【脚本】おれんちのオレンジ
〇香取洋介宅(夜)
木造モルタルアパート、畳の部屋。
ちゃぶ台をはさんで、上下スウェットで寝ぐせボーボーの香取洋介(39)と、身なりのよい服装の山本順子(42)が向かい合って座っている。
洋介は煙草を吸っている。
洋介のまわりに、くしゃくしゃにされた原稿用紙やペンががちらばる。
日本酒の一升瓶が転がる。
ちゃぶ台の上にオレンジがひとつ置かれている。
洋介「それで、うちの妻とあなたのご主人が、同じ職場で同じ日に無断欠勤したまま行方不明になったから、二人は駆け落ちしたに違いない、と、お考えなわけですね」
順子「ええ。そうとしか考えられません」
洋介、肩をすくめて
洋介「私はそうは思いませんね。そもそも妻は行方不明になってはいない」
順子「そんな。だってさっき、家にはいないって、おっしゃったじゃないですか」
洋介「あれはね、以前の妻はもういないってことを言いたかったんです。妻はいますよ。すぐそばに」
順子「はあ。では、どこに」
洋介「ここですよ。ここにいます。ここにあるこれ」
洋介がちゃぶ台の上のオレンジを指す。
洋介「このオレンジが妻です」
真顔でオレンジと洋介を見る順子。
洋介「これ、実は妻なんです。妻が変身してるんです。いやね、いつまでたっても家に帰ってこないから変だあと思ってたら、玄関にこれが転がってて。それで、気が付きました。これ、うちの妻だって。妻がオレンジに変身してたんだって」
順子「はあ。でもどうしてオレンジなんかに?」
洋介「妻はオレンジ色がとても好きなんです。何でもオレンジ色のものを選ぶんですよ、靴下とかハンカチとか。エルメスとか」
困惑した表情で洋介を見る順子。
洋介「そうだ。あなたのうちには何か残されていませんでしたか。ご主人がいなくなった後にみつかった、ご主人にまつわるようなもの」
順子「ええと。主人の車に煙草が一箱と…」
洋介「(大きな声で)それだ!あなたのご主人は煙草が好きではなかったですか?」
順子「はあ。まあ、喫煙者ですから」
洋介「なるほどやっぱり。すばり、ご主人はその煙草です。煙草に変身しています」
順子「そんなわけないでしょ」
洋介「いやきっと何らかの何かがアレして、ご主人を煙草に変えてしまったんだ。きっとそうだ」
順子「何なんですか、その何らかとかアレって」
洋介「たとえば宇宙人です。気まぐれに地球に降り立った宇宙人が、ふと、遊び心が頭をもたげて、たまたま見かけた同じ職場で働く二人に向けて、家に帰るやいなや好きなものに変身してしまう光線を浴びせたかもしれない」
順子「なんのために!」
洋介「奥さんっ!そんなのわかるわけないでしょ!相手は宇宙人ですよ!」
順子「もうわけがわからない…」
順子がちゃぶ台に突っ伏してしまう。
洋介「それとも、まだまだ修行が足りないドジっ子の魔女っ娘が…」
順子「もういいっ!」
順子が泣いている。
洋介「…奥さん、煙草を吸いながらオレンジを食べると、どうなるか知ってますか?」
意味深な言い方に順子が顔を上げる。
順子「え?知りません」
洋介「すごく…不味いです」
○道(夜)
順子が洋介の腕を引っ張って、ずんずんと歩いている。
洋介「いててて、放してくれよ。痛いよ」
○山本家のガレージ前(夜)
豪邸の敷地内にあるガレージ。
洋介「すごい家だな。あんた何の仕事してるの」
順子「会社を経営してます。先代の父が病気で倒れて、会社も倒産寸前ってときに、専業主婦だった私が無理やり引き継がされたの。それで、なんやらかんやらあって、今は以前より会社も大きくなって順風満帆ってとこ。向いてたみたい、主婦より会社経営が。さあ、入って」
順子がガレージの扉を開ける。
外国製の高級車が2台停まっている。
洋介「旦那は同じ会社で働かないのかい」
順子「私と働くの嫌みたいなの。それどころか、専業主婦として家庭に戻れっていうのよね。俺が食わせてやるからって。そんなのまっぴらごめんよ。私は働くのが得意だし何より好きなの」
洋介「へえ。うちのとは正反対だ。なあ」
手に持ったオレンジに話しかける洋介。
順子「あなたは何をしてるの?」
洋介「小説家…を目指している。いわゆる無職のヒモさ」
順子「奥さんだけが働いているのね」
洋介「こう見えても、俺だってむかしは外資系の金融会社でばりばりやって、たっぷり稼いでたんだ。だからしばらくは生活に困らない程度の貯金があるはずだったんだけど、知らぬ間にこいつが使い込んでてね。悪いと思ってか、働きに出てくれてるんだけど。前の生活に戻りたいから俺に働いてくれって、ときどき泣いたり怒ったりすることがあって…。でも俺はもう戻りたくない」
洋介がオレンジを見つめている。
順子が車のドアを開け、中から何かを取り出す。
順子「これ、さっき言ってた煙草」
洋介「ほうほう。実に煙草らしい煙草だ。つい最近まで人間だったとは思えない」
