポイント切り替えを観察したり、同じ軟臥で乗り合わせた客と話したり、揚子江の支流の恐ろしいほどの水量に感心したり、険しさが増していく絶壁を見つけたり、深い谷を見たりしている。またコンパスを使って、S字ループを確認したり。二三時間の乗車をきめ細かく描写している。
僕はこれを読んだとき、昨年のウルムチまでの鉄道の旅を思い出した。あのとき、北京から洛陽などは硬座に乗って大変な思いをした。やたら混んでいるし、たばこ臭すぎて、降りる頃には喉がやられてしまったのだ。しかし折り返しの硬臥はタバコの臭いこそしたが、人が押し寄せてくることはなくかなり快適だった。さらにはこの旅の初っぱなで体験した上海~北京間の軟臥はクーラーが効いていて大変楽だったのだ。だが高級すぎて居心地が悪い気がした。
今回は硬臥に乗って、山あり谷ありのめまぐるしく変わる景色を存分に楽しむつもりだった。だがそれが手に入らなかったのだ。とするとまた地獄のような旅を味わうのだろうか。それはそれで中々顔をつきあわせることができない人民たちとサシで話す機会でもある。それに僕はまだ二一歳なのだ。若いし、体当たりでドンと行こう。
八月七日の早朝、僕は始発の市内バスに乗りながら、そんなことを回想したり考えたりしていた。成都駅に到着したのは出発の一時間前の午前七時半すぎ。セキュリティなどはなく、到着してからどんどんと中へ入っていく。ドーンと広々とした待合所にはざっと千人以上はいて、混み合っていた。
出発一〇分前になってやっとプラットホームへの入場が始まった。
一種の民族大移動だ。プラットホームにはすでに目当ての列車が入線していた。中国の列車で典型的な濃緑色に黄色いラインが窓の上下に一本ずつ走っている車両だった。
僕は乗るべき車両へと行き、車両入口で列車員に切符を見せた。そして、中に入り、指定された座席に座った。ほっと安心していると数分後、窓側の壁に記されている席番を指さして、「自分の席だ」と主張する若い男が現れた。七三分けで眼鏡姿のいかにも真面目そうな勉強ができそうなタイプの男性だ。彼は二人、若い女性を連れていて、そのうち一人は耳が出ているショートヘアの眼鏡の女性だった。
彼は僕に硬券を見せてきた。それによるとやはり僕の席と番号が全く同じだった。あとの二人の切符も見せられた。すると、三人の切符は席番もコード番号も連番になっているではないか。このとき僕は自分が定価で購入した切符がニセモノだということを覚った。
三人の切符はおそらく売り場で何時間も待って苦労して取ったものだろう。何時間も待たなかったとしても、三枚まとめて買ったものだということは推定できる。それに対し、僕の切符はダフ屋から買ったもの。しかも定価なのだ。もしこれが本物ならば、売る側は利益が出るよう、金額を上乗せしているに違いない。とすれば僕の持っているもののほうがニセモノということになる。しかし、僕は席を譲らなかった。過ちを認めることで、二六時間もの長時間立ちっ放しで過ごしたり、車内からの追い出されたりといった目にすすんであうほどのお人好しではなかった。絶対に立たないつもりだった。
列車が出発して三〇分すると車内はやっと落ち着き出した。切符を持っている持っていないに関わらずそれなりにそれぞれ座っていた。僕と同じ番号の切符を持っている男は連れの女の子ふたりと僕と四人でひしめき合って座っていた。本当は三人掛けなので狭い。しかも席は直角の古い席なので長時間は辛い。
そのうちその男は車掌さんを呼び「切符はどちらが本物ですか」などと言ってみてもらった。僕はそのとき、自分の方がニセモノっぽい。だけどそんなこと自分から言うわけには行かないしどうしようとそんなことを考え、早く行ったらいいのにと内心では思っていた。とは言ってもそんなことはやぶへびなので口に出して言うわけにはいかない。判定を託された女車掌さんは二枚の切符を見比べた。表を見たり裏返したりして何度も確認する。そして数分後に、「わかりません」といって、去っていった。
それを機会に三人とは和解した。これ以上、言い合って門を建てるぐらいなら周りの和を重んじようと判断したらしい。実際彼は、和解して以降、切符のことは僕に対して一切聞かなかった。
僕が名前を名乗って漢字で名前を書く。すると彼らも一人一人、筆談と英語を交えて自己紹介した。Gジャン姿、七三分けで眼鏡の男は羅怡という名前だった。年齢は二〇歳だという。やはりGジャン姿、眼鏡を掛け耳が出るぐらいのショートカットで英語がうまいのが陳さん。髪が長く、ワンピース姿、手足に怪我をしていたのが楊さんだった。三人とも成都第三二中という学校に通っているのだという。彼らは三人で昆明へ遊びに行くところなのだという。
和解してからというもの三人はやたらと親切だった。飴玉をくれたり車窓の外をガイドしてくれたりしたのだ。これは昨年北京で会ったRさんに通じるものであった。タバコで車内はすぐにもうもうになったので飴玉をくれたのは有り難かった。
あとで知ったのだが、中国には关系という言葉があって、この言葉で彼らの行動は説明できるのかも知れない。一度仲間と見なせば、彼らはとことん尽くしてくれる。それは逆に相手にもそうしなければならないのだが、僕はこのときそんなことを知らず、なんで中国人はなんでこんなに親切なんだろうと嬉しく戸惑うばかりなのだった。
三人の中で一番というか、それこそ暇さえあれば話しかけてきたのが英語の話せるショートカットの陳さんだった。
「カーペンターズは知ってますか?」と聞いてきたので、「うん」と頷いて「大工」と漢字で書いた。すると陳さんも「うんうん」と頷いて、「イエスタデイワンスモア」を歌ってくれた。
