ヨリシゲさんの思い出
20年程前に働いていた都内某所の小さな印刷会社は、その数年前に急逝した創業者の息子が脱サラして後を引き継いでいた。社員は営業と印刷工の男性ばかり6人、長年勤めていた事務のおばちゃんが郷里へ帰る事となり、たまたまあたしが派遣されたのだった。取引先は官公庁などおカタめな所が多く、独特な書式の書類とPCならぬoasysという若干特殊なワープロと格闘する日々。慣れぬ操作に四苦八苦していると、慌てんでいいからね、とよく声をかけて下さったのがヨリシゲさん。寅さん映画に出てくるような、チャキチャキ江戸っ子オヤジばかりの職場で、お坊っちゃま若社長の無茶振りワンマンぶりに唯一人物言いもせず、常に物腰の柔らかい白髪のジェントルマン。他のおじさん達からも、ヨリシゲさんは物知りだからよぉと信頼されていた。
ある夏の日、(若社長を除く)社員達の飲み会に誘われ、おじさん達のたわいもない冗談や身の上話を楽しんでいた時、そういえばヨリシゲさんのあちらのご家族は元気かい?という話になり、そこで初めて彼の奥さんや娘さんがアルゼンチンにいる事を知ったのだった。お酒が入っていつもより冗舌になったヨリシゲさん、その穏やかな人柄からは想像もつかなかった、ご自身の半生を訥々と語り始めた。
「はたち頃で血気盛んだったんだろうね、よし、一旗上げてやろうと思って南米行きの船に乗り込んだんだよ。ブエノスアイレスに着いたら、さっぱり言葉も分からない。語学学校なんて無いから近所の小学校に何年か通ったよ。勿論周りは遥かに年下で、そんな子達よりも出来なくて屈辱的だったけど仕方ない。そうやってスペイン語を覚えたよ。(中略)
現地で知り合った妻は日系人で、その家の苗字がYorishigeさん。つまり婿養子みたいになったんだ。その後僕が日本に帰る事になって、妻と娘達も一緒に来て東京で数年暮らしたんだけど、結局彼女達はアルゼンチンが恋しいと帰ってしまった。けれど僕もその方がいいと思った。何故なら、例えば妻と電車に乗ろうと僕が切符を2枚買おうとしたり、切符が機械に詰まったりした時に僕が説明したりすると、駅員はどうして彼女がやらないんだ?と怪訝な顔をする。妻は日本人の顔をしているけれど、日本語は殆んど読めないし話すのも苦手。僕はその気持ちが分かるし、(向こうでは助けて貰ったから)今度は僕の番。だけど妻はかなり傷ついていたようで、こう言った。日本は、いかにも欧米的な(金髪碧眼の)外国人に対しては言葉が出来なくても優しいけど、一見似ているワタシ達みたいなアジア系の外国人にはとても冷たい。ちょっとまごついていると、コイツ馬鹿なのか?という態度をされる。それが一番悲しかった。」
一応バイリンガルとなった娘さん達も学校で苦労したらしく、のびのびできるのはやっぱり南米だと、奥さんと一緒に帰国。以来、東京に残ったヨリシゲさんは印刷会社で働き続け、年に一度だけアルゼンチンの家族に会いに行くという生活を続けていたのだ。
「実は僕、来年の春で定年なんだ。そしたらもう、日本とはおさらば。早くアルゼンチンでのんびり楽しく暮らしたいなぁ。」
数ヶ月後にあたしが期間満了で辞め、また一度飲み会でもと誘われつつも何となく機会を逸したまま、いつしか音信不通に…。
20数年経った今でも時々、そういえばどうしておられるだろう?と、ふと彼の事を思い出す時がある。背広とネクタイをすっかり脱ぎ捨て、太陽が降り注ぐアルゼンチンでご家族やお孫さん達に囲まれ、満面の笑みを浮かべるヨリシゲさん、いや、ジョリシヘ(Yorishige)さんとして、人生を謳歌しておられるに違いない。いや、そう願いたいし、お元気でおられる事を心から祈っている。
(写真はJICA横浜 海外移住資料館常設展示の、南米日系人ファミリーの食卓イメージ。撮影可)
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