科学という宗教について
1. 「科学教」の聖職者
皆様は特定の宗教を信じていますか? 筆者は、先祖代々の宗派が曹洞宗なのでオフィシャルには仏教徒ということになると思います。ただし、日常的に何か宗教活動をしているわけではありませんので、多くの現代的日本人と同様、形式上の仏教徒です。
宗教というものの正確な定義は専門外の筆者には分かりませんが、一般人として捉えてみると、それは生き方や信条を形作るために、神とか仏とか、なれない存在なのかなりにいく存在なのかはともかく、要は「絶対的な存在」を祀り上げる行為だと思います(こう丸め込むと怒られる可能性もありますが、宗教という言葉を比喩的に使うために敢えて丸め込みました)。
我々現代人がよく絶対的な存在として祀り上げるものとして、科学あるいは科学技術というものがあります。信用ならない物事をよく「非科学的だ」と一刀両断することから分かるように、我々の多くは科学というものに絶対的な信頼を寄せています。
もちろん、科学を絶対視するようになったのには経緯があります。科学が発展し、技術として昇華し、我々の生活を劇的に変化させてきたからです。電車、自動車、船舶、飛行機と言った便利な乗り物や、洗濯機、冷蔵庫、空調機といった家電製品など、近年ではパソコンや携帯電話やインターネットといった情報通信関連の製品や技術など、科学技術は人類に対して分かりやすい貢献をたくさんもたらしています。それゆえ、我々が科学を絶対的なものだと半ば無意識的に思ってしまう土壌が出来上がっています。
そのような類推から、科学というものは現代における最も勢力の大きい宗教である、と例えることができます。その文脈から言えば、筆者のような研究者は、仏教でいえば僧侶、キリスト教で言えば司祭や牧師のような存在であると言えます。
科学教の聖職者である筆者が語るのもある意味でおかしなことではありますが、しかし大事なことだから述べさせて頂きます。科学は絶対ではありませんし、科学にも解明できないことはあります。全てを科学で説明したいという欲求は理解できますが、しかし現実には科学の教義に則った方法では判別できないものもあります。
2. 疑似科学との線引き問題
科学者は、事実と論理だけから新たな事実を淡々と追及していると思う人がいるかもしれません。あるいは、そうあるべきだと考えているかもしれません。しかし、実際のところ科学には実に多くの主観が混じっています。
例えば、エネルギーが必ず保存されるという法則は破られていませんが、未来においては破られるかもしれません。これを読んで、おや、と思いましたか。「そんなことはあり得ない」と思ったなら、それは主観です。もちろん、筆者自身の研究でも、エネルギーが保存される計算結果がでたらホッと胸をなでおろします。しかし、これも主観です。正しいと主観的に思っていること(エネルギー保存則が破れることなどありえないという想定)と矛盾しない結果が出たからホッとしているだけです。
また、これとは逆に、ある研究成果がどれだけ検証しても想定外の結果になるようなら、勢い大々的な発表に打って出るかもしれません。想定外の結果がもし正しいと認定されれば、それは時としてノーベル賞級の研究とみなされます。
しかしよく考えると、「想定内」とか「想定外」とか考えている時点で、科学研究というものは科学コミュニティの主観に大きく支えられていることが分かります。
困ったことに、科学や科学研究から主観が排除できないという問題は、実はとても大きな問題を孕んでいます。それは「科学」をどのように定義しようとしても、いわゆる「疑似科学」との区別がつけられないという問題です。
科学と疑似科学をどう区別すべきかというのは「線引き問題」と言われていて、現代的な結論としては、科学と疑似科学は明確には線引きできないとされています。これは、科学の必要十分条件を与えることは不可能であるという結論から導かれています(参考)。
このことは、これは科学であれは科学ではない、という判断は主観なしにはできないということを意味しています。我々が、専門外の科学についてどれだけ主観で判断しているかを冷静に考えれば分かるかもしれません。宇宙はビッグバンから始まったと言われても、本当かどうかわかりません。ビッグバンというのは、これまでに判明してきた様々な宇宙物理に関する事実を都合よく説明できることが多いから支持されているだけであって、絶対に確定した理論ではありません。そもそも、ビッグバンの説明を物理学者ではなくどこかの宗教の教祖がしたとしたら、我々はそれを科学ではなく単にその宗教の教義に過ぎないと思うでしょう。というわけで、ビッグバンを信じる人たちは科学教宇宙物理宗ビッグバン派という感じでやはり宗教になぞらえることができます。また、生物学ではまだ生物の進化を(シミュレーションではなく)実験で再現できてはいないそうですが、このことが進化論を懐疑的に見る宗派の存在を否定しきれない要因になっているようにも見えます。