じゃあということで僕は「ビードルズはどう?」と英語で聞いた。すると首を横に振られたのだった。特に後期は実験的になるし、メンバーもドラッグにはまったりしていて健全ではなく、はっきり言うと退廃的だ。そうしたところが、共産党政府からはダメの烙印を押される原因だったのだろうか。
「楽山は日本の市川市と友好関係にある」
「長江の支流の上を今は走っている」
「郭沫若の旧居がこの辺りにある」
ちなみに三つ目の話についてはピンとこなかった。漢字で書けば分かると思ったのか英語で言うのをやめて多分、陳さんだったと思うが漢字で書いた。それでも僕はピンと来なかった。郭沫若を知らないことにびっくりされてしまった。
郭沫若は楽山出身の文学者。日本に留学したり、千葉県の市川市に一時亡命したりして、日本とゆかりの深い人だ。中華人民共和国が成立後、政権に迎合したからか、中国では大変有名だが、日本では誰もが知る文学者という感じではなかった。それに僕の知識不足もあったことがピンとこなかった原因なのだ。
陳さんはじゃあという感じで「孫中山?」と書いた。僕は「孫文」と書いて、「この人ならもちろん知ってる」と言った。三人は三人で孫中山しか知らないようで同じ人物のことを話題にしているのに噛み合わなかった。
そうやって噛み合ったり噛み合わなかったりしたが、お互いの知識の確かめ合いから、お互いの考えの背景が垣間見えるのが面白かった。
外の景色は山や谷へそして川と続いた。山という山が耕されていて木が少ない。昼間はずっとそういった風景が続いていた。つまりずっと絶えることなく人が沿線には住んでいるということだ。車窓は三〇〇〇メートル級の山がずっと続いていたかと思えば深い谷に変わる。ずっと下にある谷底には川が流れている。まるでグランドキャニオンのようだ。行ったことはないが。
そうして絶景に見とれているとゴーという特有の音と共にトンネルに入ってしまって景色を遮られる。トンネルを出たかと思えば「ガタンガタン」と橋の上を通る。車窓から見える景色はこのように次から次へと変化していった。通過するのは概して短いトンネルが多く、景色をしょっちゅう遮った。
宮脇さんは甘洛から普雄の間にあるループ線のところで、方位磁石を使い、磁石の針が一回転するのを確かめている。僕がその地点を通るのは甘洛駅出発が一四:三九で普雄到着が一六:二八と日中なのだ。方位磁石がなくてもわかるのではないか。そう思って、その区間でカーブが続く地点になると、気をつけて見ていた。しかし、結局はどこでループしたのかわからなかった。
さて話をもどそう。
親切にしてくれるので一人で黙々と遊んでいたテトリスを貸してあげた。すると三人でたらい回しになってしまって帰ってこなくなった。このときは戸惑ったが、これもまた僕のことを仲間として見ていることの表れだったのかもと後になって思ったりした。
彼らがゲームで盛り上がっている間だったか、僕は積極的に筆談をした。向かいの父子のうち、子供は聖闘士星矢がお気に入りだということを教えてくれた。また通路を挟んで向かいの席のお姉さんとも筆談したが、そのメモはなくなってしまったので何をやりとりしたかはわからない。
僕はは図に乗って夕方になって乗ってきた逞しい農家のおばさんとも話そうとした。しかし彼女は文盲らしくダメだった。甘みを抜いた梨のような歯ざわりの大根をもらったので、お返しにゲームを貸したけどやらなかった。その辺りになると、顔の赤い、カゴを背負った変わった衣装を着た女性などちらほらと増えてきた。この辺りはイ族が住んでいるエリア。とすると筆談ができなかったおばさんは単に地方の人というより、少数民族だったのかも知れない。
昼間は周りの人達と筆談や歌合戦をしたりした。夜になると、三人で餐車へ行ったり、トランプをやったりして仲良く楽しくやった。
「パナソニックの製品はいいよ」「中国人のマナーのないのにはごめんなさい」「Dr.スランプは面白い」
しかし夜になると楽しくなかった。起きてるうちはまだいい。昼間と同じように楽しくやればいいから。なら夜が深くなってくるとそうはいかなくなった。というのも眠れないのだ。
昨年北京から洛陽に行ったときも煌々とついていたライトがやはりつきっぱなしだった。あの時は窓から人が入ってきたりしてずっとぎゅうぎゅう詰めで座っていても圧迫感があってつらかったが、今回はそこまでは混んでいなかった。
硬座の車内は夜中でも客の出入りがある車内灯が消されない。昼間はつけないので比較的暗いなので昼夜逆転になってしまう感じ。夜遅くなる頃には、かなり山の中に入っていて、車内は空き始めた。四川省のかなり南のチベット文化圏にほど近いところにさしかかっていて、乗ってくる人と言ってもカラフルな衣装を着た朝黒い竹かごを背負ったような少数民族の人たちとかばかりで、そうした人たちが立ち放し。寝れないのはやっぱり辛い。すわりっぱなしで横になれないのも足がパンパンになってつらかった。
全般的に火車内は案外すいていて、僕らの火車は通路が埋まらなかった。その上、途中からは空席も出てきた。僕と羅くんは窮屈さから解放された。しかし、夜は寝れなかった。硬座車内は、室内灯を夜中、消さない。それに窮屈さから解放されたといっても、寝るには座席は窮屈すぎた。横になれないのだ。結局、細切れ睡眠しかできなかった。
出発して約二六時間がたった翌日午前八時三〇分、火車は昆明に到着した。停まった駅は実に二七駅。一時間に一駅以上のペースで停まり続けたその旅の行程で、僕は寝不足と疲れでふらふらとなった。