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ファミリーヒストリー(南野陽子さん編)

あの日は台風による大雨の時だったから10日程前になるけれど、先日久方ぶりにNHKファミリーヒストリーを観た。ご覧になった方もおられるかも。今回取り上げられたのは南野陽子さん。早逝した名古屋出身の某アイドルとは同級生、同世代として何となく気になりましてな。
そうしたら初っ端からドラマチックで、なかなかの流浪の一族、妄想族としてはかなり興味を惹かれた。(以下、ネタバレです)
父方曽祖父「南野」さんは元々はナンノさんで、兵庫・西脇で馬喰を生業にしておられたものの、博打ですってんてんになり大阪へ夜逃げ。その際にミナミノと名乗るようになったとか。遠縁にあたるおばあさまは今でも「ナンノ」さんだった。そして祖父兼松氏は小学校卒業後から働きに出て、結婚後に尼崎へ移り洋食屋をオープン。しかし夢を叶えた矢先に、兼松氏は41歳で急逝。残された薩摩おごじょのお祖母さまが急遽うどん屋に鞍替えし、懸命に働き家族を養った。(その長男英夫氏が就職した会社で、後に南野陽子さんの母となる久美子さんと出会う。)

一方、母方曽祖父「高田(タカタ)」さんは京都のご出身、洋服の仕立てを身に付け40過ぎてからカナダ移住を思い立つ。明治から大正へ移り変わる頃の当時、バンクーバーのパウエル街は既に日本街と呼ばれ、Takata Tailorは大いに繁盛した(2世野球チーム、バンクーバー朝日軍の写真の背景に店が写りこんでいる)。その後息子清太郎氏もバンクーバーへ移住、差別や偏見にもめげず腕の良いテイラーとして活躍、むしろ地元に溶け込もうと日本街ではないエリアに住み、結婚したトクさんと家庭を築いた。ところがアメリカの排日移民法(ジョンソン=リード法、1924年)の制定、その後の世界大恐慌(1929年)の影響、そして雲行きも怪しくなり、曽祖父亀治郎氏は日本へ帰国。清太郎氏は先に妻子を日本へ帰し、バンクーバーに数年留まるものの、結局彼自身も1941年(何月かは明示されていなかったけれど恐らく12月よりは前)に帰国。その後清太郎氏は商社に就職、当時日本の軍政下にあったマニラへ渡った。「また海外に行けてうれしいよ」と語るも、徴用され軍属となり、BBCラジオの傍受や翻訳をしていたという。その間に日本で三女久美子さん(陽子さんの母)が生まれ、清太郎氏は一時帰国を願っていたが戦況の悪化の為に叶わず、マニラから軍の拠点地ツゲガラオ(トゥゲガラオ)へ向かう途中、赤痢に倒れてしまう。享年47。女手ひとつで子供達を育て上げた妻トクさん、それでもバンクーバーにいた頃が一番楽しかったと親戚の人に言っていたという。

奇しくもどちらのファミリーも、時代の荒波に翻弄されつつ、ひたすら前向きに道を切り開いてきた方々だった。こうしたヒストリーを陽子さんは全く知らず、10数年前にご病気で亡くなられたお母さま久美子さん(陽子さん激似、今田耕司絶賛)、そして昨年亡くなられたお父さま英夫さんと、ほらこういう事があったんだって!と一緒に観たかったなとしみじみと語っていた。実際にお会いした事はないけれど、アイドル時代から割とはっきり自分の言葉でしゃべり、しっかりしつつも明るく愛嬌のある彼女の原点を見た気がして、とても面白かった。

ファミリーヒストリー、いつも観ている訳ではないが、これまで余貴美子さんや南果歩さんの回がとても記憶に残っていて、それぞれ時間軸も移動距離も想定外な激動のヒストリーだったけれど、状況は少し違えど今回もなかなかじわりと印象に残る回だった。ヒトの褌で何とやらではあるけれど、この番組を観ると、ヒトってそれまでの色んな人々の人生や思いのパーツから出来ているのだな、と改めて思うし、どの人生も愛おしくなってくる。たとえ今行き詰まっていたり、生きづらさを抱えていても(あたしみたいにブラックシープであっても😝)、誰かは自分と似たようなヒトがいたんだろうなぁ、なんて想像するのもよいかもしれないですな。

(NHKプラスやオンデマンドでアーカイブを観られるみたいです。愛知出身の大久保佳代子さんの回も気になる…)

この日系文化センター、バーナビーの日系カナダ人博物館にあるそうです。いつか行ってみたいなぁとぼんやり思っている博物館。

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