一般的に疑似科学とされているものの中には、確かに科学ではないと判断できそうなものも存在します。例えば、効果が確認できないものに効果があるという主張があったとしましょう。科学界でそれをやれば捏造と言われ、一般人に向けてやればオカルトと言われます。しかし、科学研究というのは、仮説を立てて実証するという作業を指すことが多いので、例え実証が出来ていなくても「有力な仮説」と言ってしまえば科学としての装いを維持できることがあります。これを細かく検証していって、本当に疑似科学と断定できるかはとても難しい問題です。〇〇菌が存在して万病を治すと言われても、〇〇菌なるものは検出された試しがないし病気が治った根拠もない。そのようなケースは一般的に疑似科学だと見なされますし、筆者もそれには(主観的に)賛成です。でも、線引き問題に照らし合わせて、理屈として疑似科学であると判断できるかは困難であると考えられます。
3. 「非科学的」とはどういう意味か
厳密な線引き問題はひとまずおいといて、話を進めましょう。一般人としての生活を送っているときとか、科学者として研究を進めていくときには
科学的に正しいと証明されたこと(真)
科学的に正しくないと証明されたこと(偽)
科学的に正しいか正しくないかまだ証明されていないもの(未知)
科学的に正しいか正しくないか証明できないもの(科学の範囲外)
という4つのカテゴリーを考えることが大事かもしれません。この区分けが厳密には意味をなさないということは先ほどの議論から明らかですが、でもそれだと科学を考えるにあたって不便です。なので、便宜的にこの区分けを使っていきましょう。
まず、ビッグバンや進化論はこれまでに判明してきた様々な宇宙物理や生物学に関する事実を都合よく説明できることから1(真)に入れても良さそうですが、有力な仮説(まだ実証されていない)という意味では3(未知)だと考えられます。〇〇菌は検出された試しがないし、〇〇菌を含んだとされる物質が何らかの説明不能な効果をもたらした根拠もないので2(偽)に含めて良さそうな気がしますが、本当でしょうか。ここでもう一つ例を挙げてみます。血液型性格診断はどうでしょうか。
どうやら日本くらいでしか流行っていなさそうな血液型性格診断は、占いの類に含まれることが多いようです。この時点で非科学的な匂いが出ていますが、しかし我々の身近には、この診断を受け入れている人たちが実に多く存在します。A型は細かいとかB型は我が強いとかO型は大雑把とかAB型は二重人格とか、そういうレッテルを「概ね正しい」と判断する人たちです。もちろんこれには批判者も多く存在していて、日本にはA型が多くB型が少ないのでB型に不利なレッテルが多いとか、そもそも人のタイプを4種類に分類するのは無理筋だとか、血液型で性格が変わるわけがないとかです。あるいは「A型は几帳面」と言われ続けるとだんだん几帳面な性格に変わっていくという意見もあります。統計をちゃんと取ってみたら相関関係は認められなかったという報告もあるようですから、2(偽)に含めて良さそうな気がします。
しかし、本当でしょうか。そもそも血液型性格診断を信じる人たちは、皆同じ評価対象と評価基準を持っているのでしょうか。「A型は細かい」という定義が本当に意味するところは人によって大きく違うでしょう。詰まる所、血液型性格診断というのは、
・とても曖昧な評価対象と評価基準に基づいて
・評価者の曖昧な自己流判断で
・しかも自己流判断によく分からない主観の混じった修正を加えながら
・無理やり4つ(またはAO、AA、BO、BB、OO、ABの6つ)に分類する
という作業なので、そもそも科学的な装いを持った診断とは言い難いです。診断対象自体も、長い期間流行り過ぎた結果として「性格」だか「人格」だか「癖」だか「生き方」だかあるいは別の何かなのかよく分からないもののことが多いようですから、実は何をもって診断が正しいと言えるかも曖昧です。つまり血液型性格診断そのものが曖昧すぎて「血液型性格診断は正しいか正しくないか」という命題すら成立していないのではないかと考えられます。