順子「それと、これも車の中に落ちてたの」
順子が洋介の目の前に差し出したのは、オレンジ色の女性もののハンカチ。
洋介の表情が固まる。順子からハンカチを受け取り、まじまじとみつめる。
洋介「エルメス…」
順子「ねえ、これ奥さんのよね。これ見てもまだ、あなたの奥さんはオレン
ジになって、私の夫は煙草になったなんていえる?」
目を背ける洋介。
順子「ねえ、きいてる?同じ日に同じ職場で働く男女がいなくなった本当の理由、もうわかったんじゃない?いいえ、本当はわかってたんじゃないの?」
黙りこくったままの洋介。
順子「ねえ、わたしたち、捨てられたのよ。きっと。私の夫はあなたの奥さんと一緒に、どこかに行ってしまったの。私とあなたを置いて、駆け落ちしたのよ」
黙りこくったままの洋介。
順子「なんとかいいなさいよ!」
順子が洋介の腕を掴む。
声の勢いとは裏腹に、心配そうな順子の顔。目から涙が溢れ出している。
洋介、毅然と。
洋介「いいや、あなたは間違っている。俺の妻は俺を捨てたりしない。そして、あんたの旦那もそんなひどいことをするはずがない。二人はたまたま同じ職場の同僚で、なにかの拍子に、ひとりはオレンジに、もうひとりは煙草になっただけのはなしだ。誰も悪くないし、誰かが傷つく必要はない。だから、もう泣くのおよし」
洋介がオレンジ色のハンカチを順子に差し出す。
それを順子が手で払いのける。
順子「このハンカチはオレンジ色が好きなあなたの奥さんのものでしょ。ふたりは車で出かける仲だったのよ。ふたりはできてたのよ。いい加減、目を覚ましなさいよ!」
洋介「いいや違う。たまたま妻のハンカチが風に飛ばされ、開いたままのこの車の窓の中へと飛び込んだかもしれないし、たまたま同じハンカチをあんたの旦那が月1回の秘密の女装愛好家パーティーで使用していたかもしれない。世の中はいろんな可能性に満ちている。そして時々、その可能性ってやつが、我々の想像を超えた現象をひき起こす。現に、ほら、いまここに、オレンジに姿を変えた女がいて、煙草に姿を変えた男がいるんですからね!」
順子がよろめき、フラフラとガレージを出ていく。
順子「頭痛くなってきた。ちょっと外の風にあたってくる」
洋介もそのあとを追う。
○街のあちこち(深夜)
夜の町内を彷徨う二人。
市役所、公園、神社、駅、商店など。そこかしこで洋介と妻との思い出がフラッシュバックする。
〇市役所で婚姻届けを出す洋介と妻。
〇公園でブランコに乗る洋介と妻
〇神社でお祈り中に妻にカンチョーをされる洋介。
〇雨の日の駅。傘をもって向かいにきてくれた妻にカンチョーをする洋介。
〇人気ラーメン店の行列に並ぶ最中に知らない人にまちがえてカンチョーして笑う洋介と妻。 など
いろんな場所で立ち止まるたび、虚空をみつめる洋介。
同じ様子の順子。
○川の土手
夜が明け始めている。
順子は煙草の箱を、洋介は手にオレンジを持って、土手の階段に腰掛けている。
順子「わたし、間違ってた。あなたの言うことが、正しいと思う」
洋介「…そうかい」
順子「あなたの奥さんはオレンジになって、私の夫は煙草になった。ただそれだけのことなのよ」
洋介が頷く。
順子「だって私、何も悪いことしてないもの。捨てられるはずなんてない。他の女にとられるわけない。ただちょっと、宇宙人のいたずらに巻き込まれただけ。ね、そうでしょ」
洋介が頷く。
順子「ばっきゃろう。煙草になんかなりやがって。愛していたぞ」
順子が煙草の箱にキスをする。
それから、封をはずし、煙草を一本取り出して咥える。
順子「ねえ。ライターかしてくれない」
洋介「いいのかい」
順子「いいのよ、もう。煙と一緒に、ハイ、さようならよ」
順子がくすっと笑って煙草に火をつける。
洋介がオレンジの皮を剥き始める。
順子「あら、そっちこそいいの?」
洋介「いいんだよ。だってそのうち腐っちまう。それに、こいつも、愛する俺に食われるのが本望だろう」
酸っぱそうな顔でオレンジを食べる洋介と、むせながら煙草を吸う順子。
順子「ねえ、ひとつちょうだい」
順子が洋介の手からオレンジを一房つまみあげて口に入れ、すぐ煙草を吸う。
順子「うべー。ほんとだ、すごく不味い」
川の上の橋を、始発電車が騒がしく通り過ぎる。
河川敷のグランドに、運動着姿の若者たちが集まって、朝の挨拶をかわす声が聞こえる。
順子「また、一日がはじまるわね」
洋介「ちがうね。やっと、新しい一日がはじまるんだ」
かっこつけて言った直後に、洋介の腹がぐうと鳴る。
順子「あははは。もう朝ごはんの時間ね。どこかに食べに行きましょ」
順子が立ち上がり、まだ座ったままの洋介に手を差しのべる。
その手を握って洋介も腰をあげる。
互いの手を握ったまま、順子と洋介は、歩き始める。
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