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1889年生まれの三人、ウィトゲンシュタインとハイデガー、そしてヒトラー。もしくは、酒と言語と存在と時間。

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20世紀を代表する哲学者、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとマルティン・ハイデガー。この二人の哲学者は、なんと同い年である。さらに、言わねばならない。そう、あのアドルフ・ヒトラーも同じ年に生まれているのだ。数奇な運命である。まだある。ルートヴィッヒとアドルフはオーストリア、リンツの同じ高等実科学校(レアルシューレ)に同時期に在籍していたという共通点まである。

ヒトラーによるナチス台頭の中、ハイデガーは「ドイツ人」として生きた。「ユダヤ系」であったウィトゲンシュタインはそうはいかなかった。本音では、小国に落ちぶれていたオーストリアのままでいるより大国ドイツの一部になることを、場合によっては望んでいる節もあったかもしれない。しかし、ユダヤ系であったウィトゲンシュタインに、ナチスドイツは望ましい事態は生まなかった。ウィトゲンシュタインは、交渉により家族の非ユダヤ認定をなんとか勝ち取り、自身もイギリス国籍を取得し、大いに世界を憂いながらこの時代を生き抜いた。

ハイデガーの立場は異なる。ハイデガーが反ユダヤ主義であったことは周知されているが、近年になってさらに『黒ノート』と呼ばれる手記に明確な反ユダヤの記述があることが問題にもされた。もしかすると、世間的には「ハイデガーはナチス加担者」とすら認識されているのかもしれない。ただ、ハイデガーの反ユダヤ主義は、ナチスのそれとは違う。民族や人種の問題が、仮に表面上認められたとしても、決してそれを本質としていたわけではなく、もっと深く彼の哲学そのものに絡みついた形而上学的なものが本質であったように思われる。真意はわからない。ハイデガーにもある種の罪はあったかもしれない。しかし、彼が負う責任は真理に対してであって、人類に対してではない。そう、彼が哲学者である限り、謝るなら真理に謝れということである。哲学者に対して謝罪要求することの無意味さは、既にソクラテスが弁明している。哲学者は「死んでも」謝らない。

「ナチス」という時代のあちら側とこちら側を生きた二人。初めに目指した地点はもしかしたら同じだったのかもしれないが、決して交わり得ない二人であった。「時代」が分かたなければ、二人が出会うことはあったのだろうか。ハイデガーは「ど真ん中」を歩き「周辺」のことなど気にも止めなかった。ハンナ・アーレントとの不倫、そして代表作の『存在と時間』という尊大なタイトルにも「自分こそが真ん中である」という自負がよく現れている。しかも『存在と時間』は、風呂敷を広げ過ぎて、結局構想をまとめきれず未完で終わっていることは、重要であるが知らない人が多い。ハイデガーがウィトゲンシュタインをどの程度認知していたのかはわからないが、少なくともハイデガーがウィトゲンシュタインに言及したとされる資料を僕は知らない。ウィトゲンシュタインはイギリスという「周辺」に属すことを余儀なくされつつも、「ど真ん中」で生きているハイデガーを確かに認知しており、一定の理解を示す発言をしている。しかし、あくまで理解を示しただけであって、ハイデガーの考えに特に目新しい価値を見出すことはなかったようだ。ハイデガーは「周辺」を無視し、ウィトゲンシュタインは「ど真ん中」を無価値と断じた。決して交わることのなかった二人の、その哲学もまた、決して交わることのないものであった。

ハイデガーは意味を解釈した。

ウィトゲンシュタインは意味を解釈しなかった。 

まるで違う。

もっとも、この表現は、実はハイデガーとウィトゲンシュタインの違いというよりは、ウィトゲンシュタインとウィトゲンシュタイン以外の違いと言った方が正しい。

今回は、いつもより少しだけ真面目に哲学してみよう。

いきなりであるが、たとえば、「存在を了解しているから存在者に出会える」というハイデガーの理屈は、僕には全く理解できない。現に、僕は存在を了解などした覚えはないが存在者には出会えている。僕のいまの発言を浅薄だと否定するには、「存在とは何か」「了解とは何か」「存在者とは何か」「出会うとは何か」の全ての定義とその定義をつなぐ「テーゼ」が必要になる。全ての定義をハイデガーの持参した「テーゼ」で糊付けすれば、僕の発言を否定はできるのだろう。しかし、僕は別にハイデガーのご立派な頭の中に住みたいわけではない。なぜ、人間のことをわざわざ「現存在」などと呼ばねばならないのか。

現存在とは、自ら存在しつつその存在に対して了解的に態度をとっている存在者である。

これはハイデガーによる「人間」の定義の日本語翻訳である。頭が良いをこじらせて、一周回って、もはや頭が悪い文章である。翻訳を間にかませているので、余計に意味不明さが際立つ。しかし、こんなものはほんの序の口で、もっともっとこじらせた表現がいくらでも出てくる。もちろん、それは本人からすれば必要な表現であり、故意に言葉遊びをしていたわけではないだろう。ハイデガーが言わんとすることを表現するにはこのような手続が必要だったのだろうということは、じっくり著作を読み込めば汲み取れる。ただ、前提の時点でいきなり躓いてずっこけてしまう僕のような者には、わざわざ七面倒な手続きを踏んでまでハイデガーランドに入園する意義が感じられないのだ。

正直、僕はハイデガーをまともに読んではいない。正確には、中学生の頃に『存在と時間』は読んだはずだが、大人になってからもう一度丁寧に読み直すことはしていない。わざわざ時間を割いて丁寧に読み直す価値を感じないからである。けれども、その一方でハイデガーを熱心に読み込む研究者という熱量もまた、存在する。もちろん、それこそが多様性というものなのだから、好きにすれば良いと思うし、いま「好きにすれば」と言ったが、そう、もしかするとこれは、現代的価値観においては、もはや嗜好性の問題として手を放してしまっても良い問題なのかもしれない。シングルモルトのスコッチをニートで飲むか水割りで飲むか。どのみち答がよくわからないなら、各自が美味しいと思う方法で味わえば良いのかもしれない。しかし、僕は水割りは好まない。

ハイデガーは解釈によって地平を切り開いたわけだが、解釈学的な思考は砂上の楼閣でしかない。つまり、あらゆる「解釈」は各人がそこに接続を試みるとき、歯車が噛み合う保証はなく、ほとんどにおいてそれは空転する。だから、ウィトゲンシュタインは解釈しなかったのだ。マッカランを水割りで飲むと言っても、水道水で割る人もいるかもしれない。シングルモルトは割らずに飲むのが一番ブレない。ハイデガー、いやほとんどの哲学者を研究するとは、その哲学者が何を考えていたかの「読解」を意味する。どんなに美味しいウイスキーの飲み方を教えてもらっても、ウイスキーの製法はわからない。もちろん、ウイスキーはただ美味しく飲めれば、別に製法をわかる必要はない。製法を知っているより飲み方を知っている方が、実際、人生は豊かになるかもしれない。

僕が物心ついて以来ずっと抱いている疑問は、「人類が考えて理解できることに限界があるのか」「人類に宇宙の全てはわかるのか」ということである。僕の知る限り、その問題と「真摯に」向き合った哲学者はウィトゲンシュタインだけである。科学者としてではなく哲学者としてのアインシュタインには少しその傾向は感じるが、主問題として向き合っていたわけではない。そう言えば、アインシュタインもまた時代に分断されたユダヤ系である。アインシュタインは1879年生まれなので、少しお兄さんになる。

さて、今度は「道具を使う」という例で考えてみよう。

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