以上のことから、血液型性格診断は4(科学の範囲外)に含まれそうです。曖昧な命題に真偽はつけられません、ということです。同様の理由から、いわゆるオカルトの多くは4(科学の範囲外)に含まれると考えられます。エジソンが晩年に霊界との通信機器を開発しようとしていたという話は有名ですが、これも霊界という科学的に定義不能な対象を含んでいますので4(科学の範囲外)に入るのではないでしょうか。
※誤解のないよう注記すると、血液型性格診断の心理学による検討はもちろん科学だと思います。占いも含めて、どのように信じてしまうかという人の心理を科学的方法で追求することはできます。しかし血液型で性格が違うかどうかという根本的な命題になると、違いはなさそうという主張が優勢ではあるもののやはり断定には至っていないようです。また、明確な定義のもとで実験を行い統計データを集めることもできますが、明確な定義をした時点でその定義自身が恣意的になってしまうという問題があります。
我々が「非科学的だ」というとき、2(偽)のつもりで言ってしまっていることが多いように筆者には感じられますが、非科学というのは「科学に非ず」という意味なので4(科学の範囲外)を指すはずです。科学の範囲外であるということは、科学的には正しいとも正しくないとも言えないことを意味します。なので、「非科学的な言説=間違った言説」という関係は一般には成り立ちません。
また、厳密に2(偽)だと言えるのは、恐らく「存在するものを存在しないと言った場合」くらいしかないように思います。そういう意味では、〇〇菌は4(科学の範囲外)に入れるべきなのかもしれません(存在が確認できないものを存在すると言っているので、厳密には判定不能なのではないかという意味です)。
あとこれは余談ですが、元が曖昧なものを曖昧なまま科学するのは最近の流行りですが、曖昧なものには決定不能性が多分に含まれていることに注意しておくべきです。
4. 科学は「絶対」なのか
4(科学の範囲外)の存在は、先ほどの線引き問題の解決不可能性を表しているようにも見えます。しかも、困ったことに4つの分類は絶対ではありません。ずっと未来ではビッグバンは3(未知)ではなく2(偽)や4(科学の範囲外)にカテゴライズされているかもしれません。また、今はオカルトとされていることの一部に4(科学の範囲外)から3(未知)へと変わるものもあるかもしれません。気のせいと言われていた心身の不調に医学的根拠が与えられたり、心霊現象と言われていたものが科学的に解明されたり、といった事案はすでにいろいろあるかと思います。逆に錬金術のように真面目な科学だったものがオカルトになってしまうこともあります(近年ではある意味でまた科学に返り咲きそうな気配もありますが)。
結局、科学研究とはその時代で1(真)、2(偽)、3(未知)にカテゴライズされた事柄を対象とし、3(未知)のものを1(真)か2(偽)に移動させることを目的に行われるものなのだと考えられます。なので、4(科学の範囲外)含まれる事柄は(ある時点で1、2、3に移動する可能性はあるものの)基本的には科学の対象外となります。そうであれば、科学と4(科学の範囲外)を両立させても矛盾が生じなくなります。このことは、科学者は無神論者でなくては辻褄が合わないと考える人たちへのよい反論になると思われますし、科学者がオカルトを信じることがあっても別に矛盾はないということを示唆してもいます。
何が科学的で何が非科学的か、という問いの解答がこれほど曖昧で複雑なことになっていることは、我々が科学研究をするにあたって気をつけておかないといけないポイントかもしれません。筆者は、立場上、科学は正しい! 科学は素晴らしい! 科学は絶対だ! と唱えなければならないのかもしれませんが、しかし科学は現実のある側面だけを照らし出しているに過ぎず、技術がどれだけ魔法と区別がつかなくなろうとも、全知全能ではないのです。ですので、何か特定の科学技術を盲信(過度に信用)することは、科学者として真っ当な姿ではないと、筆者は思います。
※参考文献:須藤靖、伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか』
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